尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大津市「いじめ」問題②

2012年07月18日 23時41分36秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 続けて書くつもりが、暑くて暑くてバテてしまった。大津市の問題は、この間に賠償請求訴訟の公判や警察への告訴などの動きがあった。ますます書きにくい。どのような「犯罪行為」があったのか、なかったのか、もちろん僕には判らない。ましてや「自殺との関連性」は判断できない。そういう点は、もう学校を離れてしまったので、警察や裁判所で進められていく。僕は教育委員会や文部科学省と言う組織はあまり信用していないが、警察や裁判所はある意味でもっと信用していない。だから、裁判や警察で「真相」が解明されるとは期待してはいない。(裁判所や警察は、真相解明を目的とする組織ではない。だから真相を解明するなどと意気込まれたら、かえって困るけど。)警察が強制捜査(家宅捜索は強制捜査である)に乗り出した以上、何人か「児相送致」になる可能性が高いと判断しているのではないかと思うけれど。(「犯罪行為」の疑いが濃厚になっても、事件当時14歳未満だったというから、児童相談所へ送致することになる。)

 今日書きたいのは、昨年の10月5日にあったという「ケンカ事件」の問題である。このことが報道されたのを見ていると、「いじめを見抜けず「ケンカ」と認定して、(またはいじめを隠ぺいして)、いじめられている生徒を放置してしまったのではないか」というニュアンスが見受けられる。僕はそれは違うのではないかと思うが、しかし、この時貴重な瞬間を逃してしまったのではないかという思いはするのである。こういう時に、学校はどのような対応をすればいいのだろうか?

 僕がよくわからなかったのは、①ケンカと判断した会議がどのような性格のものかその会議が「15分」だったというのは短すぎると思うが、どうしてなのだろうかといったことである。真相は判らないが、教員経験者はどういう風に見るかという観点で、判らないことが多くても書いておく意味があるかなと思う。

 まず、「いじめ」か「ケンカ」かという問題だが、これはそれほど重要なことではないと思う。「いじめ」は重くて、「ケンカ」は軽いということは、学校現場では全くない。「いじめ」は言葉によるカラカイや仲間はずれが多いが、「ケンカ」は学校で暴力を振ったという大問題だから、むしろその後の指導は重くなることが多いのではないか。一過性のカラッとしたケンカは今ではほとんどなく、ケンカといってもいじめ的な部分(弱いものいじめ)が潜んでいることが多い。だから、これは単に報告上の分類をどちらにするかという事務的な問題として、「ケンカ」に分類したということだろう。

 いじめであれ、暴力事件(ケンカ)であれ、学校で起これば、統計上の数として年度でまとめて報告しなかればならない。(もちろん、大事件の際は直ちに教育委員会に報告するわけだが。)それは最終的に文科省でまとめて、だから「いじめが増えた」「減った」などの統計が報道されるわけである。そうすると、学校ごとに「いじめの定義」が違っていては統計が意味を持たなくなる。だから、当然文科省の定めた「いじめの定義」がある。管理職でもないと暗記はしてないかもしれないけど、そういうものがあるということは、現場教員は大体承知しているだろう。それは、文科省の「いじめ」のサイトを見ればすぐ出てくる。そして、知っている人も多いと思うけれど、平成18年度から「いじめの定義」が変わった

 旧定義は以下の通り。
 「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。」

 新定義は以下の通り。
 「本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
 「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「攻撃」「物理的な攻撃」とは何なのかというような問題に対しては、注があるが省略する。この定義を見ながら会議をするわけではないだろうが、一応のベースにこの定義があるわけである。一方性、継続性などの旧定義が消えた反面、本人がいじめられたと言ってるのに学校が認めないということがないような配慮は厚くなっている。そのため、本人のプライドなどで大丈夫、いじめではないと言い張ると、一回の出来事を見ているだけだと「いじめ認識」がしにくい場合があるのではないかと思う。

 カレンダーを調べると、昨年10月5日は水曜日である。普通、職員会議が開かれることが多いが、この日はどうだったのだろうか。職会は隔週の場合も多いと思うが、水曜は大体他の会議(研修等)が入ることも多いだろう。会議がある日なら、その日に生活指導問題が起これば、多忙きわまることになる。その日に、生徒の事情聴取、両者の保護者を呼んでの指導があったというから、それにずいぶん時間がかかっただろう。「ケンカと認定した15分会議」はその後だと言う。教師の会議は生徒のことだと延々と長くなるものなのに、15分だったのは、時間が遅くなったか、他の会議があったからだろう。だからだと思うけど、直接指導にあたる担任、学年主任、生活指導主任などの「関係教員会議」というインフォーマルな組織で話すということになってしまった。

