尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

グアテマラ映画「火の山のマリア」

2016年03月04日 23時47分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 岩波ホールでグアテマラ映画「火の山のマリア」を上映している。(25日まで。)岩波ホールで公開される映画は全部見ることにしていた時期もあるが、最近はもう半分も見ていないかもしれない。しかし、今回はグアテマラという珍しさに惹かれて見てみたいと思った。ベルリン映画祭銀熊賞ということだから、作品的にも一定の期待は持てるだろう。マヤ人の少女という物語も面白そうだ。

 映画の話の前に、グアテマラとはどこかということを書いておいた方がいいと思う。中央アメリカの中で、一番メキシコに近いところにある国である。グアテマラの東北部にベリーズという小国があるが、ここは1981年の独立まで「イギリス領ホンジュラス」と呼ばれた英連邦所属国で、公用語は英語。メキシコ以南の国々は、そのベリーズを除いてスペイン語かポルトガル語(ブラジル)が公用語で、ラテンアメリカと言われるわけである。だからグアテマラの公用語はスペイン語だが、映画で見ると原住民のマヤ人にはスペイン語をしゃべれない人が多いことが判る。

 この地域には、狭い地峡に多くの小国がズラッと並んでいて、全部言える人は少ないだろう。パナマ運河のあるパナマとか、その隣にあってワールドカップの活躍も記憶に新しいコスタリカ、さらに次が長い内戦が続き、レーガン政権時代にアメリカが暗躍したニカラグア。聞いたことがあるという国名もそこらへんが多いのではないか。グアテマラは、メキシコの向こうはアメリカだと映画の中でも言っているが、「国境には火山があるが」というセリフもある。メキシコとの国境地帯には、4000メートルを超える火山がある。題名の「火の山」の由来である。(写真で見ると、タカナ山という山ではないかと思う。)グアテマラの人口は1547万、面積は北海道と四国を合わせたより少し大きい。

 といった知識はこの映画を調べて知ったことで、ずいぶん世界各国の映画を見ている僕も中央アメリカの映画は2本目だと思う。もう一本はニカラグア内戦を描く「アルシノとコンドル」(1979、モスクワ映画祭金賞)で岩波ホールで公開された。だけど監督のミゲル・リッティンはチリ人で、亡命中に撮った作品である。一種のラテンアメリカ左翼映画人連帯映画であって、まだ中央アメリカ諸国では本格的な自主製作ができなかったのだろう。それを言えば、この映画もフランスとの合作で、フランスやイタリアで映画を学んだ若き監督、ハイロ・ブスタマンテ(1977~)によって作られた。だけど、この映画は監督が幼少期を過ごしたマヤ族のコミュニティに題材を取り、代表的な産業であるコーヒーのプランテーションを舞台にしている。本格的に中央アメリカの地を生きる人々によって作られた映画だと思う。

 南北アメリカ大陸の先住民と言えば、数万年前に分かれた「われらの同胞」(モンゴロイド=いわゆる「黄色人種」)だけど、この映画を見ていると「火の山」と共生するアニミズム的な自然感覚が似ているような気もする。毒蛇もいる厳しい自然環境の中で、ほとんど迷信とともに生きている。何だろう、これはという気もするが、これがグアテマラ国民の4割を占めるというマヤ人の生きる場なんだろう。「マヤ」と言えば、メキシコのユカタン半島に築かれた遺跡が名高いが、民族的にはメキシコ南部からグアテマラ、ホンジュラスなどに住む人々の人々の集団を「マヤ」と言うのだそうだ。

 マリアはそんな人々の中で暮らす17歳の少女。コーヒー農園の主任は、妻を亡くし、後添えにマリアを望んでいる。有利な縁組に両親も賛成だが、マリアはよく知らない年上の男性に嫁ぐことに気が進まない。言い寄ってくる若者に祭の夜に身を任せてしまう。その若者はアメリカを目指すと旅立つが、マリアは一回だけの交わりで身ごもってしまう。まあ、こういう展開は話としてはありきたりだけど、風景や風習が新鮮で退屈しない。母はマリアの子をおろそうと、さまざまな迷信を試すが、子どもは生まれてくる運命にあったということで、もう覚悟を決める。というのも、こうなったら農園にいられるはずもなく、どこかへ去るしかない。だけど、毒蛇を退治して、強引に種まきをしてしまえば、簡単に追い出せないだろう。妊婦が蛇退治をすれば大丈夫という迷信を信じてマリアは毒蛇の中に進んで行く。

 こうして、アレマ、アレマと思う間もなく、悲劇のジェットコースターになっていくが、結局マリアは毒蛇にかまれて瀕死の状態で町の病院に運ばれる。だけど、両親の言葉は医者に通じない。両者をつなぐのは、バイリンガルの農園主任しかいない。そして彼の「通訳」により、事態は思わぬ展開を見せていく。一体、真相はなんで、どういう結末になるか。もちろん映画は「ある終わり方」をするしかないけれど、その苦さの向こうにどんな波乱が待っているのだろうか。この映画を見ると、役人や医者の支配層はスペイン語のみ。一方、農園のマヤ人は母語(カクチケル語)のみ。農園のサブリーダー層のみバイリンガルで、支配層の下部を支えている。そういう言語的分断状況がくっきりと描かれている。

 そんな中でたくましく生き抜く「女性映画」として、素朴だが力強い映画だった。社会的関心抜きにただ楽しめるかというと、そういうエンタメ系の文法で作られた映画ではない。素朴なドキュメンタリーの力強さに近いような迫力がある。映画を見る楽しさ、意義は、こんなことにもある。「世界を見る映画」というタイプの佳作。映像は力強く、印象的で、忘れがたい。神話的な映画とも言えるだろう。

 なお、中央アメリカで自ら作られた映画は少ないが、舞台になっている映画はかなりある。オリヴァー・ストーンがエルサルバドル内戦を描いた「サルバドル」、19世紀にニカラグアの支配者となったアメリカ人を描くアレックス・コックスの怪作「ウォーカー」、ケン・ローチがニカラグア女性とスコットランド男性の恋愛を扱う「カルラの歌」、余命短い少年がコスタリカで幻の蝶を探す「天国の青い蝶」、ホンジュラスの密林に移住した一家を描く「モスキート・コースト」、ジョン・ル・カレ原作の映画化「テイラー・オブ・パナマ」…と見てない映画もあるが、結構数多い。アメリカに近いから、政治的経済的関係も深く、ロケにも使われる。ついでに、「ジュラシック・パーク」もコスタリカの島にあることになっている。
コメント (1)
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