goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

美術品として-小津映画の話②

2014年03月05日 22時54分34秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津安二郎監督の映画について、何本か見直した感想。中身を論じる前に、まず映像としての特徴。昨年、小津生誕110年記念で、国立フィルムセンターが松竹と協力してカラー作品のデジタル修復を行った。小津のカラー作品は、1957年の「彼岸花」以降の6本である。そのうち、大映で撮った「浮草」(1959)、宝塚映画で撮った「小早川家の秋」(1961)を除き、松竹で撮った「彼岸花」(1957)、「お早う」(1959)、「秋日和」(1960)、「秋刀魚の味」(1962=さんまのあじ)の4本でなる。

 これらの作品は最近でもよく上映されていた。鑑賞に大きな妨げとなるほどの損傷はなかったと思っていた。2年前に「秋日和」を再見したが、問題は感じなかった。非常に厳しい状態にある戦時中の「父ありき」など、他にデジタル修復して欲しい作品がある。それでも、修復のデモ映像を見ると、画像の傷や飛びが予想以上に多かった。昔のカラー映画の最大の問題は「褪色」だ。一般的な色あせというより、青系が抜けて画面全体が赤っぽい映像になることが多い。チラシにある「秋刀魚の味」のタイトル画面を見ると、こんなに違っていた。(左が修復前、右が修復後。)
 
 いやあ、こんなに違っていたのか。もっとも公開当時を知らないから、見ていても何も感じなかったわけだ。こうして「甦った小津カラー」に何を感じ取るのか。今回の修復は500年間維持できる技術だと解説されていた。解説担当者によれば「美術品としての小津映画」、一つ一つの場面が磨き上げられた美術的な価値を持つことが、今までにも増してはっきりとしたと述べていた。
 
 「彼岸花」を最初に見た人はみな驚くだろう「赤いやかん」など、現実にはありえない家具・調度品の数々、それらの美術的魅力が今まで以上にはっきりした。実際に美術品を画面にたくさん配置している。今までは人物の会話に気を取られて背後の絵画などきちんと見ていなかったが、多くの巨匠の実物が展示されていたのだ。「秋日和」で使われた橋本明治「石橋」は、現在フィルムセンターで行われている展覧会で展示されている。

 一つ一つの画面の構図も練り上げられている。俳優の動きを得心が行くまで撮り直したことは有名だ。そうして作り上げられた画面が、リズムよく編集されている。この会話やカメラ配置、編集技術などのリズムはまことに快適で、何度見ても飽きない。中身がほとんど同じような映画なのに、なぜ何度見ても飽きないのか。自分でも不思議だったけれど、小津映画は中身ではなくリズムということだろう。小津に限らず、また映画に限らず、芸術にもっとも大事なものは、リズムなんだと思う。

 小津映画と言えば「ローアングル」。加藤泰の映画を見ると、もっととんでもないローアングルが出てくるが、今まで小津調の代名詞とも言われてきたのが、カメラの低さである。でも世界が小津映画に慣れてしまうと、今では小津映画を見ていてもそれほどローアングルを感じない時も多い。小津映画の画面構成は、美的なリズムを作り出すことが目的で、観客を驚かせたり、俳優を際立たせたり、ましてや世界観の表明などではなかった。慣れてしまえば、特に違和感を感じない。

 「秋刀魚の味」に使われた小道具(中華料理屋の看板やトンカツ屋前のポリバケツ)がフィルムセンターに展示されている。それを写真に撮ってみると、やはりものすごく下から撮っていることが判る。一番左が立って撮った写真、次が座って撮った写真、最後が胸のあたりに置いて屈んで撮った写真。4枚目の解説を見れば判るが、実際の映画の画面は僕の胸のあたりよりさらに下から撮っていた。
   
