前回に見たように、朝日新聞批判というのは、中央紙の論調を屈服させようという明確なプログラムをもって進められている「政治闘争」だと僕は考えている。だが、それは「有効」なものなのだろうか。何だか逆宣伝しているような気がするのは、僕だけだろうか。特に自民党なんか、国会最大党派であるにもかかわらず、「朝日が誤報を認めたから、河野談話を見直せ」などとすごいことを言い出した。そのトンデモぶりは、問題理解の頓珍漢性もあるけれど、それ以上に「政府の公式な官房長官談話を、いくら大新聞とはいえ、一民間企業の動向で変えちゃえとは何とも乱暴な」と思ったわけである。朝日新聞って、そこまですごいんだ!?
落語風に言えば、こんな感じ。
するってえと何かい、朝日新聞ってえのはお国より上なのかい?
朝日新聞はこのように激しく攻撃され読者を減らすのだろうか。そういう報道もあるけれど、反朝日キャンペーンとして週刊誌の見出しになったりしているので、実際のところはよく判らない。僕の周辺で近年、「朝日を止めた」「朝日に変えた」という例をいくつか見聞きしているが、それを考えると問題理解に役立つと思う。「朝日を止めた」というのは、昔に比べて面白い記事が少ない、名物記者の名文ルポがほとんどない、論調もリベラルというより新自由主義に近くなっていないか、権力監視の気概が少なくなったのではないか…といった「リベラル層の離反」である。特に「3・11以後」は反原発報道に熱心な東京新聞に変えるかという人が一定程度いたと思う。この「離反しかけたリベラル層」は、しばらくは購読を止められなくなったと見ていいだろう。今朝日を見限れば、それは「産経や読売の論調を支持するのと同じ」だからである。朝日としては、この「永年ご愛顧のリベラル層」を今後も大事にしていかないといけない。
一方、「朝日に変えた」というのは、どんな人だろうか。そんな人がいるのかと言われるかもしれないが、結構多いのではないか。それは「大学受験生を抱えた親」なのである。ここ数年、朝日の最大のウリは「大学受験に一番出題された新聞」ということだというのを知っている人は多いだろう。だから、最近朝日を読むようになったという高校生を僕は数人聞いたことがあるのである。これは今後変るだろうか。なかなか変わらないのではないか。大学教授に朝日読者のリベラル層が多いからというわけでもないだろう。一般記事ならどの社でもいいけど、論述試験に使いやすい文化面のエッセイ、評論などは、今までの執筆者とのつながりが維持できれば、朝日はやはり「一日の長」があるのではないか。このような一種の日本型クオリティ・ペーパー(高級紙)性を朝日新聞が持ってきたのは否定できない。逆に考えれば、今後も文化面の充実、執筆依頼者の充実を図り、政治的主張そのものではない「ちょっと社会のあり方を振り返って、世界や自己のあり方を考える」的なエッセイを充実させることが、朝日にとって最も重要なことなのではないか。
もちろん、大きな方向として、高齢化の進行と人口減により、朝日も読売も…どこも皆減っていくことは避けられないだろう。デジタル新聞の有料読者も、若い層には増えるかもしれないが、もともと高度成長時代から長いこと読んできた高齢読者がデジタルに変わるわけがない。年金生活で少しでも節約したいところで、もともと新聞は止めようかなどと思っている読者も多いことだろう。そういう層がこの機会に、永年の朝日を離れるということも考えられる。その場合、一部の読者はより安い東京や産経に流れるかもしれないが、多くはこの機会に宅配新聞をやめることになるだろう。
しかし、日本の場合、新聞は論調の違いによる政論紙というより、宅配制度による「便利さ」と文化、スポーツ等の「イベント業者」という面が大きい。宅配がなければ、一面トップを見て毎日変える人も多いだろうけど、朝晩(産経は朝だけ)食事時には新聞が来ているという利便性は何物にも代えがたいと僕は思う。そして、論調の違いはもう10年以上続いているのだから、「論調の違いで新聞を変える」人(どれだけいるか知らないが一定数はいるだろう)は、もう大体変えているのではないか。それに各新聞ごとに字体や記事の配置などのスタイルが少しづつ違っていて、慣れてしまうと他紙には多少の違和感があると思う。高齢層ほど、もう購読紙を変えたくない人が多いと思う。
また、読売新聞のキラー・コンテンツは、読売ジャイアンツと箱根駅伝だろうが、正月は箱根駅伝を見るという人でも、アンチ・ジャイアンツだと読売を取るのをためらう。日本一の人気球団巨人と言えど、数で言えばアンチの方が多いだろうし、関西圏や中京圏では浸透しにくい。(ちなみに新聞社としてプロ野球を持っているのは、今は読売と中日だけだが、かつては毎日と産経も持っていた時代がある。)一方、朝日のキラー・コンテンツは何と言っても「夏の甲子園」だけど、こっちの方が日本社会では大きいのではないか。家族、親せきに野球部員がいればもちろん、有力校に生徒が通う親、地元校を応援するファンなども、地方大会報道が一番充実している朝日を、論調は別として一時的でも購読することは今でも多いだろう。(もっとも地方面のほとんどが地方大会の記事になる7月後半はやり過ぎだと思っている人も多いはず。優秀な記者が地方大会の事前取材に時間を取られ過ぎるのも、もったいない感じがする。)
また、美術展の開催(招待券がもらえたりする)や様々な催し(祭り、フェスティバル等)の主催・後援、系列テレビ局と組んでの映画製作など、どんどん関連事業が幅広くなっている。スーパーやファミレスの折り込み広告も大部数の新聞の方がずっと多いから、そう言う意味でも読売と朝日は優位性を持っている。また出版事業に関しても、読売が子会社化した中央公論を含めて考えると一番充実しているとも言えるが、朝日は文庫、新書、選書と一揃い朝日の名前で持っているわけで、そういう事業を通して作家や学者とのコラボを作りやすい。ちなみに、朝日が戦争責任問題で他紙をリードする報道をしてきたのも、単に論調の問題というより、研究者との接点が系列の雑誌、選書等の執筆を通して多く持っていたということも大きいと思う。関連の旅行社の役割も最近は大きくなってきたと思うけど、朝日旅行の「日本秘湯を守る会」は、朝日全体のキラー・コンテンツになってきていると思う。
最後に今、各新聞の部数はどのくらいあるかを紹介したい。徳山喜雄「安倍官邸と新聞 『二極化する報道』の危機」(集英社新書。ちなみに著者は朝日の記事審査室幹事とあるが、この著書は7月に脱稿されている。)に出ている数字を挙げると、以下のようになる。
読売(986万部)、朝日(760万部)、毎日(342万部)、日経(288万部)、産経(167万部)、東京(52万部)=2013年4月現在、日本ABC協会調査。この日本ABC協会とは何かを調べてみると、新聞や雑誌の部数を調査する業界団体で、「Audit Bureau of Circulations」(部数公査機構)の略だそうである。今は中央紙だけを挙げたが、各地方ではブロック紙(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞がブロック紙三社連合、他に東北の河北新報、中国新聞を含める)や地方紙(新潟日報や信濃毎日新聞、京都新聞、神戸新聞など有力な新聞がある。戦時中の合同で一県一紙が多いが、沖縄には琉球新報、沖縄タイムズの2紙があり、県政に影響力がある)の方が読者が多いところがほとんど。TPPや集団的自衛権に関して、ブロック紙や地方紙はほとんどが「頑強な反対派」である。
落語風に言えば、こんな感じ。
するってえと何かい、朝日新聞ってえのはお国より上なのかい?
朝日新聞はこのように激しく攻撃され読者を減らすのだろうか。そういう報道もあるけれど、反朝日キャンペーンとして週刊誌の見出しになったりしているので、実際のところはよく判らない。僕の周辺で近年、「朝日を止めた」「朝日に変えた」という例をいくつか見聞きしているが、それを考えると問題理解に役立つと思う。「朝日を止めた」というのは、昔に比べて面白い記事が少ない、名物記者の名文ルポがほとんどない、論調もリベラルというより新自由主義に近くなっていないか、権力監視の気概が少なくなったのではないか…といった「リベラル層の離反」である。特に「3・11以後」は反原発報道に熱心な東京新聞に変えるかという人が一定程度いたと思う。この「離反しかけたリベラル層」は、しばらくは購読を止められなくなったと見ていいだろう。今朝日を見限れば、それは「産経や読売の論調を支持するのと同じ」だからである。朝日としては、この「永年ご愛顧のリベラル層」を今後も大事にしていかないといけない。
一方、「朝日に変えた」というのは、どんな人だろうか。そんな人がいるのかと言われるかもしれないが、結構多いのではないか。それは「大学受験生を抱えた親」なのである。ここ数年、朝日の最大のウリは「大学受験に一番出題された新聞」ということだというのを知っている人は多いだろう。だから、最近朝日を読むようになったという高校生を僕は数人聞いたことがあるのである。これは今後変るだろうか。なかなか変わらないのではないか。大学教授に朝日読者のリベラル層が多いからというわけでもないだろう。一般記事ならどの社でもいいけど、論述試験に使いやすい文化面のエッセイ、評論などは、今までの執筆者とのつながりが維持できれば、朝日はやはり「一日の長」があるのではないか。このような一種の日本型クオリティ・ペーパー(高級紙)性を朝日新聞が持ってきたのは否定できない。逆に考えれば、今後も文化面の充実、執筆依頼者の充実を図り、政治的主張そのものではない「ちょっと社会のあり方を振り返って、世界や自己のあり方を考える」的なエッセイを充実させることが、朝日にとって最も重要なことなのではないか。
もちろん、大きな方向として、高齢化の進行と人口減により、朝日も読売も…どこも皆減っていくことは避けられないだろう。デジタル新聞の有料読者も、若い層には増えるかもしれないが、もともと高度成長時代から長いこと読んできた高齢読者がデジタルに変わるわけがない。年金生活で少しでも節約したいところで、もともと新聞は止めようかなどと思っている読者も多いことだろう。そういう層がこの機会に、永年の朝日を離れるということも考えられる。その場合、一部の読者はより安い東京や産経に流れるかもしれないが、多くはこの機会に宅配新聞をやめることになるだろう。
しかし、日本の場合、新聞は論調の違いによる政論紙というより、宅配制度による「便利さ」と文化、スポーツ等の「イベント業者」という面が大きい。宅配がなければ、一面トップを見て毎日変える人も多いだろうけど、朝晩(産経は朝だけ)食事時には新聞が来ているという利便性は何物にも代えがたいと僕は思う。そして、論調の違いはもう10年以上続いているのだから、「論調の違いで新聞を変える」人(どれだけいるか知らないが一定数はいるだろう)は、もう大体変えているのではないか。それに各新聞ごとに字体や記事の配置などのスタイルが少しづつ違っていて、慣れてしまうと他紙には多少の違和感があると思う。高齢層ほど、もう購読紙を変えたくない人が多いと思う。
また、読売新聞のキラー・コンテンツは、読売ジャイアンツと箱根駅伝だろうが、正月は箱根駅伝を見るという人でも、アンチ・ジャイアンツだと読売を取るのをためらう。日本一の人気球団巨人と言えど、数で言えばアンチの方が多いだろうし、関西圏や中京圏では浸透しにくい。(ちなみに新聞社としてプロ野球を持っているのは、今は読売と中日だけだが、かつては毎日と産経も持っていた時代がある。)一方、朝日のキラー・コンテンツは何と言っても「夏の甲子園」だけど、こっちの方が日本社会では大きいのではないか。家族、親せきに野球部員がいればもちろん、有力校に生徒が通う親、地元校を応援するファンなども、地方大会報道が一番充実している朝日を、論調は別として一時的でも購読することは今でも多いだろう。(もっとも地方面のほとんどが地方大会の記事になる7月後半はやり過ぎだと思っている人も多いはず。優秀な記者が地方大会の事前取材に時間を取られ過ぎるのも、もったいない感じがする。)
また、美術展の開催(招待券がもらえたりする)や様々な催し(祭り、フェスティバル等)の主催・後援、系列テレビ局と組んでの映画製作など、どんどん関連事業が幅広くなっている。スーパーやファミレスの折り込み広告も大部数の新聞の方がずっと多いから、そう言う意味でも読売と朝日は優位性を持っている。また出版事業に関しても、読売が子会社化した中央公論を含めて考えると一番充実しているとも言えるが、朝日は文庫、新書、選書と一揃い朝日の名前で持っているわけで、そういう事業を通して作家や学者とのコラボを作りやすい。ちなみに、朝日が戦争責任問題で他紙をリードする報道をしてきたのも、単に論調の問題というより、研究者との接点が系列の雑誌、選書等の執筆を通して多く持っていたということも大きいと思う。関連の旅行社の役割も最近は大きくなってきたと思うけど、朝日旅行の「日本秘湯を守る会」は、朝日全体のキラー・コンテンツになってきていると思う。
最後に今、各新聞の部数はどのくらいあるかを紹介したい。徳山喜雄「安倍官邸と新聞 『二極化する報道』の危機」(集英社新書。ちなみに著者は朝日の記事審査室幹事とあるが、この著書は7月に脱稿されている。)に出ている数字を挙げると、以下のようになる。
読売(986万部)、朝日(760万部)、毎日(342万部)、日経(288万部)、産経(167万部)、東京(52万部)=2013年4月現在、日本ABC協会調査。この日本ABC協会とは何かを調べてみると、新聞や雑誌の部数を調査する業界団体で、「Audit Bureau of Circulations」(部数公査機構)の略だそうである。今は中央紙だけを挙げたが、各地方ではブロック紙(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞がブロック紙三社連合、他に東北の河北新報、中国新聞を含める)や地方紙(新潟日報や信濃毎日新聞、京都新聞、神戸新聞など有力な新聞がある。戦時中の合同で一県一紙が多いが、沖縄には琉球新報、沖縄タイムズの2紙があり、県政に影響力がある)の方が読者が多いところがほとんど。TPPや集団的自衛権に関して、ブロック紙や地方紙はほとんどが「頑強な反対派」である。