オーストリアの映画監督ウルリヒ・ザイドルの作った「パラダイス三部作」は、僕には非常に面白かった。娯楽映画じゃないだけでなく、普通のアート映画というより、人間を見つめるドキュメンタリー、あるいは「毒が強い」純文学作品という感じである。それぞれ「パラダイス/愛」「パラダイス/神」「パラダイス/希望」と題されている。それぞれ独立した作品だけど、登場人物に関連性がある。
第1作の「愛」を見れば判るが、離婚した母と娘の家庭があり、夏休みに母はケニアのリゾートに旅行する。そのため娘は叔母(母の姉)にいったん預けられる。その後、娘(13歳)は肥満児のためのダイエット合宿に参加させられる。ケニアでの母の日々が「愛」で、叔母の信仰生活が「神」、娘のダイエット合宿が「希望」ということになる。「愛」は2012年のカンヌ、「神」は2012年のヴェネツィア、「希望」は2013年のベルリンと三大映画祭のコンペに出品されて、「神」は審査員特別賞を受賞した。
この映画のすごい所は、「人が見たくないもの」を直球勝負でぶつけてくることで、だからいわゆる「娯楽映画的面白さ」はない。でも、一種の「怖いもの見たさ」や「他人の生活を覗き込む隠微な面白さ」があるのは否定できない。「見ちゃいられないもの」を見せつけられた気恥ずかしさが抜けない映画でもある。ああ面白かったとか、いい映画を見たなあとか、そういった安定した心情が残らず、どうにもザラザラした触感が残り続ける。だから多くの人に勧められる映画ではないのだけど、それでもこの三部作が傑作であり、重要な達成であるのは間違いない。
映画というのは、本来製作に巨額の資金が必要なので、「観客が見たいもの」を撮影することがほとんどである。(その代り、複製芸術なので、成功すれば一挙に製作費を回収できる。)だから、カッコいい主演男優の大アクション映画とか、美男美女が結ばれるまで一波乱も二波乱もある大恋愛映画とかが無数に作られてきた。純文学の映画化なんかもあるけど、それはそれで一定の観客がある。社会派の映画も「見ておくべきテーマ」だと考える客が想定できる。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は凄惨なリンチ場面が連続するから、見てる間に出ていく客がとても多かった。でも新左翼運動の暗部を「辛くても直視しなければ」と考える少数の観客に支えられている。
ヘテロセクシャル(異性愛)のクリスチャンだから、この映画の家族はヨーロッパ社会の多数派に属してはいる。だが、人生では恵まれている方ではない。映画界には美女スターが何人もいるけど、この映画の主人公3人は、要するに「恋愛市場での価値が低い」のである。母親のテレサもその姉のアンナ・マリアも、50代で太っていて美人ではない。その娘も太っていて、夏休みはダイエット合宿なんかに行かないといけない。だから三人とも、恋愛市場で高価値の男性にめぐり合うことはないのだが、それでも人は「パラダイス」(楽園)を人生に求めるのである。
「見たくないもの見せつけ度」で一番ぶっ飛んでいる第一作の「愛」が僕には一番面白かった。テレサ(自閉症患者のヘルパー)はケニアのビーチリゾートで、若い黒人男とのセックスにのめり込む。最初は自然の豊かさに歓喜していたが、他の中高年女性から「若い黒人と交際してる」と教えられる。これは実態としてあるようで、そういう中高年女性を「シュガーママ」、男を「ビーチボーイ」と呼ぶらしい。ビーチは完全に「リゾート客」と「現地人」が区切られた「植民地」的空間である。警備区域を抜けてビーチに近づくと、お土産を買ってくれと黒人男性が殺到する。そういう男たちを追い払ってくれる男が現われ、心の付き合いをしようとか言われる。最初は躊躇していたテレサも、ついにホテルに行っちゃう。悪いけど見て美しいようなヌードではないが、主演女優はブラジャーを取ったらオッパイが下がるなどと「自虐ネタ」を演じている。