尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「道徳」は評価できるのか-道徳「教科化」問題③

2014年11月14日 22時33分38秒 |  〃 (教育行政)
 道徳の「教科化」などということにでもなれば、一番困るのは「評価」の問題である。道徳は果たして評価できるのか?その本質的な問題は後で検討するとして、とりあえず文章であれ何であれ「評価」しなければならなくなったとする。そのときはとんでもなく大変な事態が起きるだろう。つまり、全学級担任が関わっているのだから。学年生徒を何人かの教師で分担して教えることがある。4、5クラス規模ぐらいだと、学年を一人で持つことも可能だけど、大規模校だとそれはできない。また、社会科で歴史分野と地理分野を分けて担当するような場合もある。そういう場合、「評価」が教員ごとに大きく違ってはまずい。だけど、普通の教科であれば、定期テストの点数という一番基本になるものがある。そこに提出物や授業中の意欲などを加味すれば、大体「統一基準」が出来てくる。

 ところが「道徳」の場合、テストにはなじまないし、作文等の採点も教員ごとに基準がずれてきやすい。何しろ全担任が関わってくるので、「あの先生は厳しい」「あの先生は甘い」となってはまずい。基準をどうするか、その基準に沿って実際にどう評価するか。ものすごく多大な校内研修と作業時間が必要になるのは、目に見えている。生徒に道徳を説くはずが、生徒と接する時間が削られ会議と資料作成に追われることになるだろう。そのことに対する行政の配慮はできるのだろうか。

 その配慮とは何かと言えば、一言で言えば「教員定数の加配」である。つまり、担任が担当する時間とされていた道徳が、一つの「道徳科」という教科になったならば、教員定数を計算する際の「持ち時数」にならないとおかしいのである。そうでなければ「教科」とは言えない。「教科」にすると言っているのは教育行政の方なんだから、「道徳」を「担当授業時間数」に加えなければおかしい。そうすると、例えば6学級規模の中学校の場合、18時間の授業が新規に増加するわけだから、当然その分の教員が一人加配されなければおかしい。小規模校の場合は一人分にはならないかもしれないが、「道徳」分の講師時数増加が認められるべきである。それが「教科化」というもんでしょ。

 だけど、小学校1年生の「35人学級」にさえ文句を言う財務省の壁を、文部官僚が突破できるわけがない。結局、担任が負担を押し付けられるに決まっている。その時は教員こぞって反対するべきだけど、それも考えがたく「ま、仕方ない」程度になってしまうと思われる。で、どうなるかと言えば、校内に作られる「道徳教育委員会」などが「モデル評価文章例」を作成し、通知表作成時にパソコンで「コピペ」していく。または道徳評価の文章例が入ったソフトが開発され、それを統一して用いる。担任に多少裁量の自由があるだろうが、基本は学年で3つか4つのパターンに収まる文章が作られていく。そんなことではないか。確かに今までよりは手間がかかる。でも、まあ、そのくらいならいいかという範囲になってくる。そうでなければ現場はやっていけない。名前だけ「教科」になるが、だから一応文章評価はするけど、限りなく意味なき作業になっていく。思えば、ほとんどの学校で「総合的な学習の時間」も、そんなもんでしょ

 ところで、「道徳は評価できるのか」という本質問題に移る。中学、高校の教員免許は大学で「教職課程」を取るのが一般的だろう。その際、教科教育に関する教育と別に、教職に関する科目を取らないといけない。「教育原理」とか「教育心理学」などに加え、今では生徒指導やカウンセリングなどの授業もある。その中に「道徳教育の研究」とか「道徳教育指導法」といった講座があり、それを取らないと中学の免許が取れない。だから普通は中高の免許は両方持っているものだが、一部に高校の免許しか持たない教員もいるのである。

