小津安二郎監督の映画について、何本か見直した感想。中身を論じる前に、まず映像としての特徴。昨年、小津生誕110年記念で、国立フィルムセンターが松竹と協力してカラー作品のデジタル修復を行った。小津のカラー作品は、1957年の「彼岸花」以降の6本である。そのうち、大映で撮った「浮草」(1959)、宝塚映画で撮った「小早川家の秋」(1961)を除き、松竹で撮った「彼岸花」(1957)、「お早う」(1959)、「秋日和」(1960)、「秋刀魚の味」(1962=さんまのあじ)の4本でなる。
これらの作品は最近でもよく上映されていた。鑑賞に大きな妨げとなるほどの損傷はなかったと思っていた。2年前に「秋日和」を再見したが、問題は感じなかった。非常に厳しい状態にある戦時中の「父ありき」など、他にデジタル修復して欲しい作品がある。それでも、修復のデモ映像を見ると、画像の傷や飛びが予想以上に多かった。昔のカラー映画の最大の問題は「褪色」だ。一般的な色あせというより、青系が抜けて画面全体が赤っぽい映像になることが多い。チラシにある「秋刀魚の味」のタイトル画面を見ると、こんなに違っていた。(左が修復前、右が修復後。)

いやあ、こんなに違っていたのか。もっとも公開当時を知らないから、見ていても何も感じなかったわけだ。こうして「甦った小津カラー」に何を感じ取るのか。今回の修復は500年間維持できる技術だと解説されていた。解説担当者によれば「美術品としての小津映画」、一つ一つの場面が磨き上げられた美術的な価値を持つことが、今までにも増してはっきりとしたと述べていた。
「彼岸花」を最初に見た人はみな驚くだろう「赤いやかん」など、現実にはありえない家具・調度品の数々、それらの美術的魅力が今まで以上にはっきりした。実際に美術品を画面にたくさん配置している。今までは人物の会話に気を取られて背後の絵画などきちんと見ていなかったが、多くの巨匠の実物が展示されていたのだ。「秋日和」で使われた橋本明治「石橋」は、現在フィルムセンターで行われている展覧会で展示されている。
一つ一つの画面の構図も練り上げられている。俳優の動きを得心が行くまで撮り直したことは有名だ。そうして作り上げられた画面が、リズムよく編集されている。この会話やカメラ配置、編集技術などのリズムはまことに快適で、何度見ても飽きない。中身がほとんど同じような映画なのに、なぜ何度見ても飽きないのか。自分でも不思議だったけれど、小津映画は中身ではなくリズムということだろう。小津に限らず、また映画に限らず、芸術にもっとも大事なものは、リズムなんだと思う。
小津映画と言えば「ローアングル」。加藤泰の映画を見ると、もっととんでもないローアングルが出てくるが、今まで小津調の代名詞とも言われてきたのが、カメラの低さである。でも世界が小津映画に慣れてしまうと、今では小津映画を見ていてもそれほどローアングルを感じない時も多い。小津映画の画面構成は、美的なリズムを作り出すことが目的で、観客を驚かせたり、俳優を際立たせたり、ましてや世界観の表明などではなかった。慣れてしまえば、特に違和感を感じない。
「秋刀魚の味」に使われた小道具(中華料理屋の看板やトンカツ屋前のポリバケツ)がフィルムセンターに展示されている。それを写真に撮ってみると、やはりものすごく下から撮っていることが判る。一番左が立って撮った写真、次が座って撮った写真、最後が胸のあたりに置いて屈んで撮った写真。4枚目の解説を見れば判るが、実際の映画の画面は僕の胸のあたりよりさらに下から撮っていた。

美術的な魅力が増した小津映画だけど、そのことは良いことばかりではないと思う。今まで映画は時間と共にフィルムが損傷するのは仕方ないと思われていた。(ニュープリントを焼き直せば、直後は解決するが。)名画座で古い映画を見る際は傷や褪色をガマンしていたのである。タランティーノらが作った「グラインドハウス」シリーズでは、わざと画面が飛んだり、雨音のような傷がついていて、それがB級映画へのオマージュとなっていた。(どうせジョークで作った映画なんだから、ジョークでデジタル修復してみたら面白いと思うけど。)あまりにきれいによみがえった小津映画では、「高踏的性格」が増加した。小津映画も長い間にたくさん作られたが、末期には東京の中産階級の家族問題ばかりを描いている。その「余裕」ある映画作りがどうにもなじめないという人もいると思う。
小津映画では音楽があまり触れられないが、「お茶漬けの味」以後の作品では、ほぼ斉藤高順(さいとう・たかのぶ 1924~2004)が務めている。航空自衛隊の「ブルー・インパルス」を作曲したことから航空自衛隊の音楽隊に招かれたという経歴がウィキペディアに掲載されている。「お早う」と「小早川家の秋」だけが黛敏郎で、その事情は判らないが、そこに違いはあるのだろうか。黛敏郎を初め、戦後日本の「現代音楽」の旗手たちは、ほとんどが映画マニアでずいぶん映画音楽を担当している。そういう映画では、画面が非常に強い緊張感を持っていて、音楽も映像に対峙する力強い音を発している。一方、斉藤による小津映画の音楽は、耳に快い、まさに「伴奏」に徹している。磨きこまれた映像と「対立」するのではなく。そこが何か、小津映画の古さ、「大船映画」の限界を感じさせる部分だ。
これらの作品は最近でもよく上映されていた。鑑賞に大きな妨げとなるほどの損傷はなかったと思っていた。2年前に「秋日和」を再見したが、問題は感じなかった。非常に厳しい状態にある戦時中の「父ありき」など、他にデジタル修復して欲しい作品がある。それでも、修復のデモ映像を見ると、画像の傷や飛びが予想以上に多かった。昔のカラー映画の最大の問題は「褪色」だ。一般的な色あせというより、青系が抜けて画面全体が赤っぽい映像になることが多い。チラシにある「秋刀魚の味」のタイトル画面を見ると、こんなに違っていた。(左が修復前、右が修復後。)


