小津映画を見ていると、そこに高度成長以前の日本人の暮らしが保存されていて、非常に懐かしい気持ちになってくる。懐かしいといっても自分でも知らない世界なんだけど、「初めてだけど懐かしい」という感情である。「東京物語」では、原節子が笠智衆や東山千栄子(義父母)に対してうちわをあおいでいる場面が心に残る。やがて扇風機が、そしてクーラーが登場すると、そういうことをする必要自体なくなってくる。そして、日本人はそういう電気機具を50年代半ば以後、喜んで家庭に導入していった。
「彼岸花((1957)では、田中絹代の妻がラジオで謡曲を聞くのを楽しみにしていると、佐分利信の夫が機嫌が悪くて、うるさいと勝手に切ってしまうシーンがある。佐分利信や笠智衆が演じることが多い小津映画の主人公は、それなりに知られた大企業で働いていることが多い。しかし、「彼岸花」の段階ではまだテレビや掃除機はないのである。家事は誰がやっているかというと、「お手伝いさん」(それまでは「女中」だった)がいるのである。
それが1959年の「お早う」になると、子どもたちがテレビを買ってくれとうるさく笠智衆の父にねだる。黙ってろと一喝されて、じゃあ「大人には口をきかない」というレジスタンスを開始する。近所に昼間からパジャマ姿でテレビを見ているカップルがいて、そこにいけばテレビを見せてもらえる。お目当ては大相撲の若乃花(初代)である。笠智衆は酒場で知人と「一億総白痴化ですな」などと世間話をしている。この言葉は評論家の大宅壮一が主張して当時大きな話題になっていた。テレビが普及すると日本人の文化が低下するという意見である。でも、結局子どもたちのためにテレビを買うことになる。(子ども対策だけではなく、近所の電気屋で買ってあげた方がいい事情も裏ではある。)
1962年の「秋刀魚の味」になると、佐田啓二の夫が岡田茉莉子の妻にせっつかれて、電気掃除機を買うための手付金を笠智衆の父に借りにくる。日本社会の電気機具の普及のスピードを、小津映画の中に見ることができる。そのように小津映画二は日本社会の変貌が刻印されていて、そこに「高度成長と日本人」という映像社会学的なテーマを見つけることができる。ただし、小津映画は会社製作の劇映画だから、一定のコードに規定されている。まずはその解読が丁寧になされる必要があるだろう。
映画内の社会的コードというのは、例えばアメリカ映画「十二人の怒れる男」を例にとると、当初のシドニー・ルメット監督映画(1957)では、「陪審員が全員白人男性」となっている。しかし、1997年のウィリアム・フリードキン(「フレンチ・コネクション」の監督)が演出したテレビドラマでは、陪審員や裁判官に黒人、ヒスパニック、女性が含まれている。現実のアメリカ社会の変化を反映し、「政治的に正しくない」設定は変えられたのである。ところがロシアのニキータ・ミハルコフが翻案した「12人の怒れる男」(2007)では再び男性ロシア人のみが陪審員を務めている。それぞれの設定は製作された社会における「映画に求められる規範意識」を反映しているのは間違ない。
小津映画の場合は、戦後においてはほとんど「娘の縁談」(あるいは「妹の縁談」)なので、戦後社会の中産階級における「結婚のコード」を反映している。「彼岸花」、「秋日和」、「秋刀魚の味」に共通するのは、「結婚は本来親の紹介で相手を選ぶのが、つり合いなどを考えると望ましい」けれど、中産階級では高校または短大を卒業した後に女性も就職するので、そこで「女性にも社内結婚などの機会がある」という現実である。結婚は家どうしのもので「見合い結婚」が主流というのは当時の社会の反映だけど、その時の見合い相手は女どうしの間で世話焼きがあっせんすることも多かった。しかし、この3本の映画では、「父親が結婚相手を自分の友人関係のネットワーク内で探す」というのが特徴である。
父親はそれなりの会社の役員であり、旧制中学、旧制高校、あるいは旧制大学以来の強固な友人関係を維持している。彼らは今でもよく集まり飲んだりする関係である。共通の知り合いが多いから、結婚式や葬式も共通なのである。その仲間は映画ごとに多少違うが、基本的に中村伸郎と北竜二がいつもいる。同窓会シーンなどには、当時実業家というか、売春や麻薬防止運動でも知られた一種のフィクサー菅原通済がワンシーンぐらい出てくるのも共通している。「彼岸花」のラスト近くでは、旧制中学の同窓会が蒲郡で行われ、笠智衆が詩吟を披露している。蒲郡でやったのは、東京と大阪にメンバーがいるから中間でやるということだとされている。
一方、娘の方は基本的には「短大を出て、一流企業に結婚退職まで務めている」ということだと思う。「秋日和」では娘の司葉子と友人の岡田茉莉子が、結婚した友人千之赫子が新婚旅行に行く列車を見ようと屋上に出る場面がある。そこから丸の内の中央郵便局が下に見えるので、三菱ビルのあたりのはずである。見合い相手にも恵まれるだろうが、娘本人も結婚相手を探しやすい職場にいたのだ。
特に「秋日和」が典型だが、男同士のつながりで「結婚相手を探すゲーム」をしている感じがする。この映画では佐分利あるいは笠の娘ではなく、今は亡き友人の娘司葉子をそろそろ嫁に出したらどうかという話なのである。その場合母親の原節子も一緒に再婚させてはどうか。かつての原節子の夫は佐分利、中村、北と東大と思われる大学時代に近くの薬局の看板娘原節子を争った間柄だった。ただし、佐分利信には三宅邦子、中村伸郎には沢村貞子の妻がいる。一方、大学教授の北竜二は妻を亡くしてヤモメ暮らしが長いので、どうだ母親の方と再婚してはと勝手に話が男同士で進む。最初の場面がその友人の年忌なのだが、その後料亭で飲んで「母親の方がいいね」などと言いあっている。本人がいないとはいえ、セクハラに近い発言が連発するシーンである。
(「秋日和」のバー)
このような「男同士の関係」が基本となり、結婚相手が決められていくという「ホモソーシャルな世界」が展開していくのである。「ホモソーシャル」というのは、体育会系などによくある男同士の関係が何より優先する同質的社会のあり方を指す用語である。間違って「ホモセクシャル」と勘違いする人がいるが、反対に表面的には「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)になることが多い。最近ではデンマーク映画「偽りなき者」に出てくる男だけの狩猟シーンが典型である。アメリカの保守的な地方が出てくる映画でも、よく出てくる設定だ。「家父長制」とも似ているが、単に家父長が威張っているだけではなく、男同士の社会的関係が重視される。
小津映画ではこの「ホモソーシャルな世界」が称賛されているわけではない。むしろ女たちの反発を買い、相対化されている。料理屋の女将(大体、高橋とよ)などはカラカイの対象となっているが、映画の主筋の方ではいかに女たちが反撃するかが見どころとなっている。「彼岸花」では娘有馬稲子と佐田啓二の結婚をかたくなに認めず、一方「秋日和」では勝手に司葉子と原節子の二重縁談を進めていく。しかし「彼岸花」では山本富士子が、「秋日和」では岡田茉莉子が現われて、映画空間をかく乱して、男の勝手を弾劾する。山本富士子、岡田茉莉子は、いつもは主演している女優だけど、小津映画の助演で儲け役を演じている。「彼岸花」では有馬稲子と山本富士子は「親の強制に抵抗する同盟」を事前に結んでいる。山本富士子も縁談に固執する母親の浪花千栄子に辟易していたのである。このような「女縁ネットワーク」の活躍こそが、この映画の真のテーマではないかと思われるほどだ。
(「彼岸花」)
日本の社会では、国会議員や大企業の役員には先進各国に比べて女性が非常に少ない。スポーツや文化面で女性の活躍が目立っているが、逆に言えばそういう世界しか女性に開かれていないとも言える。しかし、それは女性に実権が全くないということではない。子どもの学校生活、進学や就職、結婚相手選びなどは、父親が長時間労働や単身赴任で相談に乗る時間が少ない事情もあり、子どもに密着できる母親の役割が大きい。一応、「最終的承認権」のようなものが父親にあることになっていても、事実上本人と母親が同意していれば、父親は事後承認するしかないというのが実情だ。「彼岸花」の佐分利信はまさにその通りになって、認めないと振りかざした拳のメンツ問題が残るけど、田中絹代の母親が認めてしまえば渋々同意するしかないのである。
しかし、そのような展開も見る者には予想の範囲内だろう。「彼岸花」は有馬稲子と佐田啓二、「秋日和」は司葉子と佐田啓二というキャスティングを見れば、最終的に観客が祝福する形で終わるのは判っている。原節子も「再婚しない」という役柄を演じてきたので、予想通り再婚はしないという運びとなる。そこまでに至る話の運び具合の練達こそが見所で、先に書いた山本富士子や岡田茉莉子が映画の美味しい場面をさらって行って、男の思惑は粉砕されて、ラストに祝福された結婚が待っている。「結婚という制度」あるいは「異性愛という前提」を疑う時代ではなかった。
小津映画は親の古風な世代と子の新世代を、余裕を持って暖かく見つめてコメディタッチで描くホームドラマになる。この「余裕ある眼差し」こそが、「東京物語」で到達した最終段階の小津の境地だろう。菅原通済に象徴される「鎌倉文化人」の一員となった小津は、晩年の映画は小説家里見弴(さとみ・とん)の映画化が多い。里見は有島武郎、有島生馬の実弟で、小津映画のプロデュ―サーだった山内静夫の父親でもある。文化勲章を受章した作家で、鎌倉に住んでいた。このような人脈を見ると、戦後、武者小路実篤、安倍能成らが創刊した雑誌「心」グループに近い場所に小津安二郎はいたのではないか。つまり「戦時中は反軍部」「戦後は反左翼」という位置である。「保守リベラル」で、文化的保守主義の立場である。このあたりは、細かく分析する蓄積がないが、小津安二郎の思想をもっと検討したうえで、小津映画に見られる日本社会の特徴を分析する必要がある。
「彼岸花((1957)では、田中絹代の妻がラジオで謡曲を聞くのを楽しみにしていると、佐分利信の夫が機嫌が悪くて、うるさいと勝手に切ってしまうシーンがある。佐分利信や笠智衆が演じることが多い小津映画の主人公は、それなりに知られた大企業で働いていることが多い。しかし、「彼岸花」の段階ではまだテレビや掃除機はないのである。家事は誰がやっているかというと、「お手伝いさん」(それまでは「女中」だった)がいるのである。
それが1959年の「お早う」になると、子どもたちがテレビを買ってくれとうるさく笠智衆の父にねだる。黙ってろと一喝されて、じゃあ「大人には口をきかない」というレジスタンスを開始する。近所に昼間からパジャマ姿でテレビを見ているカップルがいて、そこにいけばテレビを見せてもらえる。お目当ては大相撲の若乃花(初代)である。笠智衆は酒場で知人と「一億総白痴化ですな」などと世間話をしている。この言葉は評論家の大宅壮一が主張して当時大きな話題になっていた。テレビが普及すると日本人の文化が低下するという意見である。でも、結局子どもたちのためにテレビを買うことになる。(子ども対策だけではなく、近所の電気屋で買ってあげた方がいい事情も裏ではある。)
1962年の「秋刀魚の味」になると、佐田啓二の夫が岡田茉莉子の妻にせっつかれて、電気掃除機を買うための手付金を笠智衆の父に借りにくる。日本社会の電気機具の普及のスピードを、小津映画の中に見ることができる。そのように小津映画二は日本社会の変貌が刻印されていて、そこに「高度成長と日本人」という映像社会学的なテーマを見つけることができる。ただし、小津映画は会社製作の劇映画だから、一定のコードに規定されている。まずはその解読が丁寧になされる必要があるだろう。
映画内の社会的コードというのは、例えばアメリカ映画「十二人の怒れる男」を例にとると、当初のシドニー・ルメット監督映画(1957)では、「陪審員が全員白人男性」となっている。しかし、1997年のウィリアム・フリードキン(「フレンチ・コネクション」の監督)が演出したテレビドラマでは、陪審員や裁判官に黒人、ヒスパニック、女性が含まれている。現実のアメリカ社会の変化を反映し、「政治的に正しくない」設定は変えられたのである。ところがロシアのニキータ・ミハルコフが翻案した「12人の怒れる男」(2007)では再び男性ロシア人のみが陪審員を務めている。それぞれの設定は製作された社会における「映画に求められる規範意識」を反映しているのは間違ない。
小津映画の場合は、戦後においてはほとんど「娘の縁談」(あるいは「妹の縁談」)なので、戦後社会の中産階級における「結婚のコード」を反映している。「彼岸花」、「秋日和」、「秋刀魚の味」に共通するのは、「結婚は本来親の紹介で相手を選ぶのが、つり合いなどを考えると望ましい」けれど、中産階級では高校または短大を卒業した後に女性も就職するので、そこで「女性にも社内結婚などの機会がある」という現実である。結婚は家どうしのもので「見合い結婚」が主流というのは当時の社会の反映だけど、その時の見合い相手は女どうしの間で世話焼きがあっせんすることも多かった。しかし、この3本の映画では、「父親が結婚相手を自分の友人関係のネットワーク内で探す」というのが特徴である。
父親はそれなりの会社の役員であり、旧制中学、旧制高校、あるいは旧制大学以来の強固な友人関係を維持している。彼らは今でもよく集まり飲んだりする関係である。共通の知り合いが多いから、結婚式や葬式も共通なのである。その仲間は映画ごとに多少違うが、基本的に中村伸郎と北竜二がいつもいる。同窓会シーンなどには、当時実業家というか、売春や麻薬防止運動でも知られた一種のフィクサー菅原通済がワンシーンぐらい出てくるのも共通している。「彼岸花」のラスト近くでは、旧制中学の同窓会が蒲郡で行われ、笠智衆が詩吟を披露している。蒲郡でやったのは、東京と大阪にメンバーがいるから中間でやるということだとされている。
一方、娘の方は基本的には「短大を出て、一流企業に結婚退職まで務めている」ということだと思う。「秋日和」では娘の司葉子と友人の岡田茉莉子が、結婚した友人千之赫子が新婚旅行に行く列車を見ようと屋上に出る場面がある。そこから丸の内の中央郵便局が下に見えるので、三菱ビルのあたりのはずである。見合い相手にも恵まれるだろうが、娘本人も結婚相手を探しやすい職場にいたのだ。
特に「秋日和」が典型だが、男同士のつながりで「結婚相手を探すゲーム」をしている感じがする。この映画では佐分利あるいは笠の娘ではなく、今は亡き友人の娘司葉子をそろそろ嫁に出したらどうかという話なのである。その場合母親の原節子も一緒に再婚させてはどうか。かつての原節子の夫は佐分利、中村、北と東大と思われる大学時代に近くの薬局の看板娘原節子を争った間柄だった。ただし、佐分利信には三宅邦子、中村伸郎には沢村貞子の妻がいる。一方、大学教授の北竜二は妻を亡くしてヤモメ暮らしが長いので、どうだ母親の方と再婚してはと勝手に話が男同士で進む。最初の場面がその友人の年忌なのだが、その後料亭で飲んで「母親の方がいいね」などと言いあっている。本人がいないとはいえ、セクハラに近い発言が連発するシーンである。

このような「男同士の関係」が基本となり、結婚相手が決められていくという「ホモソーシャルな世界」が展開していくのである。「ホモソーシャル」というのは、体育会系などによくある男同士の関係が何より優先する同質的社会のあり方を指す用語である。間違って「ホモセクシャル」と勘違いする人がいるが、反対に表面的には「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)になることが多い。最近ではデンマーク映画「偽りなき者」に出てくる男だけの狩猟シーンが典型である。アメリカの保守的な地方が出てくる映画でも、よく出てくる設定だ。「家父長制」とも似ているが、単に家父長が威張っているだけではなく、男同士の社会的関係が重視される。
小津映画ではこの「ホモソーシャルな世界」が称賛されているわけではない。むしろ女たちの反発を買い、相対化されている。料理屋の女将(大体、高橋とよ)などはカラカイの対象となっているが、映画の主筋の方ではいかに女たちが反撃するかが見どころとなっている。「彼岸花」では娘有馬稲子と佐田啓二の結婚をかたくなに認めず、一方「秋日和」では勝手に司葉子と原節子の二重縁談を進めていく。しかし「彼岸花」では山本富士子が、「秋日和」では岡田茉莉子が現われて、映画空間をかく乱して、男の勝手を弾劾する。山本富士子、岡田茉莉子は、いつもは主演している女優だけど、小津映画の助演で儲け役を演じている。「彼岸花」では有馬稲子と山本富士子は「親の強制に抵抗する同盟」を事前に結んでいる。山本富士子も縁談に固執する母親の浪花千栄子に辟易していたのである。このような「女縁ネットワーク」の活躍こそが、この映画の真のテーマではないかと思われるほどだ。

日本の社会では、国会議員や大企業の役員には先進各国に比べて女性が非常に少ない。スポーツや文化面で女性の活躍が目立っているが、逆に言えばそういう世界しか女性に開かれていないとも言える。しかし、それは女性に実権が全くないということではない。子どもの学校生活、進学や就職、結婚相手選びなどは、父親が長時間労働や単身赴任で相談に乗る時間が少ない事情もあり、子どもに密着できる母親の役割が大きい。一応、「最終的承認権」のようなものが父親にあることになっていても、事実上本人と母親が同意していれば、父親は事後承認するしかないというのが実情だ。「彼岸花」の佐分利信はまさにその通りになって、認めないと振りかざした拳のメンツ問題が残るけど、田中絹代の母親が認めてしまえば渋々同意するしかないのである。
しかし、そのような展開も見る者には予想の範囲内だろう。「彼岸花」は有馬稲子と佐田啓二、「秋日和」は司葉子と佐田啓二というキャスティングを見れば、最終的に観客が祝福する形で終わるのは判っている。原節子も「再婚しない」という役柄を演じてきたので、予想通り再婚はしないという運びとなる。そこまでに至る話の運び具合の練達こそが見所で、先に書いた山本富士子や岡田茉莉子が映画の美味しい場面をさらって行って、男の思惑は粉砕されて、ラストに祝福された結婚が待っている。「結婚という制度」あるいは「異性愛という前提」を疑う時代ではなかった。
小津映画は親の古風な世代と子の新世代を、余裕を持って暖かく見つめてコメディタッチで描くホームドラマになる。この「余裕ある眼差し」こそが、「東京物語」で到達した最終段階の小津の境地だろう。菅原通済に象徴される「鎌倉文化人」の一員となった小津は、晩年の映画は小説家里見弴(さとみ・とん)の映画化が多い。里見は有島武郎、有島生馬の実弟で、小津映画のプロデュ―サーだった山内静夫の父親でもある。文化勲章を受章した作家で、鎌倉に住んでいた。このような人脈を見ると、戦後、武者小路実篤、安倍能成らが創刊した雑誌「心」グループに近い場所に小津安二郎はいたのではないか。つまり「戦時中は反軍部」「戦後は反左翼」という位置である。「保守リベラル」で、文化的保守主義の立場である。このあたりは、細かく分析する蓄積がないが、小津安二郎の思想をもっと検討したうえで、小津映画に見られる日本社会の特徴を分析する必要がある。