尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「アデルの恋の物語」以後-トリュフォー全映画⑤

2014年11月02日 23時11分20秒 |  〃 (世界の映画監督)
 「アデルの恋の物語」以後の作品を全部見ることにして、簡単に書きたい。画像も少な目で。
アデルの恋の物語(1975) ☆☆☆☆
 76年キネ旬7位。非常にシンプルな構造で一直線に進む「狂気の愛」の物語。公開時に見た時に非常に強い印象を受けた。今回見直すと、これは「ストーカーという言葉がなかった時代のストーカー映画」だと思った。あるいは「恋愛中毒」と言ってもいい。アデルが実際に後半生を精神病院で送らざるを得なかったことが示すように、これは明らかに「心の病」を描いている。もっとも春日武彦「ロマンティックな狂気は存在するか」という本があるように、一時期まで「狂気になるほどの熱狂的な愛」という神話もあったのだろう。でも、現実にはそれはロマンティックな誤解であり、人格破壊があるだけなのである。

 アデルはヴィクトル・ユゴーの娘で、巨大な父、早世した姉を背負っている。父はナポレオン3世に反対して、英仏海峡の英領ガーンジー島に亡命中で、アデルはそこで若い英国士官と結ばれる。当時のことだから、当然結婚を前提にしていたとアデルは思っただろうけど、男は避けるようになる。(初めから遊びなのか、それとも激しすぎる求愛に閉口したのか…。)映画は英領カナダのハリファックスに偽名のアデルが男を追って到着するところから始まり、男がカリブ海のバルバドスに転任すると、そこまで追って行き倒れるまでを描く。この種の映画の典型となる傑作。
  
トリュフォーの思春期(1976) ☆☆☆★
 76年キネ旬3位。日本では「アデル」と同年に公開されて、両方ベストテンに入ったが「思春期」の方が評価が高かった。僕にはそれがよく判らなくて、幼い子供たちのエピソードをつないだだけのような作品に思えて面白くなかった。今回見直して、これは「子どもたちの自然な姿を映像に収めて、フランス社会を定点観測してみた面白い作品」だと思うようになった。題名は思春期だけど、小学生の時期でもっと幼い時代の悪意のないいたずらなどが多い。中で「虐待」のケースがあり、最後に教師が子供向けに大演説している。トリュフォーの娘なども出ているドキュメンタリー・タッチの作品で、トリュフォーの映画では異色の作品になっている。見直した時はとても面白く感じたけれど、少し時間が経つと「アデル」のような一直線映画の印象の方が残る。
恋愛日記(1977) ☆☆
 キネ旬27位。この映画はなあ…という感じの映画。同じ監督作品を続けてみると、「反復」が目につくことになる。トリュフォー映画の場合、一番重大な問題は「女性の脚」へのフェティッシュな執着で、この映画はそういう傾向を集大成した「脚フェチ一代記」である。全然ハンサムとは言えない、「私のように美しい娘」で害虫駆除業者をやってたシャルル・デネルという男優が主人公で、女性遍歴を繰り返すさまを描いている。最後は自伝を書いて出版しようとし、うまく行くはずだったけど…。冒頭は葬儀の場面である。正直に言って、僕には全然判らない映画。

緑色の部屋(1978) ☆☆☆★
 キネ旬24位。日本でもフランスでもほとんど評価されていないと思うが、非常に美しい映画で、岩波ホール公開時より僕の大好きな映画。でも、「死者に取りつかれた男」という主題が暗すぎて一般的には受けないだろう。ロウソクで死者を弔うチャペルを撮影するアルメンドロスの撮影は異様に美しい。トリュフォーが自分で主演していることで判るように、トリュフォー映画の中でも非常に重要な映画ではないかと思う。日本でも天童荒太「悼む人」が直木賞を取ったわけだから、この映画の主題は伝わるのではないか。人間には「死」を直視できず避ける心性もあるが、「死」を身近に感じ取りつかれるような心性もある。ナタリー・バイの美しさも際立ち、「3・11」後の今こそ見直されれるべき傑作。