いやあ、こんなに違っていたのか。もっとも公開当時を知らないから、見ていても何も感じなかったわけだ。こうして「甦った小津カラー」に何を感じ取るのか。今回の修復は500年間維持できる技術だと解説されていた。解説担当者によれば「美術品としての小津映画」、一つ一つの場面が磨き上げられた美術的な価値を持つことが、今までにも増してはっきりとしたと述べていた。
「彼岸花」を最初に見た人はみな驚くだろう「赤いやかん」など、現実にはありえない家具・調度品の数々、それらの美術的魅力が今まで以上にはっきりした。実際に美術品を画面にたくさん配置している。今までは人物の会話に気を取られて背後の絵画などきちんと見ていなかったが、多くの巨匠の実物が展示されていたのだ。「秋日和」で使われた橋本明治「石橋」は、現在フィルムセンターで行われている展覧会で展示されている。
一つ一つの画面の構図も練り上げられている。俳優の動きを得心が行くまで撮り直したことは有名だ。そうして作り上げられた画面が、リズムよく編集されている。この会話やカメラ配置、編集技術などのリズムはまことに快適で、何度見ても飽きない。中身がほとんど同じような映画なのに、なぜ何度見ても飽きないのか。自分でも不思議だったけれど、小津映画は中身ではなくリズムということだろう。小津に限らず、また映画に限らず、芸術にもっとも大事なものは、リズムなんだと思う。
小津映画と言えば「ローアングル」。加藤泰の映画を見ると、もっととんでもないローアングルが出てくるが、今まで小津調の代名詞とも言われてきたのが、カメラの低さである。でも世界が小津映画に慣れてしまうと、今では小津映画を見ていてもそれほどローアングルを感じない時も多い。小津映画の画面構成は、美的なリズムを作り出すことが目的で、観客を驚かせたり、俳優を際立たせたり、ましてや世界観の表明などではなかった。慣れてしまえば、特に違和感を感じない。
「秋刀魚の味」に使われた小道具(中華料理屋の看板やトンカツ屋前のポリバケツ)がフィルムセンターに展示されている。それを写真に撮ってみると、やはりものすごく下から撮っていることが判る。一番左が立って撮った写真、次が座って撮った写真、最後が胸のあたりに置いて屈んで撮った写真。4枚目の解説を見れば判るが、実際の映画の画面は僕の胸のあたりよりさらに下から撮っていた。




美術的な魅力が増した小津映画だけど、そのことは良いことばかりではないと思う。今まで映画は時間と共にフィルムが損傷するのは仕方ないと思われていた。(ニュープリントを焼き直せば、直後は解決するが。)名画座で古い映画を見る際は傷や褪色をガマンしていたのである。タランティーノらが作った「グラインドハウス」シリーズでは、わざと画面が飛んだり、雨音のような傷がついていて、それがB級映画へのオマージュとなっていた。(どうせジョークで作った映画なんだから、ジョークでデジタル修復してみたら面白いと思うけど。)あまりにきれいによみがえった小津映画では、「高踏的性格」が増加した。小津映画も長い間にたくさん作られたが、末期には東京の中産階級の家族問題ばかりを描いている。その「余裕」ある映画作りがどうにもなじめないという人もいると思う。
小津映画では音楽があまり触れられないが、「お茶漬けの味」以後の作品では、ほぼ斉藤高順(さいとう・たかのぶ 1924~2004)が務めている。航空自衛隊の「ブルー・インパルス」を作曲したことから航空自衛隊の音楽隊に招かれたという経歴がウィキペディアに掲載されている。「お早う」と「小早川家の秋」だけが黛敏郎で、その事情は判らないが、そこに違いはあるのだろうか。黛敏郎を初め、戦後日本の「現代音楽」の旗手たちは、ほとんどが映画マニアでずいぶん映画音楽を担当している。そういう映画では、画面が非常に強い緊張感を持っていて、音楽も映像に対峙する力強い音を発している。一方、斉藤による小津映画の音楽は、耳に快い、まさに「伴奏」に徹している。磨きこまれた映像と「対立」するのではなく。そこが何か、小津映画の古さ、「大船映画」の限界を感じさせる部分だ。