 僕が気になるのは、このケンカがトイレであったとされることだ。事件の統計上の分類を「いじめ」にするか、「ケンカ」にするかは本質的な問題ではない。問題はその後の指導をどう進めていくかというアイディアである。「トイレで起こったケンカ」という事件は、教員だったら、それこそ「何か臭い」「何か臭う」という直観を持つのではないかと思う。肩が触れたというきっかけなら、廊下かなんかで起こるだろう。貸したゲームを返してよというようなきっかけなら、教室で起こっても不思議ではない。ケンカであれ、いじめであれ、当日暴力行為があったわけだけど、その「きっかけ」として生徒が述べたのはなんなのだろう。まさか「連れション」してて口論になったわけでもないだろう。生徒が何を言っても、教員だったら、「教室で言えないことを言うために、トイレに呼び出した」ことを疑うのではないかと思う。喫煙が代表だが、恐喝までいかなくても、「パシリ」に使うような関係は、トイレで形成されることが多い。「事件はトイレで起こる」のである。中学や高校の教員の大きな仕事の一つが、トイレの見回り。

 そういうことは当然、滋賀県でも同様ではないかと思うのだが、だからこそ、その事件の直後の指導がどうだったか。悔やまれるところである。校長は、当日事件を連絡した生徒に事情を聞かなかったのはミスと述べたようだが、これはケンカしている生徒を確保できたら、なかなか見ていた生徒の事情聴取は当日は時間的にもできないだろう。だから、問題は僕の考えでは、事件後にもう少し周りの生徒や家庭の事情を聞く(親にもう一回来てもらい、じっくり家庭の様子を聞くなど。場合によっては家庭訪問も。)機会があった方が良かったと思う。あったのかもしれないが。それを今僕が書く理由は、ただ一点「トイレで事件が起きた」ことである。

 具体的には、学年会や生活指導部会だけではなく、もう少し広い会議の設定が有効なのではないか。学校の会議は、全員で行う「職員会議」、学年の正副担任による「学年会」、校務分掌ごとに行う「分掌部会」(この場合は、生活指導事案なので「生活指導部会」の担当になる)が中心である。また、同じ教科教員による「教科会」などもあるし、「○○委員会」というのもたくさんある。(「防災委員会」など。)この学校で行われた道徳研究にあたっては、多分「研究推進委員会」のようなものが組織されたのではないかと思う。そういう風に、学校では毎日のように会議が行われ、今では「情報公開」だから、全部書類を整えておかなくてはならないので、書類作りに忙殺されているわけである。でも、個々の事件を検討する場合は、学年や生活指導部が中心になるのは当然だが、学年以外の教師や養護教諭が非常に重要な情報を持っていることが多い。できるだけ多くの人の目でみると、点でしかなかったものが面に見えてくることも多い。

 だから、生徒関係では、「できるだけ多くの教員で話し合う」ことが大事だと思う。でも、教えていない他学年の教員には本人の名も知らない場合も多い。そういう人も含めて全員出席を義務付けると、無意味に多忙を助長することになる。ある生徒や事件に関して情報収集、指導案検討を行う集まりを、最近はよく「ケース会」と呼ぶのではないかと思う。(医療や福祉関係から来た言葉だろうか。)この「ケース会」を「拡大ケース会」として開くようにするといい。今回の場合は、いろいろと忙しかっただろうけど、7日(金曜だから多分学年会の日かな)か、10日に開くようにする。その間に、できるだけ担任ともう一人(学年主任か生活指導主任か教頭)が家庭訪問して臨む。「拡大ケース会」の出席者は、学年教員と生活指導部、および養護教諭は必須。それに、その生徒を教えている教員や部活、委員会などで知っている教員の中で出席できるものはできるだけ出るという感じ。そういう提案がどこかからあったら良かったのではないかと思う。もし似たような場合があったら、一日程度を他の生徒の事情聴取に当てて、その後に「拡大ケース会」を開くのがいいというのが、僕の考えである。その場にいたら提案できたかどうかは判らないけれど。

 僕が具体的なことを書いてても仕方ないので、今後は「いじめ一般論」に論点を移してまた少し書きたいと思う。なぜなら、「いじめ問題の語られ方」には今の教育論議がよく表れていると思うからである。「いじめ」を解決したいと思うならば、「教員いじめ」の政策をまず転換する必要がある。また、「少数者の声を敏感に受け止められるアンテナの感度」を教員が上げていくと言う問題にもつながっていくからである。
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