「見ちゃいられない」シーン続出。でもだんだん妹(?)の子が病気だとかいろいろとお金をくれないかという話になって行って…。はっきり言って、自国の恋愛市場では価値が低い女性が何で発展途上国では「モテる」のか、判りそうなもんだけど。これが「脂ぎった中年男性が、カネで現地の少女を買う」という話だったら、もっと「安全に怒りを表出できる」。「可愛い少女に同情という名の好奇心」を抱くこともできる。ここまで「居心地の悪い映画」にはならない。この居心地の悪さは半端でない。
「神」では、アンナ・マリア(放射線技師)は夏休みも旅行に行かず、ウィーンの移民地区で信仰を広める活動をしている。聖母像を持って「一緒にマリア様に祈りを捧げましょう」と訪ねて回っている。もちろんほとんどは相手にされず追い払われるけど。家では祈祷会を開いていて、イエス像に毎日信仰を捧げている。それどころか、罪の犠牲のため自らの体を鞭打って(本当に自分で自分の体をムチで打って)、神と共に生きる「パラダイス」を生きる。ところが驚くべきことに、独身かと思ってたら夫がいた。それも「車いすのエジプト人」なのである。事故で負傷していたが、2年ぶりに家に帰ってきて、映画の途中で登場する。移民で来て定住したムスリムという設定である。どういう事情で結婚したのか描かれないが、お互いがお互いを必要とした事情があったんだろう。(あからさまに言えば、夫は定住目的、妻は他には相手がいなかったため。)だから前はそこまで信仰に凝り固まっていなかったはずなのだが…。夫からすれば、帰って見たら妻が変貌してた。一番身近なところに同情を示すべき障害者がいるわけだが、もう妻は夫を相手にしない。壮絶な家庭内バトルになってしまうという、全く救いのない展開で…。この「妻が宗教に行っちゃう」という、これもまた「見ちゃいられない」夫婦の物語。

最後の「希望」では、13歳の娘メラニーはダイエット合宿所に来ている医師に恋してしまう。いやあ「中年男」と「少女」の「恋愛(みたいなもの)」は、物語的には定番ではあるけれど、もっとカッコいい中年男ともっと魅力的な美少女じゃないと、悪いけど「禁断の恋」にならないでしょう。だってここは夏休みのダイエット合宿ですよ。でもまあ、人はどこでも恋をすると言えばその通り。それにしても、オーストリアにも軍隊的な夏の肥満児向け合宿なんてのがあるんだ。何の説明もないので、その医師に妻子がいるのかどうかは判らないけど、特にカッコいいとも見えないただのオジサンだと思う。メラニーだって「デブの小娘」に違いない。映画はそういう間柄でも「奇跡の愛」が芽生えるという展開ではもちろんなく、ただひたすら(傍から見れば)みっともない姿を描く。夜は仲間同士で酒宴をするし、抜け出して酒場に潜り込んだりする。実際に13歳の時の出演だというけど、日本なら高校生にはなっていそうな感じ。医師の方も満更ではないというか、ロリコン的なところがあるらしいが、もちろん実りなく、限られたケータイ時間に母や父に留守電を入れるしかない…。これもまた「見ちゃいられない」少女の一夏。

監督のウルリヒ・ザイドル(1952~)は長く記録映画を作っていた監督とのことで、山形国際ドキュメンタリー映画祭で「予測された喪失」という映画が優秀賞を得ている。この10年ほどは劇映画を作っているが、やはりある種「記録映画的な作り」になっている。シーンの設定は細かくあるけど、セリフは事前にはないという。アマチュアの役者も起用して、セリフは即興で作って、それをドキュメンタリー的に撮影する。映画は「順撮り」で(シーンの順番に沿って撮影する)、音楽は基本的にない。こうして、劇映画の設定で演じている俳優を記録映画的に撮るという映画が誕生した。そうするとセット撮影やクローズアップ、クレーンによる撮影などもないわけで、映画は静かで内省的なムードが出てくる。また家や家の外を撮るシーンが多いので、「四角」で区切られた世界がくっきりと浮かび上がる構図の美しさが印象的。非常にシンプルな世界なんだけど、忘れがたい。
