尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

何よりも個室があったこと-「映画ビリギャル」考②

2016年03月21日 22時55分35秒 |  〃 (教育問題一般)
 リオ五輪予選を兼ねた男子サッカーの「U‐23選手権」(23歳以下)が1月に開かれ、日本チームが優勝した。この世代は、U‐20ではアジア予選で敗退してワールドカップに出られなかった。「谷間の世代」などと言われ続けてきたが、今回は「反骨心」をバネに結束して成果を上げたということだ。人間は「反発心」こそが頑張りのもとになるということは、「ビリギャル」を見た人にも強く印象付けられる点だろう。そのために、この映画では父親や学校(私立高校)のあり方が誇張されている。見ていると、ああいう教育はおかしいと思うわけだが、それが物語の起動装置だからやむを得ない。

 「ビリギャル」の主人公が慶應大学に入れた理由は何だろうか。普通に考えると、以下のようなになる。主人公は父親に軽んじられ、学校にも相手にされずクズ扱いされる。そのことに対する反発から、猛然と勉強を始める。母親だけは娘を信じ、どんなときにも支え続け、個別指導を行う塾にも行かせてくれる。その塾でも信じてくれ、一緒に頑張ってくれる先生がいて、適切な助言を与えてくれる。時々は伸び悩みながらも、主人公は必死の努力を重ねて、ついに受験の日を迎える。つまり、「母親の存在」「塾の先生」「本人の頑張り」が3点セットになっている。
 
 しかし、「エンターテインメント」物語は、話を判りやすくするために「敵と味方」をはっきりさせて進行する。その過程で、「見えなくするもの」があり、一種の隠蔽装置となる。では、この物語では何が隠されているだろうか。塾の先生は、最初の段階で「どうせなら私学の雄と言われる慶應を受けてみよう」と課題設定を行う。名古屋に住んでいる生徒なのに、東京の大学を勧めるのである。それに対して、主人公は「うちはビンボーだから、東京行かせてもらえないから、ムリ」などと反応しない。多分あの塾に行かせられる家庭では、東京の大学に行かせられるのが前提になっているんだと思う。

 この主人公は、最後には家で深夜まで勉強を続けるようになる。だけど、それが可能なのは、この家庭は「一軒屋の自宅」があり、子どもが3人に個室があるのであるからである。父は息子をプロ野球に行かせることにしか関心がなく、娘の塾代は母親が出している。だけど、子どもに個室を与えられる家を買ったのは、父親の経済力に違いない。(両家の祖父母の援助が大きいのかもしれないが、出てこないので判らない。)父親は元はプロを目指して大学野球をしていたが、どこからも指名はなかった。脱サラして自動車修理業をしながら、リトルリーグの息子を送るための大きな自動車を持っている。つまり、娘の教育に関して間違っているとしても、父親の経済力が娘の生活を支えているのである。

 アパートの一室で兄妹と一緒の部屋で勉強時間も取れないながら、何とか高校だけは卒業したいと必死になって頑張っている子供たちも多い。そういう子どもの多くは、家の経済力がないために、4年生大学へ行くことは本人も諦めている。専門学校もお金が高くて行けないけど、何とか自分でアルバイトして学資を貯め、数年後には専門学校に行って資格を取りたいと思って高校を卒業するが、現実は厳しい。本当に進学できた人は少ないのではないかと思う。そういう現実に直面する生徒を多く見てきたから、はっきり言うと「ビリギャル」はおとぎ話のように恵まれた設定に見えてしまう。

 とにかく「自分の部屋があること」。これが「自分で勉強する」ことには必要である。個室があると、逆に遊んでしまうこともあるが、それでも自分なりのペースで受験勉強を進めるためには、自分の個室がいる。これは今では「当然の環境」ではない。かなり多くの子どもたちは劣悪な住環境で育っている。そういう子どもたちは、早く家を出て自活したいと考え、お金を貯めるために働き始める。ダブルワークする人も多く、お金もたまらず身体も壊し実家に戻ったりする。「ビリギャル」が受験に成功した最大の理由は、個室を持っていたことにあるのは間違いない。

 ところで、もう一つの大切な条件がある。大学を受験する資格は何だろうか。学力ではない。落ちてもいいなら、慶應でもどこでも誰が受けていい。だけど、「受験料を納付する」ことと「高校を卒業したか、卒業見込みであること」(または高卒認定試験に合格していること)が前提条件となる。つまり、あの私立高校は彼女に「卒業見込み」を認定したのである。僕は多くの受験生に「ビリギャル方式」は推薦しない。受験勉強が大切だと言っても、ほとんどの授業で寝ていては、肝心の高校が卒業できない。公立高校では、平等性が重要になるから、あの授業態度では卒業に必要な単位を取れない可能性が高いのではないか。卒業までは学校を大事にし、その後浪人しながら頑張るというのが普通ではないか。それにしても、よく卒業させてくれたもんだと思う。そこがまあ、私立なのかもしれない。ということで、この映画では負の役割を与えられている「父親」と「私立高校」が実は物語を支えていたわけである。

 僕はこの映画を見ていて、うまく出来ていて面白くはあったが、同時に「どうも納得できないなあ」という感覚も持ち続けた。それは「望ましくない進路指導」だからではないかと思う。何で慶應義塾大学を目指すのか納得できないのである。「私学の雄」というけど、早稲田の人なら「早稲田こそ私学の雄だ」と思ってるだろう。大学野球だって「早慶戦」と普通は言うわけで(慶應の人は慶早戦と言うけど)、早稲田は何で受けないの?京都の大学だって、例えば同志社の新島襄は慶應の福澤諭吉に匹敵するではないかとか思ってるのではないか。僕だったら、「一万円札の顔の人を漢字で書け」と言う問題に、「福沢論吉」とか「福沢輪吉」とか書くエピソードを作り、これは間違いやすいんだ、「諭」と「論」と「輪」(ついでに「輸」も)の区別をしっかりと教えて、その後で、ではこの人が作った大学は?と聞くと言った展開を考えたい。その上で、この大学を目指してみるかとすれば、ある程度納得できるのだが。

 とにかく、世間的な「大学ブランドイメージ」で高いところを目指すというだけでは、「昔の進路意識」ではないかと思う。昔は一般受験しかなくて、軒並み受ける人もいたし、その大学に行ければ何学部でもいいやと言う人もいた。しかし、今はさまざまな大学が独自のプログラムを持ち、あまり聞いたことがない学部を作っている。そう言えば慶應の「総合政策学部」だって、その走りである。それぞれの特徴はホームページですぐ調べられるし、それぞれ違った資格が得られることが多い。「レベルが高い大学」ではなく、やりたいことを決めて、それができる大学を選ぶのが普通だろう。実際、大学なんかどこを出ても社会に出ればそんなに関係ないことも多い。だけど、大学で学んだことは将来の職業に生きてくるから、「偏差値レベル」で選ぶのではなく、自分の関心領域を見極めて受けないといけない。この映画では、そこが語られず「慶應に受かる=学力が低かったのにすごい」というレベルの話になっている。これはむしろ弊害が大きい。「世間的なレベル意識」を全く無視はできないだろうが、自分がやりたい勉強ができる学部でないと続かない。そこが大事なところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ビリギャル」を抑圧装置にしないために-「映画ビリギャル」考①

2016年03月21日 00時05分16秒 | 映画 (新作日本映画)
 2015年に公開されて大ヒットした「映画ビリギャル」をやっと見た。池袋の新文芸坐で2015年の日本映画特集。「バクマン。」と二本立てで、18、19に上映された。どっちも見る気があったのだが、見逃していた。大ヒット映画を見逃すのはおかしいと思われるだろうが、「その日しか上映されない」という古い映画のピンポイント上映を優先すると、いつの間にか終わってしまうわけである。でも、こうやってそのうち名画座で上映されたりするからまあいいやと思うのである。

 「映画」というカテゴリーもあるし、「映画の中の学校」というカテゴリーも作っているけど、「ビリギャル」は学校に関する映画ではないし、映画として書くまでもない気もした。だけど、その中に描かれている問題は、「教育」を考えるヒントになると思うので、教育の問題として書いておきたいと思う。長くなりそうなので2回に分ける。なお、原作は読んでない。

 まず、題名にした「『ビリギャル』を抑圧装置にしないために」の意味を書いておきたい。この映画(および実話に基づく原作ノンフィクション)は、正確な題名にある「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の通りの物語である。「エンタメ映画」の文法に沿って、なかなか出来がよく作られている「さわやか青春映画」なので、これを見ると「自分も頑張れば、偏差値を上げて慶応大学に入れる(入れた)かも」と見る人に思わせる力がある。

 だから、それを逆手に取られると、受験生にとっては「ビリギャル見ただろ。頑張ればああいうこともあるんだよ。だから、お前が入試に落ちたのは、お前が頑張らなかった結果なんだ」と言われかねない。また教師にとっても、「わが高校の進学実績が振るわないのは、生徒のやる気を引き出せない教師の無能が原因である。ビリギャルの塾講師を見よ」と使われかねない。また大人の多くには、「私にもビリギャルの坪田先生みたいな人さえいれば、人生も変わっていたはずなのに」と「自己欺瞞」として機能しやすい。現実の家庭や学校の条件を考えることなしに、ただ「ひたすら頑張れば、何でもできる神話」になりやすいのである。もう実際に、「ビリギャル」を抑圧装置に使っている人もいるんじゃないかと思う。そうではなく、「ビリギャル」を解放装置に使うにはどうしたらいいかを考えたい。

 最初に映画について。脚本があり、演出があり、演技があり、撮影がある。だけど、それではまだ映画にはならない。撮影したフィルム、というかもうフィルムじゃないけど、そのデジタル画像を編集することで「見る映画」に仕上がっていく。すぐれた「エンタメ映画」は、この編集が素晴らしいのである。堪能するしかない編集リズムであり、いったん流れに身を任せてしまえば、最後までジェットコースターに乗ったように進行する。だけど、ちょっと立ち止まって見ると、予測通りの展開だからどんどん忘れていく。ベストテン上位になった「恋人たち」や「ハッピーアワー」のような、見る者の心をいつまでもざわざわと波立たせる「居心地悪さ」がないのである。

 物語の構造としては、「無知」というお城に閉じ込められていたお姫様が、王子様(現実の中では風采が上がらない塾講師だが)の助けにより自分を解放するお話。およびバカにされても反撃できずに溜りに溜まった怒りをバネに、ついに立ち上がって攻撃に乗り込んで行くお話。つまり「眠れる森の美女」と「忠臣蔵」の合体で、慶應の入試は討ち入りと同じようなもんである。物語の構造というものは、いつの世でも基本は同じようなものだということである。

 さて、ここまででずいぶん長くなってしまったけれど、まず「偏差値」について。偏差値というのは、(まあ書くまでもないかと思うけど)、平均を50として、平均からの隔たりを数値化したものである。その基となるのは「正規分布」という考え方で、非常に多くの人数を(学力だけでなく、何でもいいが)比べてみると、平均点付近に一番多数の人が存在し、テストで言えば100点も0点もごくわずかになるはずだということである。だから、すごく易しい、あるいは難しい問題だと偏差値化する意味がないが、受験人数は何十万もいるし、「落とすために入試をする」以上、難易度がある程度の幅に止まると考えられるから、まあ偏差値で捉えられるわけである。偏差値が「30から70の間」に約95.4%の人数が含まれるので、「偏差値30」=下位2.3%、「偏差値70」=上位2.3%になる。

 それは映画の中でも、「70万人の受験生」の中で、下位2%にいる生徒が上位2%に入るのは不可能だと学校の教員が語っている。まず、「70万」から検討する。18歳選挙権のところで書いたけれど、現在の「18歳人口」はおおよそ120万人である。この話は今よりもう少し前の話なんだけど、大学進学者はおおむね60万人で変わらない。そして、「浪人生」は約10万人強とされるから、合わせると翌年の大学受験を考えているのは、やはり「70万人」ということになる。

 だけど、ここで気を付けるべき問題がある。「高校受験」と「大学受験」の違いである。高校受験はほぼ全中学生に関わるから、20世紀末に文部省が禁止するまで「業者テスト」を校内で行っていた。そうすると、そのデータは全生徒の点数を偏差値換算したものになる。(業者は複数あるから、実際には全生徒のデータが一社に集まることはないが。またこの映画の場合のように、内部進学中心の私立中高一貫校は参加しないから除かれるが。)その場合、「偏差値30」というのは、中学で下位2.3%の生徒ということだから、ホントにビリという感じを与える。実際の中学教員の感覚では、学習障害や知的障害(のボーダー)ではないかと疑うレベルである。
 
