尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「道徳」授業の実際-道徳「教科化」問題②

2014年11月13日 23時07分47秒 |  〃 (教育行政)
 自分が中学の教員で「道徳」を担当していたのも、もう20年以上前になる。その頃は「心のノート」なるものもなかったし、今とは相当に違うと思う。道徳の授業は、基本的に学級担任が行うとされているので、担任を持った年に「何かをやっていた」はずだけど、もう全然覚えていない。もっとも担当の教科でやっていた授業も全然覚えていない。学校行事などに比べれば、ほとんど記憶に残らないものである。ただ、はっきり言えることは、最近よく批判されるように、「道徳の時間」に「道徳」ではなく、「席替え」だの「(運動会などの)選手決め」を行うことは確かにけっこうあったと思う。

 今は「年間授業計画」の作成は義務付けられているし、「道徳」実施時数の調査などもあるので、昔よりは「道徳」をきちんとやっているのではないか。自分の時代は「月曜日の1時間目」に「道徳の時間」が設定されることが普通だった。それでは休日が多くなる。「ハッピーマンデー」なるものが出来た今では、「月曜の1時間目」では時数確保が難しすぎるので、他の時間にやっているのだろうか。でも、何かを月曜日に授業しないといけない。「学力向上」がこれほど叫ばれて、学校評価にも大きく影響するわけだから、ホントは「道徳」を月曜日に置きたいだろう。

 それに学校行事が近づいてくると、運動会や文化祭の準備に時間を取られる。どこかの授業をカットして、準備時間を作らないといけない。今は準備も短時間に減らされているかもしれないけど、昔はそういう時にも「道徳の時間」は大体最初にカットされていた。そして、それが問題であるとは全く思ってなかったし、今も思わない。なぜなら…という理由はいくつかあるけど、「道徳の時間」とは一体何なのだろう。「席替え」に使ってはいけないのか。確かにそれは本来は「学級活動」の内容だろう。でも、同じ担任がやってるんだし、「学活」が祝日や行事でつぶれることも多い。クラスの気分一新、新しい班作りで協力態勢を再編成することは、クラスにとって「道徳の実践」以外の何物でもない。

 「心のノート」などを使って、思いやりだの協調性だのと教師がいくら「道徳」を説いても、修学旅行の班決め運動会の選手決めなんかの時に、そのクラスの人間関係が試される。生徒と教師の底力はそういう場合に現れるのだと思う。行事の時期や休日の予定などを考え合わせ、「道徳の時間」を「柔軟に運用する」ことは、学校現場に必須のことであり、「道徳の実践」そのもので何ら非難されるものとは思わない。ましてや、そうやって「道徳」ではなく「学活」に使うから、いじめが増えるだなんてバカなことがあるわけがない。「道徳の時間」をもっと大切にすることが「いじめ対策」であり、そのために「教科化」するなどという発想そのものが現場的には理解不能だろう。

 ところで、「道徳」では一体どんなことをやっているのだろうか。実は僕は「文部省指定」の「道徳教育研究校」を経験したことがある。だから、中学の道徳教育にはある程度詳しいのだが、現行の指導要領を見ると、ものすごく詳しくなっていることに驚いた。1977年告示の中学学習指導要領は、国立教育研究所のホームページで見られるが、その当時は「16項目」と言っていた。(なお、いわゆる「愛国心」=「日本人としての自覚をもって国を愛し」という項目は、その当時から文言としては入っていた。)今の現行要領を見ると、4分類、24項目にわたって指導することになっている。 いやあ、これは考えるだけでも大変だなあ。あんまり細かく見てもどうかと思うけど、資料的な意味で触れておきたい。面倒くさいから飛ばしてけっこうです。

 まず、道徳の内容は4つに分かれている
1 主として自分自身に関すること
2 主として他の人とのかかわりに関すること
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること
  具体的な中身は文章による表記なので、全文を引用すると長くなり過ぎるので、簡潔にまとめる。
 例えば、「1の(1)」は「望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。」が正式だけど、これは「望ましい生活習慣」と略する。

1 主として自分自身に関すること。
望ましい生活習慣 ②強い意志 ③自律の精神 ④真実を求める心 ⑤自己を見つめる、個性を伸ばす
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
礼儀の意義 ②人間愛と思いやり ③友情の尊さ ④異性に対する正しい理解 ⑤個性尊重と寛容の心 ⑥感謝の心
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
生命の尊重 ②美しいものに感動する心 ③生きる喜び(弱さや醜さを克服する強さや気高さ) 
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
法やきまりの意義 ②公徳心及び社会連帯 ③差別や偏見のない社会の実現 ④集団生活の向上 ⑤家族の一員としての自覚 ⑥学級や学校の一員としての自覚 ⑦郷土愛、先人や高齢者への尊敬と感謝 ⑧日本人としての自覚、伝統の継承と新しい文化の創造 ⑨世界の平和と人類の幸福

 以上をちゃんと全部読んだ人は少ないと思うけど、教師でもあんまり指導要領を見ることはないかもしれない。でも、こういう項目に分かれていることは中学教員は大体知っているだろう。(小学校はもう少し少なくなっている。)今の「3の⑧」を僕は「日本人としての自覚、伝統の継承と新しい文化の創造」と略したけど、全部引用すると「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する」である。だから「愛国心」とまとめてもいいのかもしれないが、単なる愛国心に触れることが目的ではなく、「新しい文化の創造」と結びついている。だからいいじゃないかということではないが。大体、学校現場では「3の8」「3の9」あたりまでは時間的にやりきれない。

 「道徳」の時間は担任がやると言っても、勝手に自分の考えで進めることは普通ない。学校の年間計画を受けて、学年会で来週の時間はどこをやると決めるのが普通だろう。学年や学級の課題(いじめがあったとか、修学旅行が近いとか)に応じて、内容を柔軟に変えていくことは普通。時事問題も使う。例えば、マララさんのノーベル賞受賞などは、一体どこに該当するかと言えば、もういろんなところにあてはまるだろう。「強い意志」でもあるし、「寛容の心」「差別や偏見のない社会の実現」「世界の平和」などいろんな切り口がある。まあ、そういう題材を選びながら、これらの項目を進めていく。「集団や社会とのかかわり」が昔より重視されている気はするけど、「国を愛する心」などは教育基本法に盛り込まれているわけだから、「道徳」にも当然ある。しかし、そこだけを重視するなどということは学校現場ではありえない。(年間計画を公表しているはずである。)問題は、これらの項目を「道徳の時間」で取り上げることと、「教科として学習して評価する」ことには大きな違いがあるのではないかと思うのである。
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