第1作の「愛」を見れば判るが、離婚した母と娘の家庭があり、夏休みに母はケニアのリゾートに旅行する。そのため娘は叔母(母の姉)にいったん預けられる。その後、娘(13歳)は肥満児のためのダイエット合宿に参加させられる。ケニアでの母の日々が「愛」で、叔母の信仰生活が「神」、娘のダイエット合宿が「希望」ということになる。「愛」は2012年のカンヌ、「神」は2012年のヴェネツィア、「希望」は2013年のベルリンと三大映画祭のコンペに出品されて、「神」は審査員特別賞を受賞した。
この映画のすごい所は、「人が見たくないもの」を直球勝負でぶつけてくることで、だからいわゆる「娯楽映画的面白さ」はない。でも、一種の「怖いもの見たさ」や「他人の生活を覗き込む隠微な面白さ」があるのは否定できない。「見ちゃいられないもの」を見せつけられた気恥ずかしさが抜けない映画でもある。ああ面白かったとか、いい映画を見たなあとか、そういった安定した心情が残らず、どうにもザラザラした触感が残り続ける。だから多くの人に勧められる映画ではないのだけど、それでもこの三部作が傑作であり、重要な達成であるのは間違いない。
映画というのは、本来製作に巨額の資金が必要なので、「観客が見たいもの」を撮影することがほとんどである。(その代り、複製芸術なので、成功すれば一挙に製作費を回収できる。)だから、カッコいい主演男優の大アクション映画とか、美男美女が結ばれるまで一波乱も二波乱もある大恋愛映画とかが無数に作られてきた。純文学の映画化なんかもあるけど、それはそれで一定の観客がある。社会派の映画も「見ておくべきテーマ」だと考える客が想定できる。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は凄惨なリンチ場面が連続するから、見てる間に出ていく客がとても多かった。でも新左翼運動の暗部を「辛くても直視しなければ」と考える少数の観客に支えられている。
ヘテロセクシャル(異性愛)のクリスチャンだから、この映画の家族はヨーロッパ社会の多数派に属してはいる。だが、人生では恵まれている方ではない。映画界には美女スターが何人もいるけど、この映画の主人公3人は、要するに「恋愛市場での価値が低い」のである。母親のテレサもその姉のアンナ・マリアも、50代で太っていて美人ではない。その娘も太っていて、夏休みはダイエット合宿なんかに行かないといけない。だから三人とも、恋愛市場で高価値の男性にめぐり合うことはないのだが、それでも人は「パラダイス」(楽園)を人生に求めるのである。


「見たくないもの見せつけ度」で一番ぶっ飛んでいる第一作の「愛」が僕には一番面白かった。テレサ(自閉症患者のヘルパー)はケニアのビーチリゾートで、若い黒人男とのセックスにのめり込む。最初は自然の豊かさに歓喜していたが、他の中高年女性から「若い黒人と交際してる」と教えられる。これは実態としてあるようで、そういう中高年女性を「シュガーママ」、男を「ビーチボーイ」と呼ぶらしい。ビーチは完全に「リゾート客」と「現地人」が区切られた「植民地」的空間である。警備区域を抜けてビーチに近づくと、お土産を買ってくれと黒人男性が殺到する。そういう男たちを追い払ってくれる男が現われ、心の付き合いをしようとか言われる。最初は躊躇していたテレサも、ついにホテルに行っちゃう。悪いけど見て美しいようなヌードではないが、主演女優はブラジャーを取ったらオッパイが下がるなどと「自虐ネタ」を演じている。「見ちゃいられない」シーン続出。でもだんだん妹(?)の子が病気だとかいろいろとお金をくれないかという話になって行って…。はっきり言って、自国の恋愛市場では価値が低い女性が何で発展途上国では「モテる」のか、判りそうなもんだけど。これが「脂ぎった中年男性が、カネで現地の少女を買う」という話だったら、もっと「安全に怒りを表出できる」。「可愛い少女に同情という名の好奇心」を抱くこともできる。ここまで「居心地の悪い映画」にはならない。この居心地の悪さは半端でない。
「神」では、アンナ・マリア(放射線技師)は夏休みも旅行に行かず、ウィーンの移民地区で信仰を広める活動をしている。聖母像を持って「一緒にマリア様に祈りを捧げましょう」と訪ねて回っている。もちろんほとんどは相手にされず追い払われるけど。家では祈祷会を開いていて、イエス像に毎日信仰を捧げている。それどころか、罪の犠牲のため自らの体を鞭打って(本当に自分で自分の体をムチで打って)、神と共に生きる「パラダイス」を生きる。ところが驚くべきことに、独身かと思ってたら夫がいた。それも「車いすのエジプト人」なのである。事故で負傷していたが、2年ぶりに家に帰ってきて、映画の途中で登場する。移民で来て定住したムスリムという設定である。どういう事情で結婚したのか描かれないが、お互いがお互いを必要とした事情があったんだろう。(あからさまに言えば、夫は定住目的、妻は他には相手がいなかったため。)だから前はそこまで信仰に凝り固まっていなかったはずなのだが…。夫からすれば、帰って見たら妻が変貌してた。一番身近なところに同情を示すべき障害者がいるわけだが、もう妻は夫を相手にしない。壮絶な家庭内バトルになってしまうという、全く救いのない展開で…。この「妻が宗教に行っちゃう」という、これもまた「見ちゃいられない」夫婦の物語。

最後の「希望」では、13歳の娘メラニーはダイエット合宿所に来ている医師に恋してしまう。いやあ「中年男」と「少女」の「恋愛(みたいなもの)」は、物語的には定番ではあるけれど、もっとカッコいい中年男ともっと魅力的な美少女じゃないと、悪いけど「禁断の恋」にならないでしょう。だってここは夏休みのダイエット合宿ですよ。でもまあ、人はどこでも恋をすると言えばその通り。それにしても、オーストリアにも軍隊的な夏の肥満児向け合宿なんてのがあるんだ。何の説明もないので、その医師に妻子がいるのかどうかは判らないけど、特にカッコいいとも見えないただのオジサンだと思う。メラニーだって「デブの小娘」に違いない。映画はそういう間柄でも「奇跡の愛」が芽生えるという展開ではもちろんなく、ただひたすら(傍から見れば)みっともない姿を描く。夜は仲間同士で酒宴をするし、抜け出して酒場に潜り込んだりする。実際に13歳の時の出演だというけど、日本なら高校生にはなっていそうな感じ。医師の方も満更ではないというか、ロリコン的なところがあるらしいが、もちろん実りなく、限られたケータイ時間に母や父に留守電を入れるしかない…。これもまた「見ちゃいられない」少女の一夏。

監督のウルリヒ・ザイドル(1952~)は長く記録映画を作っていた監督とのことで、山形国際ドキュメンタリー映画祭で「予測された喪失」という映画が優秀賞を得ている。この10年ほどは劇映画を作っているが、やはりある種「記録映画的な作り」になっている。シーンの設定は細かくあるけど、セリフは事前にはないという。アマチュアの役者も起用して、セリフは即興で作って、それをドキュメンタリー的に撮影する。映画は「順撮り」で(シーンの順番に沿って撮影する)、音楽は基本的にない。こうして、劇映画の設定で演じている俳優を記録映画的に撮るという映画が誕生した。そうするとセット撮影やクローズアップ、クレーンによる撮影などもないわけで、映画は静かで内省的なムードが出てくる。また家や家の外を撮るシーンが多いので、「四角」で区切られた世界がくっきりと浮かび上がる構図の美しさが印象的。非常にシンプルな世界なんだけど、忘れがたい。