逃げ去る恋(1979) ☆★
 僕の評価はこの映画が一番低い。アントワーヌ・ドワネルものの5作目で、最後の作品。今までの映画が随所に引用され、なんだか「自作解説」みたいな感じである。離婚したクリスチーヌ、昔好きだったコレットも出てきて、同窓会的にアントワーヌの女性遍歴を振り返る。これは「シネマ・セラピー」としてのトリュフォー映画の性格が一番正直に出ている。その意味では「トリュフォー研究」の観点からは興味深いが、なんでアントワーヌの恋愛に僕らがこれほど付き合わされるのかと正直ウンザリする。どうしても弁明的にならざるを得ないし、映画にしなくていいんじゃないと思ってしまうのである。まあ、この映画だけ見てもよく判らないと思うんだけど、そういう「自立性の低さ」も低評価になる理由。
終電車(1980) ☆☆☆
 セザール賞作品賞、監督賞、主演男女優賞など10部門受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、キネ旬16位。この時代、ゴダールは商業映画に復帰しつつも日本では公開されず、ロメール、リヴェットはまだ紹介されず、シャブロルは「娯楽映画」ばかりになり…、トリュフォーひとり、「フランス映画を支えるような大監督」になり、「古典」的な映画作家に「昇格」しつつあった。そういう彼がフランスで一番評価された映画が「終電車」で、ドイツ占領下のパリで劇場を守るカトリーヌ・ドヌーヴの「抵抗」を描く。フランス人の琴線に触れるテーマを若手のジェラール・ドパルデュ―との絡みで大作恋愛映画+対独抵抗映画に結晶させた。そこが評価されたんだろうけど、当時の社会状況、劇団の恋愛事情、劇中劇などが混然一体となって感動するというより、日本人が見ると「バラバラ感」があるのは否めないのではないか。どうも長すぎるし。日本ではベストテンで上位にならなかったし、そういう評価は今回見ても僕には変更不要に思った。ドヌーヴの落ち着いた美しさは一見の価値。

隣の女(1981) ☆☆☆ 
 83年キネ旬6位。郊外の一軒家で美人妻と子どもと共に暮らす男。その隣の空き家に夫婦が入ってくる。会ってみれば、「隣の女」は「訳ありの元カノ」だった…。という夢のような悪夢のような設定で、世界の恋愛映画に大影響を与えた映画だが、今見直すと、ジェラール・ドパルデューが若くて(まだあまり)太ってないのに一番驚くかも。スーパーに車で買い物に行って再会、休日はテニス場で社交、彼女は絵本作家を目指している…といったいわゆる「ニューファミリー」的な設定に当時の僕の評価は引きずられていた。そういう社会風俗的な部分が時間とともに色あせると、そこに見えてくるのは「愛に傷つき、心を病む女性」の姿である。ファニー・アルダンの造形は今見ても、全く古びてないどころか、日本のイマドキを見るようである。でも、僕は奥さん(ミシェル・ボームガルトネル)の方が好みだから、子どももいるんだし、何をやってるんだと思ってしまうけど。トリュフォーはファニー・アルダンと子どもを作っちゃったんだから、こういう人が好きなんだろうな。

日曜日が待ち遠しい!(1983) ☆☆☆
 トリュフォーの「遺作」はモノクロのミステリー映画で、もうファニー・アルダンを見るためだけのような映画である。不動産屋の社長のジャン=ルイ・トランティニャンの周りで、不審な殺人が相次ぎ、疑われる。秘書のアルダンが隠れる社長に代わってニースまで真相追及に出かけ、危険なミステリーの中に飛び込んで行く。ほとんどハッピーエンドがないトリュフォー映画としては珍しく、最後に二人が結ばれて終わる。ミステリー的なムード(謎解き)はある意味トリュフォー作品で一番あると思うが、この「解決」は論理的に無理があるように思う。でも細部は忘れてしまうから、今回で3回目だけど、真相は何だったっけと一応楽しく見ることができる。すごい傑作とは思わないけど、これはこれで「遺作」としてはいいかなと思っている。
 
コメント (3)
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「恋のエチュード」と「アメリカの夜」-トリュフォー全映画④

2014年11月02日 00時49分15秒 |  〃 (世界の映画監督)
 トリュフォーの全映画の4回目。1970年代に入ってくる。
家庭(1970) ☆☆★
 アントワーヌ・ドワネルものの第4作目。これまで順調に公開されてきたトリュフォーだが、この作品は1982年まで公開されなかった。単館系映画館でドワネルものを一挙上映する企画で公開されたと記憶する。ドワネルものの最後の2本は「映画的記憶」に頼った面が大きく、映画的に自立していない感じが否めない。トリュフォー作品には「日本への言及」が多いのも特徴だが、特にこの映画は「日本」が大きく登場している。「日本人にしか判らないジョーク」も存在するから、もっと早く公開されて欲しかった。

