尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

伝通院-小石川散歩①

2014年11月22日 21時43分50秒 | 東京関東散歩
 散歩の写真がたまっているので、少し現実を離れて東京散歩のまとめ。小石川伝通院あたりから。初めて行ったのは6月なんだけど、10日ほど前にもまた行ってみた。もともと永井荷風の生地に近く、荷風のエッセイに「伝通院」があるから行ってみたのである。ついでに周囲の小石川一帯に史跡がたくさんあるので、最近はよく散歩している次第。

 「小石川」という地名は、小石川後楽園とか小石川植物園というのがあるので昔から知っていた。でも、戦前まであった「小石川区」が「本郷区」と合併して、今の文京区になっているので、「小石川」と言われても今ではあまりなじみがない。JRや地下鉄の駅名にないと、土地勘が判らなくなるのである。ネット検索では「小石川中等教育学校」(旧府立五中、都立小石川高等学校)が最初に出てくる。僕も東京の教員をしていたから、小石川というと学校の名前という感じなんだけど、所在地は文京区の北の方である。一応、旧小石川区の外れにあるようだけど、文京区の南の方の小石川後楽園とはずいぶん離れている。一体、「小石川ってどこだ」と昔から思ってきた。

 だんだん判ってきたけど、荷風が書いてた伝通院(でんづういん)がとても大事なのである。ビルが立ち並んでいるから、もうよく判らないが、伝通院というお寺のある場所が高台の頂点で、その辺りの川に小石がいっぱいだったのが地名の由来だとある。伝通院と言っても、僕は最近になるまで名前を聞いたことがある程度だったけど、ここは江戸時代には「江戸の三霊山」だった。他は上野寛永寺と芝増上寺である。つまり将軍家ゆかりの寺である。伝通院も同様で、ここには徳川家康の生母、「於大の方」の墓所がある。そもそも於大の方の法名が「伝通院殿」だったから、ここは伝通院なのである。そして小石川一帯は、江戸時代はほぼ伝通院の所領だった。

 というようなことが判ってきて、では伝通院に向かう。地下鉄の春日または後楽園からしばらく歩く。文京区役所前の大きな通り、春日通りを西へなだらかに登って行き、冨坂警察署を過ぎると「伝通院前」という信号がある。右を見わたすと、道路の突き当りが伝通院。荷風の時代にも火事になっているが、空襲でも焼けた。まず見えてくる大きな山門は2012年再建なので、真新しい姿で町を見下ろしている。山門の前に「酒を帯びて入るな」と書いた石柱があるが、これは今はない処静院(じょじょういん)という塔頭(たっちゅう)にあったものだとある。
    
 山門を入ると、かなり大きな境内だが、本来はもっと大きく、隣にある淑徳SC中等部・高等部という女子校も元は伝通院の中だった。山門前に会った石柱の処静院(じょじょういん)だけど、そこは1863年に浪士組が結成され集まった場所である。清河八郎らが将軍警護を名目に浪士を集めて、京都に旅立った。様々な経過があるが、この浪士組が後の新撰組となる。集まった250名ほどの中には、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨らがいた。このような歴史の舞台となった伝通院だけど、今の本堂は1988年に再建されたもの。
  
 ということで、建物には古いものはないので、現在は歴史散歩的には「墓めぐり」が中心。徳川関係だけでなく、有名人の墓がいっぱいある。墓地に入る前に案内図がある。ともあれ、まずは大きく目につくのが徳川関係で、於大の方だけでなく、千姫の墓もある。先の3つが於大、最後が千姫。他にもずらっと将軍の正妻の墓などが並んでいるが、省略。
   
 その他のお墓には、ズラッと並んでいるのが歴代住職の墓。次が作家・佐藤春夫、浪士組結成の呼びかけ人・清河八郎、明治時代の思想家・杉歌重剛
   
 続いて、明治初期の外務卿で、幕末の尊皇派公家・沢宣嘉、日本画家・橋本明治、作家の柴田錬三郎。柴田錬三郎は、眠狂四郎シリーズなどで有名で「シバレン」と呼ばれたが、他の歴史上の有名人と違い、大きな案内版がない。だから少し探してしまうけど、案内図の位置からしてこれだろう。本名は斎藤と言うようだし。
  
 ところで、伝通院の前に「浪越指圧専門学校」がある。「指圧の心は親心 おせば生命(いのち)の泉湧く」の言葉で存命時は超有名人だった浪越徳治郎の作った学校である。学校の前に本人の像などがあるが、伝通院に入って左手奥に「指塚」もある。これも珍しいもので、見逃せない。
  
コメント
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