尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

道徳の「教科化」問題を考える①

2014年11月12日 23時04分34秒 |  〃 (教育行政)
 「道徳」の教科化という問題が起こっている。これは「戦後教育の転換点」だと思う。しかし、その現場的な意味が十分に理解されているとは思えない。反対派の中にも、これは「安倍首相の『戦争をできる国作り』を支える政策だ」などと思っている人がいるらしい。例えば、週刊金曜日11.7号(1015号)に北村肇氏が書いている「『道徳』教科化を笑う」という小文などは、その一例ではないか。「安倍氏らの考えているのは『修身』の復活なのだろう。自己よりも国家を優先する思想に染め上げれば、戦争をしようが、労働力を搾取しようが、言論の自由を奪おうが、国民は国家に盾つかなくなる。『非国民』は獄につないでしまえばいい―。」小学校と中学校で、週に一時間教えるだけで、そこまでの凄いことができると本当に思っているのだろうか。教える教師は、その目論見をそのまま教え込むのか。

 そう考えてくると、道徳の「教科化」にそこまでの過剰な危機感(あるいは期待)を覚えるというのも、一種不思議な「現場無視」ではないかと思う。この問題の流れを見て来れば、これは直接的には「いじめ対策」から出てきたものだと判るだろう。だから、道徳「教科化」がいじめ対策としてふさわしいか、効果的なのかを論じなければ意味がない。次回以後に書くように、この「教科化」がもたらす「教師の負担増」はものすごく大きいだろう。それに見合った「負担軽減策」がなければ、いじめはかえって増加するだろうし、多分多くの学校はふたたび「荒れ」を経験することになるのではないか。

 さて、本格的にこの問題を論じる前に、基本的なおさらいと現状を書いておきたいと思う。戦前まで、日本の小学校には「修身」という教科があった。これは「忠君愛国」を教え込む性格のものだったので、占領下に廃止され、以後確かに右派は「修身復活」を主張している。今でもそういうことを言う人はたくさんいる。占領後にそういう議論があったが、「修身」ではなく「道徳」に「教科」ではなく、「道徳の時間」という扱いで、1958年に告示された学習指導要領で小中学校に新設され、(非常に例外的なことに)告示の年から直ちに実施された。その後、ずっと週に一時間「道徳」の時間が置かれているわけだけど、「道徳」以外のこと(主に学級活動)に使われることは確かに多かった。

 今回の「教科化」の流れを見ると、「上から」進められていることが明らかである。(だから、「安倍復古教育」を危ぶむ声が出てくるのも理解はできる。)安倍首相の下で「教育再生実行会議」が首相官邸に設けられ、その第一次提言に、いじめ対策として「道徳教科化」が打ち出された。(2013年2月)続いて、その具体化をめざすために「有識者会議」が作られた。正式には「道徳教育の充実に関する懇談会」で、2013年12月26日付で報告書が出された。続いて、2014年2月に、文科省が中央教育審議会に「道徳に係る教育課程の改善等について」を諮問した。その答申は2014年10月21日に出された。「道徳に係る教育課程の改善等について」である。このように、教育行政の手順を踏んできているので、このまま何もなければ次回の学習指導要領で正式に「教科」となるわけだろう。しかし、具体的な細かい問題が山積しているので、僕はそう簡単には進まないと見ている。要するに、ただ「教科」と呼ばれるようになっただけ、ということに当初はなるのではないか。

 では「教科」とは何なのか。法的な用語ではなく、どこかで正式に決まっている定義もない。だけど、学校で教えるべきことは、歴史の流れの中でいくつかの分野にまとめられていることは間違いない。寺子屋だったら「読み、書き、そろばん」とか。その場合の「3つの分野」が、言ってみれば「教科」ということになる。だから、道徳を「教科」にするということは、国語とか数学とかと道徳を同列の「学習対象」にするということである。なお、高校は「教科」の下に「科目」があるが、小中は「教科」しかない。中学社会科の地理、歴史、公民は、それぞれ違う教科書を使うが、それは「分野」と呼ばれて同じ社会科の一部分である。落第のない小中と科目ごとの「修得単位数」で卒業が決まる高校の違いである。

 中学校ではどのような教育活動を行うのだろうか。それを「中学校学習指導要領」で見てみたい。大きく分けると4つになり、「各教科」「道徳」「総合的な学習の時間」「特別活動」になる。一応書いておくと、「各教科」というのは、国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術家庭、外国語の「9教科」である。「特別活動」は、学級活動、生徒会活動、学校行事に分かれる。「道徳」の中身がどのようなものかは、ここで書くと長くなるので次回に回すが、この「教科」とそれ以外の違いは何だろうか。言うまでもないだろう。「教科」は5段階で評価され、それが上級学校進学に大きな影響を及ぼす。「総合学習」も確かに「評価」らしきことはするのだが、これは「活動の時間」だから、「しっかり活動し、成果を挙げたか」といった評価基準となる。

 一方、「教科」は「学習」なので、「学習到達目標」に応じて、各生徒の到達度を数値で評価する。それがどれだけ客観的なものか、正確な評価かどうかは問題になるけど、「二次方程式を解けるかどうか」とか「英単語をどれだけ覚えているか」は、大体の評価はできるだろう。テストで100点を取ったら、それは求めるべき学習到達度から見て、成績は「5」だろう。そのテストがどれだけ客観的な学習能力を反映するかには疑問もあるけど、まあ、そう難しいことを言わなければ、教師による評価はできる。それが学校成立の根拠だし、それを皆が重要視している。では、「道徳」を「教科」にするとどうなるのか。「道徳」は「学習」の対象になってしまうのである。だから、「評価」の対象になってくる。今のところ、数値による評価ではなく、文章による評価という方向で検討されているが、「評価」が必要なのは間違いない。でも、一体「道徳」の何を評価できるんだろうか。「理解度」だろうか、「実践」だろうか。でも、道徳は「理解」すればいいというもんではないだろう。結局、この問題を深く考えていけば、「学校」とか「教師」とは何だろうという問題になってくる。その問題を考えずに、道徳教育を強化するのはいいことじゃないか、程度で進めてしまうと、ものすごく大変なことになってしまうと心配である。
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