 「夜霧の恋人たち」の恋人、クリスチーヌと結婚、子どもも生まれるが、アントワーヌは仕事で会った日本娘「キョーコ」に惹かれてしまう。その様子をコミカルに描くが、一体何してるんだか。このキョーコも変な描写で、リアルな日本人ではない。パリでモデルをしていた松本弘子という人が演じている。姓が「山田」となっているが、これは友人で映画評論家の山田宏一から取ったものだという。そこに敬意を表して★ひとつアップ。
 (松本弘子と)
恋のエチュード(1971) ☆☆☆☆
 73年キネ旬13位。世界的にもあまり評判を呼ばなかった作品だが、僕は昔から大好きで、何回見てもやはりいいと思う。今回見ても、評価は変わらなかった。でも、「突然炎のごとく」より上とまでは思わない。「突然炎のごとく」の原作者、ジャン=ピエール・ロシェのもう一つの長編小説「二人の英国女と大陸」の映画化で、設定が正反対になっている。つまり、「男2対女1」が「男1対女2」へと。しかも女性二人は姉妹である。ジャン=ピエール・レオの演じるクロードは、パリで母の知人の娘、英国人のアンと知り合う。ロダンに憧れ彫刻の勉強に来たのである。二人は惹かれあうものを感じ、今度はクロードが英国の海辺の村に住む姉妹を訪ねる。そこには姉のアンと妹のミュリエルが母と住んでいた。クロードは二人の娘と語り合い、テニスをし、サイクリングをする。アンは彼が妹にふさわしいと思って、二人の仲を進めるが、母親はすぐの結婚を認めず冷却期間を置くことになる。以後、細かく書いても仕方ないけど、パリと英国で、クロードと姉妹の長いすれ違いの日々が始まるのである。

 このクロードを演じるジャン=ピエール・レオは気まぐれな青年をうまく演じて、代表作とも言えるが、「優柔不断な青年」という印象が強い。そういう演出なんだけど、「突然炎のごとく」のジャンヌ・モローが神秘的な神々しさがあったのと比べると、確かになんだという気がするのも仕方ない。全体に暗い画面が多いことも当時の観客に嫌われたのではないか。(僕はそういう暗い映画が好きなんだけど。)僕はアルメンドロスの撮影とドルリュ―の音楽が醸し出す、格調高い愛の年代記に十分満足するんだけど。愛は移ろいやすく、悔いが残るものである。時間の流れの中で結ばれたり別れたり…、そういった誰もが思い出す人生の哀歓を、美しい風景の中に定着させた名作だと思う。

私のように美しい娘(1972) ☆☆☆
 軽妙洒脱な悪女ものコメディ。トリュフォーの中では軽い作品で、明るい語り口が面白い。キネ旬23位。「あこがれ」のベルナデット・ラフォンが刑務所の囚人で出てきて、女性と犯罪を研究している社会学者のインタビューを受ける。彼女は幼少の頃より、秩序意識が少なく性への関心のまま野放図に生きてきた。しかし、その天衣無縫な魅力に男は参ってしまい、逮捕前は何人も男と同時に関係を持っていた。社会学者も結局その魅力にとりこまれてしまい、彼女の事件を再調査。害虫駆除業者を塔から突き落とした事実はないことを証明、彼女は無罪釈放となるものの…。誇張されたコミカルな演技で軽快に映画は進み、楽しく見られる。だから面白いとも言えるんだけど、まあ小品的な印象。

アメリカの夜(1973) ☆☆☆☆★
 アカデミー賞外国語映画賞。監督賞ノミネート。キネ旬ベストテン3位。その年のベストワンは「フェリーニのアマルコルド」、2位はベルイマンの「叫びとささやき」とレベルが高かった。「アメリカの夜」というのは、フィルターをかけて昼間に夜景を撮る技法のこと。フランスで言う業界用語で、この映画で一般化したかもしれない。昔の映画を見てると、よく使われていたものである。「現実ではなく演技を撮影する」劇映画そのものの象徴として使われている。「映画撮影現場を舞台にした映画」だが、劇中劇(映画内映画)の映像は出てこないで「舞台裏」だけを描いている。純粋に映画の撮影現場をドラマにした脚本がよく出来ている。昔から好きだったが、3年前に「午前10時の映画祭」で再見した時にはちょっと期待外れだった。今回で3回目だけど、見直したらやはりすぐれた作品だと思った。

 監督自身をトリュフォーが演じていて、「パメラを紹介します」という映画を撮る設定。南仏にオープンセットを作って、クレーンや移動レールで大規模な撮影をしている。映画の裏では、何度も撮り直したり、脚本の書き直しが遅れたり…はまだいいとして、俳優どうしの内輪もめ、恋愛沙汰などトラブル続発。そういう「現場の大変さと面白さ」が全開の映画で、映画愛を封じ込めたような作品になっている。最初の公開時には「映画に愛をこめて」と言う副題がついていた。主演女優役のジャクリーン・ビセットの精神的に危うい女優役がやはり素晴らしい。助監督やスクリプターなどの裏方役の俳優もきちんと描き分けられていて、映画作りがよく判るが、それ以上に「仕事とは何か」という意味で見所が多い。
コメント (3)
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