 その高校入試の偏差値感覚を多くの人が持っていると思う。それで考えると、学習障害のような生徒が指導によっては慶應大学に入れたのかと誤解されかねない。いくらなんでも、どんな熱心な教え方をしても、それは全く無理だろうと思う。しかし、ここで問題にしているのは、大学入試だから、初めから関係ない生徒が多い。この映画でも主人公の友人たちは全然勉強してないが、内部進学で系列の大学に行ける人もいるだろう。そういう人は初めから模試を受けないからデータに入ってない。120万人の同世代の中で、大学へ行くということだけで、ほぼ半数の生徒から関係ないのだから、大学受験生は全員「同世代の学力偏差値が50以上」なのである。

 もっとも専門学校の中でも試験があるところもあり、下の方の大学よりも学力が高い生徒がいる。そうだけど、この主人公も私立中学、私立高校へと進級、進学しているんだから、塾の最初のテストほどできないとは考えられない。英語や数学は小学生レベルということはありうるが、国語などはそこそこの点を取るものである。勉強をしなくても高校、大学へ上がれるんだから、確かに学力は低かっただろうが、家は私立へ行かせる経済力はあったんだから、「潜在学力」は相当に高いと見ないといけない

 それに大学入試の場合、高校入試と違い、必ずしも学力だけで輪切りにならない。学力が高くても、経済的な問題で地元の国立大学しか受けない生徒もある。この主人公は、名古屋に住んでいるが、「慶應を受ける」と言いだしたときに、なぜか家族は「東京に行かせる余裕がない」と言わない。周りはお前の学力では無理だと学力の話しかしない。経済力はあると皆は前提にしているのだろう。いまどき何と恵まれていることか。だから、慶應は偏差値が70だと書いてあっても、実際に上位の2.3%、つまり1万6100人に入らないと慶應に合格できないというわけではない。慶應文学部は外国語と地理歴史、総合政策学部は「数学または情報」あるいは「外国語」あるいは「数学および外国語」の3つの中から1つと小論文。外国語は英語じゃなくても可能だけど、まあ普通は英語。英語と日本史にしぼって勉強すればいい。(ちなみに募集人数は文学部580人と総合政策学部275人。)

 本人の勉強できない面が誇張されているから、本人と教師の力により「奇跡が起きた」と理解したくなる。だけど、「奇跡的」は起こるけれど、ホントの意味の「奇跡」はこの世には起こらない。この映画の主人公も、中学教師の感覚だと、中ぐらいの高校に行ける程度の生徒が、頑張って学区で一番の高校へ入ったという感じかと思う。先に見たように、真にビリではない。また全県(全都)で一番、(東京で言えば日比谷高校)に入ったわけではない。それは大学で言えば東大だけど、数学や理科も必要だから、もう絶対に間に合わない。だから教科が少ない慶應に照準を合わせた。現実の主人公は、近畿学院とされる関西学院の他に、上智、明治および慶應の他学部も受けたという話。明治には合格したが他は不合格だという。総合政策学部は小論文の比重が高い。だから、学力だけのテストでは、関西学院や明大に合格できる水準に上げてきた。それなら本人の努力で可能ではないか。そう考えた方が、多くの人に勇気を与えるのではないだろうか。それはそれですごいことなんだから。

 なお、「偏差値」という言葉が、私立高校の推薦で数字だけ一人歩きしてきたから、今でも「偏差値教育」などと言って悪いものだという印象を持っている人もいるかもしれない。しかし、偏差値に換算しなくても、成績を付けるということは「事実上の偏差値」と同じである。国家公務員の試験も、マスコミの入社試験も、ペーパーテストを行って上位から取るわけだから、偏差値で取っているのと同じである。データを偏差値化していないだけである。(「偏差値教育」を完全に否定するためには、入試を抽選にする以外にない。ペーパーテストを改善したり、小論文や実技試験を導入しても、その評価を数値に換算して上から取るんだから、やはり偏差値と同じである。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする