「罪なき者、石を投げよ」
これは池上彰氏が週刊文春に連載している「池上彰のそこからですか!?」というコラムの第180回、9月25日号のタイトルである。読んでない人が多いと思うので、少し紹介しておきたい。池上氏はかつて「ある新聞社の社内報」にコラムを連載していた。コラムの中で「その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました。」経営トップが激怒したという情報が洩れてきたというが、その結果、年度途中で他の筆者(池上氏以外に4人いたという)全員の連載が終わってしまったという。池上氏は「新聞業界全体の恥になると考え」、この話を自分の中に封印してきた。「しかし、この歴史を知らない記者たちが。朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て、ここで敢えて書くことにしました。その新聞社の記者たちは『石を投げる』ことはできないと思うのですが。」
新聞広告拒否問題も、「週刊現代」の広告を拒否した新聞があるではないかという。「週刊現代」は、新聞社の経営トップに関する記事を立て続けに掲載していていたという。表面的には「紙面にヌードが多くて品位に欠ける」という理由だったというけど、「ライバルの『週刊ポスト』も似たような紙面展開をしていましたが、こちらは広告が掲載されていました。」
そして、「私が所属していた放送局」(NHKのこと)でも、こんなことがあったという。1981年2月、ロッキード事件5年の特集を組み、三木武夫元首相のインタビューを撮ったが、報道局長の指示で放送直前にカットされた。政治部長も社会部長も、各部のデスクも怒り、説明と放送を求めたが、結局放送されず、次の人事異動で皆異動したという。この問題は何となく覚えているが、一番最初の事例は社内報のことだから、外部の人間には判らない。文脈から考えて、朝日新聞を強く批判している新聞社のことなんだろう。
池上コラム問題に関しても、一応解説しておきたい。(この経緯に関しては、週刊文春の9月18日号の連載に基づく。)池上彰氏は月末の朝刊に「池上彰の新聞ななめ読み」というコラムを持っている。ところが、先月末のコラムに関して、9月28日(掲載予定は30日)に、「掲載できない」との申し入れがあった。池上氏は、「編集権はそちらにありますから、私としてはとやかく言いませんが、今後の連載は打ち切らせてください」と言った。連載依頼時に「何を書いてもいいですから」と言われていたので、「その条件が一方的に破棄されたのですから、信頼関係が崩れたと判断しました。」
このいきさつが、朝日関係者から伝わったらしく、翌週月曜日(9月1日)に「週刊新潮」から海外にいた池上氏に取材があった。続いて、「プレジデント」、翌日火曜日に「週刊文春」から取材された。週刊文春は「週刊文春デジタル」に載り、それがヤフートピックスに載って、各紙の取材攻勢が始まったという。後は大きな騒ぎになり、朝日新聞は掲載拒否(掲載見送り)の誤りを認め、4日付紙面に掲載した。また9月6日付紙面で「読者の皆様におわびし、説明します」という文章が一面に掲載された。(そこにはもう少し詳しい説明もあるが、今は省略する。)
以上、問題の経緯に触れるだけで長くなってしまった。僕はこの話を聞いた時に、「朝日もずいぶんナーバスになっているんだな」と思ったけど、どんな内容か判らないので判断は保留した。この段階は原発事故の吉田調書問題の「誤報謝罪」以前で、池上氏がコラムで触れているのは「慰安婦報道検証問題」だけである。今詳しく書く余裕はないが、僕は慰安婦報道における吉田証言に関しては、多くの新聞の批判とは違う考えを持っている。だから、「池上コラム」を読まずに判断を下せない。
池上氏の「新聞ななめ読み」に関しては、「一応ちょっと楽しみ」といった感じで毎月読んでいた。文章が判りやすく、朝日だけではなく他紙の報道を引用、解説、批判しているのが役に立つ。が、池上氏のスタンスは「判りやすく解説する」というものだから、この解説では判りにくい、不親切であるといった批判が多いように思う。だから、一読してすぐに忘れてしまう。僕が覚えているのは、ペルーのマリオ・バルガス=リョサが2010年にノーベル文学賞を受賞した時に、この人を知らなかったと書いていたことだけである。読んだときに「エエッ」と思ったので、これは覚えている。バルガス=リョサは邦訳も多いし、かなり知られている。作家としても知っていてもいいんじゃないかと思うけど、それよりこの人はアルベルト・フジモリがペルー大統領に当選した時の、決選投票の相手候補ではないか。知っててもいいんじゃないかと思ったわけである。
