尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

こんにゃく閻魔と牛天神-小石川散歩②

2014年11月23日 21時17分37秒 | 東京関東散歩
 東京の地図を見ていると、面白い名前のお寺や神社が多い。巣鴨のとげぬき地蔵などは、有名になり過ぎて何も感じなくなっているけど、文京区の小石川あたりには「こんにゃく閻魔」とか「牛天神」がある。ちょっと離れるので今回は行ってないけど「しばられ地蔵」というのもある。東京は大企業の都市だというのも間違いないが、一方で江戸時代以来の庶民の町的な部分もけっこう残っている。自分にはほとんど信仰心というものがないのだが、町を歩いて小さな寺社を見つけると、そこに地元の人(と思われる)が信心に来ているというのは、なんだか懐かしくなる光景だなと思う。

 では、こんにゃく閻魔に行ってみようと思うが、その前に寄るところがある。というか、実は一番最初にここに行ったのである。そして多くの人にお勧めなのが、まず「シビックセンター」に行くことである。要するに文京区役所なんだけど、すごく高いビルになっていて、高層に展望台がある。そして、一階に文京区観光協会があって、そこで散歩地図や博物館、美術館などのチラシが置いてある。文京区は歴史ある坂の町で、詳しい地図がないと探し物が見つからない。散歩に必須だから、まずここに行くべきだ。シビックセンターは集会などでよく使うところだが、上に上がったことがない。せっかくだから、一番上まで行くと、文京区がすっかり見渡せる。(最初の写真の緑が小石川後楽園。)ここは都営地下鉄三田線、大江戸線の春日駅から直結している。地名も春日で、今まで意識しなかったけど、これは春日局から来ている。江戸時代初期、3代将軍家光の乳母だった春日局にこの地の所領が与えられたという。隣の公園に春日局の銅像があった。
   
 シビックセンターから冨坂下信号のところを北へしばらく歩くと、こんにゃく閻魔(えんま)がある。正式の名は源覚寺。創建は江戸初期の1624年だから、日本全国的には格別古くないが、新開地江戸としてはそれなり。寺域は案外小さく、建物も新しい。由来となった仏像も見られない。ここには「こんにゃく閻魔」という仏像があり、右目が濁っているという。江戸時代中頃に、ある老婆が眼病の治癒を祈願したところ、夢に閻魔大王が出てきて、自分の目を代わりにして治してあげようと告げた。眼病は治り、老婆は好物のこんにゃくを断ってずっと供えた。これが「こんにゃく閻魔」の由来だとか。「汎太平洋の鐘」という、1690年に完成し、戦前にサイパンに贈られ、戦後になってテキサスで見つかったという鐘があるが、逆光でよく撮れなかった。
   
 その前の通り「えんま屋」という居酒屋があった。昼に通ったけど、ランチで流行っていた。その通りの店は「えんま商盛会」と名乗っていて、ホームページもある。道には「好きです この街 小石川 えんま通り商店街」と書いた旗が吊るしてある。そこをしばらく行って、小石川2丁目の信号を左折すると善光寺坂で、ずっと行くと伝通院。善光寺坂は別に書くので、今はここで終わり。ここからは本郷も近く、一葉や賢治など文学散歩の場所だけど、そっちもまた別に書きたい。
  
 さて、「牛天神」は伝通院前から安藤坂をずっと下って行ったところにある。後楽園駅から小石川税務署を通り過ぎ、坂の方を登ったすぐ。天神に牛は付き物だから、この名は不思議ではないけど、神社が「牛天神」と名乗っているのも他にない。道を少し入ると上り口があるが、ものすごい急な階段で、夏に行ったときは登る気にならなかった。今回は菊まつりで菊が置いてあった。登りきると、牛のかたちにくり抜いた板があり、おみくじが結び付けられている。下の安藤坂に明治中期、歌塾「萩の舎」があった。樋口一葉が通ったところである。(その説明板は前に「荷風散歩」の中に載せた。)その「萩の舎」の主催者だった中島歌子の歌碑が牛天神にある。
   
 下の写真の最初は牛天神の本殿だが、ここの一角にもう一つ別の神社があった。それが三枚目の写真。「太田神社」と言って、芸能の神だという。震災の頃までは、芸能界の信仰篤かったというが、今は忘れられている。芸能界を目指す人は行ってみたらどうか。またここの御神木である「木斛」(もっこく)が珍しい。どちらも行ってみたら小さな寺社で、ここだけ訪れるのはどうもというところだったけど、近くに見所が多いので、東京ドームの近くにこんなところもあるという紹介。
   
コメント
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