リオ五輪予選を兼ねた男子サッカーの「U‐23選手権」(23歳以下)が1月に開かれ、日本チームが優勝した。この世代は、U‐20ではアジア予選で敗退してワールドカップに出られなかった。「谷間の世代」などと言われ続けてきたが、今回は「反骨心」をバネに結束して成果を上げたということだ。人間は「反発心」こそが頑張りのもとになるということは、「ビリギャル」を見た人にも強く印象付けられる点だろう。そのために、この映画では父親や学校(私立高校)のあり方が誇張されている。見ていると、ああいう教育はおかしいと思うわけだが、それが物語の起動装置だからやむを得ない。
「ビリギャル」の主人公が慶應大学に入れた理由は何だろうか。普通に考えると、以下のようなになる。主人公は父親に軽んじられ、学校にも相手にされずクズ扱いされる。そのことに対する反発から、猛然と勉強を始める。母親だけは娘を信じ、どんなときにも支え続け、個別指導を行う塾にも行かせてくれる。その塾でも信じてくれ、一緒に頑張ってくれる先生がいて、適切な助言を与えてくれる。時々は伸び悩みながらも、主人公は必死の努力を重ねて、ついに受験の日を迎える。つまり、「母親の存在」「塾の先生」「本人の頑張り」が3点セットになっている。
しかし、「エンターテインメント」物語は、話を判りやすくするために「敵と味方」をはっきりさせて進行する。その過程で、「見えなくするもの」があり、一種の隠蔽装置となる。では、この物語では何が隠されているだろうか。塾の先生は、最初の段階で「どうせなら私学の雄と言われる慶應を受けてみよう」と課題設定を行う。名古屋に住んでいる生徒なのに、東京の大学を勧めるのである。それに対して、主人公は「うちはビンボーだから、東京行かせてもらえないから、ムリ」などと反応しない。多分あの塾に行かせられる家庭では、東京の大学に行かせられるのが前提になっているんだと思う。
この主人公は、最後には家で深夜まで勉強を続けるようになる。だけど、それが可能なのは、この家庭は「一軒屋の自宅」があり、子どもが3人に個室があるのであるからである。父は息子をプロ野球に行かせることにしか関心がなく、娘の塾代は母親が出している。だけど、子どもに個室を与えられる家を買ったのは、父親の経済力に違いない。(両家の祖父母の援助が大きいのかもしれないが、出てこないので判らない。)父親は元はプロを目指して大学野球をしていたが、どこからも指名はなかった。脱サラして自動車修理業をしながら、リトルリーグの息子を送るための大きな自動車を持っている。つまり、娘の教育に関して間違っているとしても、父親の経済力が娘の生活を支えているのである。
アパートの一室で兄妹と一緒の部屋で勉強時間も取れないながら、何とか高校だけは卒業したいと必死になって頑張っている子供たちも多い。そういう子どもの多くは、家の経済力がないために、4年生大学へ行くことは本人も諦めている。専門学校もお金が高くて行けないけど、何とか自分でアルバイトして学資を貯め、数年後には専門学校に行って資格を取りたいと思って高校を卒業するが、現実は厳しい。本当に進学できた人は少ないのではないかと思う。そういう現実に直面する生徒を多く見てきたから、はっきり言うと「ビリギャル」はおとぎ話のように恵まれた設定に見えてしまう。
とにかく「自分の部屋があること」。これが「自分で勉強する」ことには必要である。個室があると、逆に遊んでしまうこともあるが、それでも自分なりのペースで受験勉強を進めるためには、自分の個室がいる。これは今では「当然の環境」ではない。かなり多くの子どもたちは劣悪な住環境で育っている。そういう子どもたちは、早く家を出て自活したいと考え、お金を貯めるために働き始める。ダブルワークする人も多く、お金もたまらず身体も壊し実家に戻ったりする。「ビリギャル」が受験に成功した最大の理由は、個室を持っていたことにあるのは間違いない。
ところで、もう一つの大切な条件がある。大学を受験する資格は何だろうか。学力ではない。落ちてもいいなら、慶應でもどこでも誰が受けていい。だけど、「受験料を納付する」ことと「高校を卒業したか、卒業見込みであること」(または高卒認定試験に合格していること)が前提条件となる。つまり、あの私立高校は彼女に「卒業見込み」を認定したのである。僕は多くの受験生に「ビリギャル方式」は推薦しない。受験勉強が大切だと言っても、ほとんどの授業で寝ていては、肝心の高校が卒業できない。公立高校では、平等性が重要になるから、あの授業態度では卒業に必要な単位を取れない可能性が高いのではないか。卒業までは学校を大事にし、その後浪人しながら頑張るというのが普通ではないか。それにしても、よく卒業させてくれたもんだと思う。そこがまあ、私立なのかもしれない。ということで、この映画では負の役割を与えられている「父親」と「私立高校」が実は物語を支えていたわけである。
僕はこの映画を見ていて、うまく出来ていて面白くはあったが、同時に「どうも納得できないなあ」という感覚も持ち続けた。それは「望ましくない進路指導」だからではないかと思う。何で慶應義塾大学を目指すのか納得できないのである。「私学の雄」というけど、早稲田の人なら「早稲田こそ私学の雄だ」と思ってるだろう。大学野球だって「早慶戦」と普通は言うわけで(慶應の人は慶早戦と言うけど)、早稲田は何で受けないの?京都の大学だって、例えば同志社の新島襄は慶應の福澤諭吉に匹敵するではないかとか思ってるのではないか。僕だったら、「一万円札の顔の人を漢字で書け」と言う問題に、「福沢論吉」とか「福沢輪吉」とか書くエピソードを作り、これは間違いやすいんだ、「諭」と「論」と「輪」(ついでに「輸」も)の区別をしっかりと教えて、その後で、ではこの人が作った大学は?と聞くと言った展開を考えたい。その上で、この大学を目指してみるかとすれば、ある程度納得できるのだが。
とにかく、世間的な「大学ブランドイメージ」で高いところを目指すというだけでは、「昔の進路意識」ではないかと思う。昔は一般受験しかなくて、軒並み受ける人もいたし、その大学に行ければ何学部でもいいやと言う人もいた。しかし、今はさまざまな大学が独自のプログラムを持ち、あまり聞いたことがない学部を作っている。そう言えば慶應の「総合政策学部」だって、その走りである。それぞれの特徴はホームページですぐ調べられるし、それぞれ違った資格が得られることが多い。「レベルが高い大学」ではなく、やりたいことを決めて、それができる大学を選ぶのが普通だろう。実際、大学なんかどこを出ても社会に出ればそんなに関係ないことも多い。だけど、大学で学んだことは将来の職業に生きてくるから、「偏差値レベル」で選ぶのではなく、自分の関心領域を見極めて受けないといけない。この映画では、そこが語られず「慶應に受かる=学力が低かったのにすごい」というレベルの話になっている。これはむしろ弊害が大きい。「世間的なレベル意識」を全く無視はできないだろうが、自分がやりたい勉強ができる学部でないと続かない。そこが大事なところである。
「ビリギャル」の主人公が慶應大学に入れた理由は何だろうか。普通に考えると、以下のようなになる。主人公は父親に軽んじられ、学校にも相手にされずクズ扱いされる。そのことに対する反発から、猛然と勉強を始める。母親だけは娘を信じ、どんなときにも支え続け、個別指導を行う塾にも行かせてくれる。その塾でも信じてくれ、一緒に頑張ってくれる先生がいて、適切な助言を与えてくれる。時々は伸び悩みながらも、主人公は必死の努力を重ねて、ついに受験の日を迎える。つまり、「母親の存在」「塾の先生」「本人の頑張り」が3点セットになっている。
しかし、「エンターテインメント」物語は、話を判りやすくするために「敵と味方」をはっきりさせて進行する。その過程で、「見えなくするもの」があり、一種の隠蔽装置となる。では、この物語では何が隠されているだろうか。塾の先生は、最初の段階で「どうせなら私学の雄と言われる慶應を受けてみよう」と課題設定を行う。名古屋に住んでいる生徒なのに、東京の大学を勧めるのである。それに対して、主人公は「うちはビンボーだから、東京行かせてもらえないから、ムリ」などと反応しない。多分あの塾に行かせられる家庭では、東京の大学に行かせられるのが前提になっているんだと思う。
この主人公は、最後には家で深夜まで勉強を続けるようになる。だけど、それが可能なのは、この家庭は「一軒屋の自宅」があり、子どもが3人に個室があるのであるからである。父は息子をプロ野球に行かせることにしか関心がなく、娘の塾代は母親が出している。だけど、子どもに個室を与えられる家を買ったのは、父親の経済力に違いない。(両家の祖父母の援助が大きいのかもしれないが、出てこないので判らない。)父親は元はプロを目指して大学野球をしていたが、どこからも指名はなかった。脱サラして自動車修理業をしながら、リトルリーグの息子を送るための大きな自動車を持っている。つまり、娘の教育に関して間違っているとしても、父親の経済力が娘の生活を支えているのである。
アパートの一室で兄妹と一緒の部屋で勉強時間も取れないながら、何とか高校だけは卒業したいと必死になって頑張っている子供たちも多い。そういう子どもの多くは、家の経済力がないために、4年生大学へ行くことは本人も諦めている。専門学校もお金が高くて行けないけど、何とか自分でアルバイトして学資を貯め、数年後には専門学校に行って資格を取りたいと思って高校を卒業するが、現実は厳しい。本当に進学できた人は少ないのではないかと思う。そういう現実に直面する生徒を多く見てきたから、はっきり言うと「ビリギャル」はおとぎ話のように恵まれた設定に見えてしまう。
とにかく「自分の部屋があること」。これが「自分で勉強する」ことには必要である。個室があると、逆に遊んでしまうこともあるが、それでも自分なりのペースで受験勉強を進めるためには、自分の個室がいる。これは今では「当然の環境」ではない。かなり多くの子どもたちは劣悪な住環境で育っている。そういう子どもたちは、早く家を出て自活したいと考え、お金を貯めるために働き始める。ダブルワークする人も多く、お金もたまらず身体も壊し実家に戻ったりする。「ビリギャル」が受験に成功した最大の理由は、個室を持っていたことにあるのは間違いない。
ところで、もう一つの大切な条件がある。大学を受験する資格は何だろうか。学力ではない。落ちてもいいなら、慶應でもどこでも誰が受けていい。だけど、「受験料を納付する」ことと「高校を卒業したか、卒業見込みであること」(または高卒認定試験に合格していること)が前提条件となる。つまり、あの私立高校は彼女に「卒業見込み」を認定したのである。僕は多くの受験生に「ビリギャル方式」は推薦しない。受験勉強が大切だと言っても、ほとんどの授業で寝ていては、肝心の高校が卒業できない。公立高校では、平等性が重要になるから、あの授業態度では卒業に必要な単位を取れない可能性が高いのではないか。卒業までは学校を大事にし、その後浪人しながら頑張るというのが普通ではないか。それにしても、よく卒業させてくれたもんだと思う。そこがまあ、私立なのかもしれない。ということで、この映画では負の役割を与えられている「父親」と「私立高校」が実は物語を支えていたわけである。
僕はこの映画を見ていて、うまく出来ていて面白くはあったが、同時に「どうも納得できないなあ」という感覚も持ち続けた。それは「望ましくない進路指導」だからではないかと思う。何で慶應義塾大学を目指すのか納得できないのである。「私学の雄」というけど、早稲田の人なら「早稲田こそ私学の雄だ」と思ってるだろう。大学野球だって「早慶戦」と普通は言うわけで(慶應の人は慶早戦と言うけど)、早稲田は何で受けないの?京都の大学だって、例えば同志社の新島襄は慶應の福澤諭吉に匹敵するではないかとか思ってるのではないか。僕だったら、「一万円札の顔の人を漢字で書け」と言う問題に、「福沢論吉」とか「福沢輪吉」とか書くエピソードを作り、これは間違いやすいんだ、「諭」と「論」と「輪」(ついでに「輸」も)の区別をしっかりと教えて、その後で、ではこの人が作った大学は?と聞くと言った展開を考えたい。その上で、この大学を目指してみるかとすれば、ある程度納得できるのだが。
とにかく、世間的な「大学ブランドイメージ」で高いところを目指すというだけでは、「昔の進路意識」ではないかと思う。昔は一般受験しかなくて、軒並み受ける人もいたし、その大学に行ければ何学部でもいいやと言う人もいた。しかし、今はさまざまな大学が独自のプログラムを持ち、あまり聞いたことがない学部を作っている。そう言えば慶應の「総合政策学部」だって、その走りである。それぞれの特徴はホームページですぐ調べられるし、それぞれ違った資格が得られることが多い。「レベルが高い大学」ではなく、やりたいことを決めて、それができる大学を選ぶのが普通だろう。実際、大学なんかどこを出ても社会に出ればそんなに関係ないことも多い。だけど、大学で学んだことは将来の職業に生きてくるから、「偏差値レベル」で選ぶのではなく、自分の関心領域を見極めて受けないといけない。この映画では、そこが語られず「慶應に受かる=学力が低かったのにすごい」というレベルの話になっている。これはむしろ弊害が大きい。「世間的なレベル意識」を全く無視はできないだろうが、自分がやりたい勉強ができる学部でないと続かない。そこが大事なところである。