 美術的な魅力が増した小津映画だけど、そのことは良いことばかりではないと思う。今まで映画は時間と共にフィルムが損傷するのは仕方ないと思われていた。(ニュープリントを焼き直せば、直後は解決するが。)名画座で古い映画を見る際は傷や褪色をガマンしていたのである。タランティーノらが作った「グラインドハウス」シリーズでは、わざと画面が飛んだり、雨音のような傷がついていて、それがB級映画へのオマージュとなっていた。(どうせジョークで作った映画なんだから、ジョークでデジタル修復してみたら面白いと思うけど。)あまりにきれいによみがえった小津映画では、「高踏的性格」が増加した。小津映画も長い間にたくさん作られたが、末期には東京の中産階級の家族問題ばかりを描いている。その「余裕」ある映画作りがどうにもなじめないという人もいると思う。

 小津映画では音楽があまり触れられないが、「お茶漬けの味」以後の作品では、ほぼ斉藤高順(さいとう・たかのぶ 1924~2004)が務めている。航空自衛隊の「ブルー・インパルス」を作曲したことから航空自衛隊の音楽隊に招かれたという経歴がウィキペディアに掲載されている。「お早う」と「小早川家の秋」だけが黛敏郎で、その事情は判らないが、そこに違いはあるのだろうか。黛敏郎を初め、戦後日本の「現代音楽」の旗手たちは、ほとんどが映画マニアでずいぶん映画音楽を担当している。そういう映画では、画面が非常に強い緊張感を持っていて、音楽も映像に対峙する力強い音を発している。一方、斉藤による小津映画の音楽は、耳に快い、まさに「伴奏」に徹している。磨きこまれた映像と「対立」するのではなく。そこが何か、小津映画の古さ、「大船映画」の限界を感じさせる部分だ。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・アラン・レネ

2014年03月05日 00時01分52秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督、アラン・レネ(1922~2014)が3月1日に亡くなった。91歳。僕には思い出深い監督なので追悼文を書いておきたい。亡くなるまで現役の映画監督で、なんと今年のベルリン映画祭で新作が上映されている。マノエル・ド・オリヴェイラや新藤兼人になるのかと思っていたら、さすがに100歳を超える映画監督というものは難しい。

 でも、アラン・レネが世界映画のもっとも先鋭的な監督だったのは、ずいぶん前の話。キネマ旬報ベストテンには、「二十四時間の情事」(1959、7位)、「去年マリエンバードで」(1964、3位)、「戦争は終わった」(1967、3位)が入選しているが、半世紀ほども前の話である。最近もずいぶん公開されているが、あまり強い印象はない。晩年のフェリーニや黒澤明のように、まあ見ればそれなりに面白くないこともないのだが、全盛期には遠い作品群が作られていたと思う。

 マスコミ報道では「ヌーヴェルヴァーグ」と書いてあるものもあったが、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の定義次第だから間違いとも言えないが、本来は「ヌーヴェルヴァーグの先駆者」と言うべきだと思う。50年代末に映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に集う若い批評家(シャブロル、ゴダール、トリュフォーなど)が一斉に映画作りを始めて注目を集めたから、「波」というわけである。でもアラン・レネは1948年に作った短編記録映画「ヴァン・ゴッホ」がアカデミー賞短編映画賞を取っているのだから、キャリアはずっとずっと早い。しかし、「新しい」という方で見れば、確かにアラン・レネの映画はそれまでのフランス映画に多かった感傷的な文芸映画ではなく、知的でドキュメンタリー風な作風だった。アニェス・ヴァルダやクリス・マルケルなどとともに、よく「セーヌ左岸派」と呼ばれて、50年代半ばから非商業主義的な作家の映画を作り出していた一員ということになる。

 アラン・レネのテーマはほぼ一貫して「記憶」だと思う。「時間」と呼んだり「歴史認識」と呼んでもいいかもしれない。1955年に作ったナチスの強制収容所に記録映画「夜と霧」で世界的に注目され、1959年には初の劇映画「二十四時間の情事」を作った。これは邦題では判らないが、マルグリット・デュラスの脚本の邦題は「ヒロシマ、私の恋人」(原題 Hiroshima mon amour)である。前年の58年に来日して広島ロケをして作った。岡田英次とエマニュエル・リヴァが広島で恋仲となり、街の様子を見て回る。そして「広島で何を見たか」をめぐって語り合う。岡田英次は「あなたは広島で何も見なかった」と語る。エマニュエル・リヴァはやはり戦中戦後の過去を回想する。(エマニュエル・リヴァと言っても長く忘れられていたが、この人はミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」のあの老女で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。)

 このようにアラン・レネは、早くも50年代において「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」をともに取り上げた映画作家なのだが、そこでは政治的な告発ではなく、思想的な懐疑でもなく、「われわれは過去の記憶をいかに認識できるか」がテーマになっていた。その当時は考えられもしなかっただろうが、その後「ホロコーストはなかった」などという「歴史修正主義」が世界的に登場して、「記憶をめぐる闘い」が重大な思想課題になることを先取りしていたと思う。それはさらに一般化された形で「去年マリエンバードで」(1961)に結実する。これはアラン・ロブ=グリエの脚本の映画化で、ロブ=グリエは黒澤の「羅生門」に影響されたという話である。男と女が温泉地マリエンバードで会うが、男は「去年会った」と言うが女は「知らない」と言う。それだけのような映画だけど、一体、「客観的真実」とは何なのだろうかと深く考えさせるような痛切な情感に満ちている。

 もっとも以上の2作とも、難解である意味では不毛な言葉の応酬が延々と続く中で、いわゆる「物語」的な展開を見せない。僕が映画ファンになった頃には、アラン・レネと言う監督は「伝説的な難解映画を作る人」と思われていた。でも、今でも「1937年12月、南京で何が起こったか」「いや、何も起こらなかった」などと言った「不毛な論争」は現実に続けられている。何も感じることが出来なければ「2011年、フクシマで何も起こらなかった」とさえ言えてしまうのではないか。そうでなければ、原発を「ベースロード電源」などと言えないだろう。「記憶をめぐる闘い」は今でも世界各地で続いていて、アラン・レネ映画のアクチュアリティは失われていない。

 続いて作った「ミュリエル」(1963)は、日本公開が1974年となり僕が初めて見たレネの映画である。ここでもアルジェリア戦争での過去の記憶がテーマとなっている。画面は静かながら常に緊迫していて、美しい映像が続く。僕はこういう静かで思索的な映画が基本的に好きなので、いっぺんで気に入った。アラン・レネ映画(特に初期)は難解だという定評があったが、「二十四時間の情事」も「去年マリエンバードで」も画面が非常に美しく、画面を見ていて陶酔できる。特に「去年マリエンバードで」は一度見るとシンメトリカルな構図が忘れられない。1966年の「戦争は終わった」はスペイン内戦と現代の反フランコ運動家の物語で、過去の戦争の記憶と言う意味では共通している。しかし、映画は過去をめぐる抽象的思索ではなく、現実の革命家の日常を描く物語性が今までより強い。この映画の脚本を書いた作家、ホルヘ・センプルンが実際に内戦でスペインを去り、ナチスの収容所経験があるということもあるんだろうと思う。アラン・レネが一番面白かったのはここまで。

 その後は未公開映画も多くなる。1974年の「薔薇のスタビスキー」が30年代の政界スキャンダルをジャン・ポール・ベルモンド主演で華麗に描いた娯楽大作で、話題になったし面白くもあったけど、大分変った印象があった。「プロビデンス」(1977)、「アメリカの伯父さん」(1980)などまでは、なかなか刺激的な映画だった。近年の「恋するシャンソン」(1997)、「巴里の恋愛協奏曲」(2006)、「風にそよぐ草」(2009)などになると、まあ見てはいけないわけではないが、ごく普通のフランス映画で「昔の名前で出ています」という印象が強かった。しかし、まあ僕も一応律儀に見に行ったのである。好きな映画監督は最後まで見ておきたいから。でも、まあかなり長く見ても1980年頃までの映画作家だったと思う。それでも映画を作り続け一定のレベルは維持したのだからあ、そこはすごい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする