尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

訂正を求めて謝罪を求めず-朝日問題⑤

2014年09月23日 23時15分51秒 | 社会(世の中の出来事)
 当初の「朝日たたき」の典型として、「誤報を認めたのに謝罪してない」というのがあった。これに対して、僕は異論がある。そもそも一般的な「何でも謝罪」の風潮がおかしいと思う。何でもかんでも謝れと詰め寄る「クレーマー社会」は息が詰まる。大学生が問題を超すと、成人にもかかわらず大学当局が謝罪会見を開いたりする。市役所の臨時職員が事故を起こすといった、成人市民が私的な時間で起こした問題にも市役所に抗議する人がいる。どこかおかしくないか。

 学校でも「いじめ」や「体罰」が問題になっているわけだが、ブログの記事で僕は「『減いじめ』は学校の目標ではない」や「『体罰』なきのみをもって『善し』とはせず」という記事を書いた。発想は似ていて、後者の記事をマネして言えば、「誤報なきのみをもって善しとはせず」となる。いじめや体罰が問題化すると、いじめや体罰をなくすことが、あたかも学校教育の目標であるかのごとく語る人が出てくる。新聞だって同じことで、誤報、誤報と騒ぎになると、ウソを書く新聞があっていいのか、誤報は許せないと叫ぶ人が出てくる。しかし、誤報がなければそれでいいのか

 学校で言えば、いじめも体罰もないけど、生徒も教師も管理されきって自主的なエネルギーも湧いてこないような学校を作ればいいのか。新聞も同じで、誤報もないけれど、何の面白みもない新聞では仕方ないではないか。誤報をしないだけでいいなら、官庁と警察の発表ものとスポーツの試合結果、そしてテレビ番組だけ載せていれば間違いない。実際、余計な人権意識や「社会の木鐸(ぼくたく=古代中国にあった大きな鈴。世の人を教え導く人の意味で使う)」意識が誤報を呼ぶんだから、そんなものはいらないということになりかねない。政府側の意識はそんなところではないか。しかし、それでは官報である。新聞批判が、「新聞の官報化」を推進するのか。

 吉田調書問題で、僕は「文脈理解」の重要性を書いた。その考え方はすべての問題にあてはまるから、慰安婦問題ならば「吉田証言」問題の文脈を丁寧に考えていかなくてはならない。また、「朝日批判」そのものの歴史的文脈もしっかりと考えなければならない。僕の考えでは、「吉田証言」も「吉田調書」も、しっかりとした検証が重要な問題であるとは思うが、社としての謝罪や社長の退陣に発展するような問題なのかと思う。何度も書くように、今は慰安婦問題は大きく取り上げないのだが、では「他紙はなぜ朝日ほど吉田証言を伝えなかったのか」という問題を提起すれば、各紙はどのように答えるのだろうか。それは「吉田証言に危うさを感じたから」ではないだろう。「慰安婦問題の重要性」を感知するほど、歴史感覚、人権感覚がなかったというだけではないのか。それは朝日もレベルは違えど似たようなもので、当初は大阪本社で報道しているだけだろう。

 僕がこういう風に書くのは、長いこと冤罪問題ハンセン病問題に関心を持ち続けてきたからである。ハンセン病問題は、2001年のハンセン病国賠訴訟の熊本地裁勝利以後は、水があふれるように各マスコミで報道された。しかし、特に1996年の「らい予防法」廃止以前はほとんど報道されてこなかった。冤罪問題に関しては、時々一審段階から裁判の問題を追及することもある。けれど、多くの場合は裁判で無罪、あるいは再審の開始決定が出るまではほとんど報道してくれない。だから、「古くから井戸を掘った人」、つまり他の人が書かないうちからしっかりハンセン病や冤罪問題に取り組んで記事を書いてくれた(テレビ報道をしてくれた)記者は、社を問わず関係者は名前を忘れない。

 特に冤罪問題の場合など、捜査当局ににらまれると、他の事件での情報収集にも影響が出かねない。警察、検察は有罪を主張しているので、冤罪主張を取り上げると、「誤報」であるかのように批判される。冤罪であっても、裁判所は認めず有罪判決になることも多い。そういう裁判で、冤罪可能性を報じると「誤報」になるのか。裁判所が無罪判決を出すと、「無罪病」などと誹謗する週刊誌もあるし、そういう週刊誌が今回朝日新聞を声高に批判している。そのような文脈で見てくると、一部週刊誌の朝日新聞批判は、誤報批判である以上に、「朝日新聞の報道姿勢=人権問題重視」を変えたいと願って強く批判しているのではないか

 「誤報」を避けるということだけを考え、各マスコミが委縮し、原発問題や歴史問題の報道に臆病になってはならない。しかし、実際は朝日新聞も少しづつ、「批判されないこと優先」にスタンスを移しつつあるのではないのか。群馬県の「群馬の森」に設置された「強制連行」碑の問題で、東京新聞は「強制連行」と書いているけど、朝日新聞は「戦時動員・徴用」としか書かなかった。これなどは、「正確を期す」というより「批判を避ける」という意識ではないか。そのように、「誤報と批判されないように」意識が広まっていけば、人権問題記事はほとんど書けなくなるのではないか。というか、もっと言えば、ほとんどの記事は書けないのではないか。

 僕が思うのは、教育と同じように、「報道機関」というものも単なる商品ではないということである。普通の商品だったら、確かに欠陥商品だったらクレームをつけるのは当然だ。しかし、教育における「消費者意識」が、学校を作っていく主権者意識を生まないのと同じようなことが新聞にも言えるのではないか。新聞は特に、読者が自分の考えを投稿して他の読者に読んでもらえる可能性があるというかなり特別の「商品」であり「メディア」である。一方的に謝罪を求めるというよりも、よりよき報道を求めるために「訂正」を求めるという方が重要ではないのだろうか。今回の「吉田調書」問題も、謝罪とか責任よりも、ではどういった報道がふさわしかったのか、当日の新聞を作り直して報道し直すということの方がずっと大切なのではないかと思う。そして、各新聞には是非、「誤報」とそしられることを恐れずに、権力犯罪や政府が隠そうとしていることに挑みつづけて欲しいと思うのである。
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