結局、朝日に掲載されたコラムは、「慰安婦報道 訂正、遅きに失したのでは」と見出しがついている。結語の部分に、「自社の報道の過ちを認め、読者に報告しているのに、謝罪の言葉がありません。せっかく勇気を奮って訂正したのでしょうに、お詫びがなければ、試みは台無しです。」と書かれている。それは正しいのだろうか。その問題は次回に書くけど、朝日の検証報道しか取り上げていないこの「ななめ読み」に僕は大きな失望を感じざるを得なかった。これでは「朝日新聞だけ真っ直ぐ読み」である。もちろん、「真っ直ぐ読み」して批判してもいいのだが、それは池上「ななめ読み」に期待されていることではないはず。もっと他紙の検証批判を取り上げ、それを紹介することを通して、朝日の検証報道には不足があるのではないか、と書かれていたら…。それなら僕も理解できるし、朝日も最初から掲載したのではないか。
池上氏は「ニュース解説」で知られている。テレビのニュース番組では、よくキャスターの隣に専門家が呼ばれて細かい解説をしている。湾岸戦争やイラク戦争時に、「軍事評論家」なる人物がいつも出てきたのが典型的な例である。池上氏が民放でたくさん出ているニュース解説番組では、池上氏は専門解説をする役というより、諸問題の判りやすい整理と説明をしている。つまり、「池上氏の意見」はあまり関係ないのである。今回のコラムだって、立場はともかく、自分なりの慰安婦問題に関する意見を開陳しているわけではない。要するに、検証記事を読んで、言葉は丁寧だけど「間違ったなら謝れ、頭が高い」と言っているだけである。これでは「ななめ読み」ではなく、「俗論」そのものではないかと思ったのである。一体、「誤報」と「謝罪」というのは、必ず結びつかなければならないものなのか。次回に僕の考えを書きたい。
これは池上彰氏が週刊文春に連載している「池上彰のそこからですか!?」というコラムの第180回、9月25日号のタイトルである。読んでない人が多いと思うので、少し紹介しておきたい。池上氏はかつて「ある新聞社の社内報」にコラムを連載していた。コラムの中で「その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました。」経営トップが激怒したという情報が洩れてきたというが、その結果、年度途中で他の筆者(池上氏以外に4人いたという)全員の連載が終わってしまったという。池上氏は「新聞業界全体の恥になると考え」、この話を自分の中に封印してきた。「しかし、この歴史を知らない記者たちが。朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て、ここで敢えて書くことにしました。その新聞社の記者たちは『石を投げる』ことはできないと思うのですが。」
新聞広告拒否問題も、「週刊現代」の広告を拒否した新聞があるではないかという。「週刊現代」は、新聞社の経営トップに関する記事を立て続けに掲載していていたという。表面的には「紙面にヌードが多くて品位に欠ける」という理由だったというけど、「ライバルの『週刊ポスト』も似たような紙面展開をしていましたが、こちらは広告が掲載されていました。」
そして、「私が所属していた放送局」(NHKのこと)でも、こんなことがあったという。1981年2月、ロッキード事件5年の特集を組み、三木武夫元首相のインタビューを撮ったが、報道局長の指示で放送直前にカットされた。政治部長も社会部長も、各部のデスクも怒り、説明と放送を求めたが、結局放送されず、次の人事異動で皆異動したという。この問題は何となく覚えているが、一番最初の事例は社内報のことだから、外部の人間には判らない。文脈から考えて、朝日新聞を強く批判している新聞社のことなんだろう。