 僕の場合、その講義では「道徳は評価しない」「評価しないから道徳の授業が成り立つ」と教えられたものである。担当教員によって多少は違うかもしれないが、大方は「道徳は評価しないんだ」と教えられたと思う。「評価しない」のは、「評価できない」からである。それはもちろん、前回書いたような道徳で扱ういくつもの項目を解説することはできる。それを適切な題材を用いて、生徒に説得力をもって指導することもできるかもしれない。でも、しょせんは教師も人間、生徒も人間で同じ地平に立っている。「先生」と言われて、確かに「先に生まれている」けれど、だから「人生の先輩」として経験や知識は生徒より豊富だろうけど、生徒に求められる道徳は本来は教師にも求められている。だから、他の教科学習と違い、「教師も生徒も同じ立場で道徳を考える」のであり、確かに授業の進行ではリーダーシップを発揮するけれど、評価はできないのである。

 具体的に一つの項目を示す。「1の4」に「真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」という文章が書いてある。これが人生において大切な教えだというのは、まあ大方の人が納得するだろう。「このことの大切さを理解できたかどうか」なら評価できないこともないだろう。でも、この文章を生徒と一緒に読んでみて、その生徒を「道徳」という教科で評価できると言える教師、あるいは親はいるだろうか。ほとんどの大人は子どもが勉強や部活動などでコツコツ努力する姿を見ていれば、自分の今の姿より立派だと思うのではないか。「理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」?ホントは他の仕事に就きたかったのに教師をしている自分の人生は何だと思う人も多いだろう。こんな「道徳」を教えて、生徒を評価できるなどと言える教師がいるだろうか。

 なぜ「道徳」の評価はしなかったのだろうか。「修身復活」への反発に対応して、戦前とは違い「評価はしない」という形で導入したという経緯が大きいだろう。が、それだけでなく、日本国憲法のもとでは「国家は国民の内面に介入しない」ということが大きいのではないかと思う。外形的な規制はできないことはない。デモを申請しても、公共の福祉の観点からデモの進路を変更させられることもありうる。しかし、その際に、デモの趣旨そのものを取り締まるわけではない。学校もまた、服装や頭髪の決まりを作ることはできる。そのルールを守らない生徒を指導することもできる。しかし、その生徒を「道徳的に劣っている」と評価してしまうことはできない。まあ、そういうロジックなのではないか。

 「道徳教科化」に伴い「道徳の評価」をすることになると、それは大変なことになると判るだろう。教師に生徒の内面評価の権限を与えることになる。それは「教師の内面」の方も腐敗させていくに違いない。「善なる目的」でそういうことを始めたとしても、教師が生徒を道徳的に評価できるんだったら、生徒が生徒を道徳的に評価してもいいではないかなどと思い込む生徒も出てくるだろう。「暗くて、遅くて、集団に迷惑な生徒」は、道徳が指導すべき「4の4」にある「自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。」から見て問題がある。よって、道徳的に劣った生徒は「クラス皆で引き上げてあげる」べきである。これは実際は「皆でちょっかいを出す」という意味である。こうして、かえって「いじめ」は増加してしまう。そんなことはないか。

 「道徳教科化」のあかつきには、全国の様々な小中学校で、「道徳の評価法」に関する「研究」が盛んになるだろう。文科省や都道府県教委指定の「道徳教育研究校」がいくつも生まれる。かつて、大津市でいじめ事件が起きた中学は直前に「文科省指定道徳教育研究校」になっていた。僕もかつて、道徳研究校の直後に「荒れ」を経験したことがある。不思議というか、当然というか、教員が「道徳」を勉強する学校で問題が起こりやすいのではないか。偶然かも知れないが。でも、目の前の生徒を置き去りして、会議ばかり必要になるんだから当然かもしれない。特に「道徳」は全教員が関係するし、内容が内容だから、研究発表の論文などでも指導主事からのチェックが厳しい。正直言えば、生徒指導に手が回らない時もあるだろう。対応が後手後手になってしまうこともある。「道徳教科化」の果てに、かえって学校と教師の荒廃が起きる…という悪い予測をしてしまうのは僕だけではないだろう。
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