尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「吉田調書」は「誤報」か-朝日問題①

2014年09月16日 23時01分26秒 | 社会(世の中の出来事)
 何回か朝日新聞をめぐる諸問題を書きたいと思うけど、ちゃんと書くのは面倒なので副題は「朝日問題」とする。8月にあった「慰安婦報道の検証問題」には必要な時には触れるけど、今は「慰安婦問題」に深入りしない。(長くなり過ぎるので。「池上コラム問題」は取り上げる。)
 9月11日に、政府は政府事故調の吉田昌郎氏(東京電力福島第一原子力発電所長=当時)の聴取記録(以下、吉田調書)を公表した。これは朝日新聞が今年5月20日付けで特ダネ報道したものである。それ以後、調書公開を求める声があがっていたが、8月以降他社も報道するに至り、政府も公開する方針に転じた。公開された9月11日に朝日新聞は記者会見を行い、当時の朝日新聞報道は「誤報であり、取り消し、謝罪する」と発表したわけである。

 これは他社も含め様々な報道ミスがある中でも非常に深刻なものであると思われる。小さな記事や論説が「コピー&ペースト」されたものだったとか、いろんなミスがマスコミでは起こっているけど、このような「特ダネ」&「1面トップ」、しかも「原発事故問題」という重大問題で、数カ月もしないで「記事の取り消し」が起きるということは普通では考えられない。しかも、朝日が特ダネ報道しなかったとしたら、この吉田調書は今も国民の目には触れずにいたと思われるわけで、その「誤報」は極めて深刻かつ残念だと思うわけである。

 ところで、朝日自身が認めているんだから「誤報」に決まっているじゃないかと言われるかもしれないが、今回の記事は本当に「誤報」なのだろうか。そのことを自分で検証せずに声高に朝日批判をしている人が多く見受けられるが、本来はそこから考えてみるべきだろう。ということで、ではまず「吉田調書」を自分で読んでみたい。首相官邸のホームページで公開されている。「政府事故調査委員会ヒアリング記録」で、吉田氏など全19人の調書が公開されている。印刷文書をPDFファイルにして公開している。(だから、今コピペできないのが面倒。)なお、「取扱い厳重注意」と紙の上部に印刷されている。吉田氏の聴取は、計6日、資料を含め11の調書に分かれているので、見るのは大変である。けっこう長い。ところで、なぜかわが家のパソコンでは、一部が見られないのである。後半のうち、3つ程度が表示されない。(他の政治家調書などはまだ見ていない。)ということで、僕は吉田調書をすべて見ることができなかったのである。(その後見られるようになった。9.17追記)

 そこで朝日などマスコミ報道をもとに判断するしかないのだが、やはり「ある種の誤報」というべきだろうと考える。しかし、「ある種」と書いたように、「見方を変えれば誤報とは言い切れない」という側面を持つのではないか。朝日新聞は、当初「所長命令に違反、原発撤退」と1面トップの見出しを付けた。「3月15日の朝、所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と報じていた。(今の要約は9月12日付の朝日新聞によるもの。)ところで、今の要約の前段部分の事実があったのか、なかったのかというと、それは「一応あった」のである。「誤報」というと、普通は「事実が間違っていた」というものだが、今回はそうではないのである。ただし、「待機」とか「撤退」という表現は、「全面撤退」をめぐって官邸と東電本店が混乱する問題があったわけで、もっと慎重な扱いが求められると思うが。

 それなのに、なぜ朝日が「誤報」と判断したかというと、この「所長命令」が所員に伝わっていたとは言えないこと(混乱状態だった)、また所長自身が「その方がはるかに正しい」と評価していたことなどがあるからである。調書を読むと、所員は顔にマスクをしてヘルメットをしていたので、口頭の命令が通る状態ではなかった、所員の大部分はバスに乗れと言われて着いたら福島第二だったという感じだったらしいことなどが明らかである。しかし、吉田氏は第一原発内の放射線量の低い場所に退避するようにという意味で、退避命令を出している。当面の事故対応に必要な100名程度を残して他の所員を退避させようとしたら、10キロ離れた福島第二に行ってしまったということも明らかである。だから、「外形的事実としては、『所長命令に違反』は間違いとは言い切れない」のではないかと思う。その後、所長自身が「その方が正しい」と認める度量がある「物わかりのいい上司」だったからいいけど、誰とは言わぬが「物わかりが悪い上司」だったら「オレは第二に行けとは言ってない。誰だ、そんなことしたのは」とキレてしまい、もめ続けたかもしれない。

 だから、僕は「誤報だ」と騒ぐ前に、「どのようなタイプの誤報か」とまず問うことが大切なのではないかと考える。そのことは次回にくわしく書くが、僕の感想として言えば、命令違反だろうが、そうでなかろうがどうでもいい、ということである。「どうでもいい」は言い過ぎかもしれないが、あの大事故の際中に当面仕事のない職員がどうしようが本質的な問題ではないという感想である。もっともっと重大な観点があり、いくつもの重大な証言がある。人目を引くものとしては「東日本壊滅と思った」というものがあるのは有名だろう。官邸や本店とのあつれきも深刻なものがあった。そういう中で、「撤退問題」に注目したということ自体が本質から少しずれていると思うのである。

 ところで「外形的事実」さえあれば批判できるという風潮は間違いなく存在する。例えば、すぐ思い浮かぶものでは、イラク戦争批判ビラを自衛隊官舎に配布したところ、住居侵入罪で逮捕、起訴されたという事件がある。2004年に起こったこの事件は、さすがに1審では無罪となったものの、控訴審で逆転有罪、2008年に最高裁で罰金の有罪判決が確定している。すべてのビラまきが摘発されたわけではなく、他の営業チラシ等は問題になっていない。「池上コラム問題」を「言論弾圧」と批判した人ならば、ビラを配布しただけで住居侵入罪というのは間違いなく言論弾圧だと認めることだろう。しかし、この事件の場合も「外形的事実は住居侵入罪が成立する」とは言えるだろう。

 また、東京都立学校では、所長命令が口頭では通りにくかったという事態が生じないように、教員全員に卒業式、入学式の前に文書の「職務命令」が手渡されている。そうすれば「命令違反」で処分できるからである。また大阪市では「刺青アンケート」なるものが実施され、提出しなかったものは(刺青の有無などとは関係なく)アンケート不提出ということで処分されている。つまり、世の中は「外形的事実さえ確認できれば、それでいいというのが通例」になっているということである。そういうことを全体的に考えあわせて批判するのでなくては、「朝日誤報問題」は実り少なくなるのではないか。だから、僕は吉田調書を見て、「所員の9割が撤退という外形的事実」は認めうる余地があるが、その全体的評価を誤ったということが問題だと思うのである。そのことの意味は、次回にもう少し考えてみたい。
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