池上コラム問題に関しても、一応解説しておきたい。(この経緯に関しては、週刊文春の9月18日号の連載に基づく。)池上彰氏は月末の朝刊に「池上彰の新聞ななめ読み」というコラムを持っている。ところが、先月末のコラムに関して、9月28日(掲載予定は30日)に、「掲載できない」との申し入れがあった。池上氏は、「編集権はそちらにありますから、私としてはとやかく言いませんが、今後の連載は打ち切らせてください」と言った。連載依頼時に「何を書いてもいいですから」と言われていたので、「その条件が一方的に破棄されたのですから、信頼関係が崩れたと判断しました。」
このいきさつが、朝日関係者から伝わったらしく、翌週月曜日(9月1日)に「週刊新潮」から海外にいた池上氏に取材があった。続いて、「プレジデント」、翌日火曜日に「週刊文春」から取材された。週刊文春は「週刊文春デジタル」に載り、それがヤフートピックスに載って、各紙の取材攻勢が始まったという。後は大きな騒ぎになり、朝日新聞は掲載拒否(掲載見送り)の誤りを認め、4日付紙面に掲載した。また9月6日付紙面で「読者の皆様におわびし、説明します」という文章が一面に掲載された。(そこにはもう少し詳しい説明もあるが、今は省略する。)
以上、問題の経緯に触れるだけで長くなってしまった。僕はこの話を聞いた時に、「朝日もずいぶんナーバスになっているんだな」と思ったけど、どんな内容か判らないので判断は保留した。この段階は原発事故の吉田調書問題の「誤報謝罪」以前で、池上氏がコラムで触れているのは「慰安婦報道検証問題」だけである。今詳しく書く余裕はないが、僕は慰安婦報道における吉田証言に関しては、多くの新聞の批判とは違う考えを持っている。だから、「池上コラム」を読まずに判断を下せない。
池上氏の「新聞ななめ読み」に関しては、「一応ちょっと楽しみ」といった感じで毎月読んでいた。文章が判りやすく、朝日だけではなく他紙の報道を引用、解説、批判しているのが役に立つ。が、池上氏のスタンスは「判りやすく解説する」というものだから、この解説では判りにくい、不親切であるといった批判が多いように思う。だから、一読してすぐに忘れてしまう。僕が覚えているのは、ペルーのマリオ・バルガス=リョサが2010年にノーベル文学賞を受賞した時に、この人を知らなかったと書いていたことだけである。読んだときに「エエッ」と思ったので、これは覚えている。バルガス=リョサは邦訳も多いし、かなり知られている。作家としても知っていてもいいんじゃないかと思うけど、それよりこの人はアルベルト・フジモリがペルー大統領に当選した時の、決選投票の相手候補ではないか。知っててもいいんじゃないかと思ったわけである。
結局、朝日に掲載されたコラムは、「慰安婦報道 訂正、遅きに失したのでは」と見出しがついている。結語の部分に、「自社の報道の過ちを認め、読者に報告しているのに、謝罪の言葉がありません。せっかく勇気を奮って訂正したのでしょうに、お詫びがなければ、試みは台無しです。」と書かれている。それは正しいのだろうか。その問題は次回に書くけど、朝日の検証報道しか取り上げていないこの「ななめ読み」に僕は大きな失望を感じざるを得なかった。これでは「朝日新聞だけ真っ直ぐ読み」である。もちろん、「真っ直ぐ読み」して批判してもいいのだが、それは池上「ななめ読み」に期待されていることではないはず。もっと他紙の検証批判を取り上げ、それを紹介することを通して、朝日の検証報道には不足があるのではないか、と書かれていたら…。それなら僕も理解できるし、朝日も最初から掲載したのではないか。
池上氏は「ニュース解説」で知られている。テレビのニュース番組では、よくキャスターの隣に専門家が呼ばれて細かい解説をしている。湾岸戦争やイラク戦争時に、「軍事評論家」なる人物がいつも出てきたのが典型的な例である。池上氏が民放でたくさん出ているニュース解説番組では、池上氏は専門解説をする役というより、諸問題の判りやすい整理と説明をしている。つまり、「池上氏の意見」はあまり関係ないのである。今回のコラムだって、立場はともかく、自分なりの慰安婦問題に関する意見を開陳しているわけではない。要するに、検証記事を読んで、言葉は丁寧だけど「間違ったなら謝れ、頭が高い」と言っているだけである。これでは「ななめ読み」ではなく、「俗論」そのものではないかと思ったのである。一体、「誤報」と「謝罪」というのは、必ず結びつかなければならないものなのか。次回に僕の考えを書きたい。