尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

モハメド・アリ、冨田勲、坪井清足等ー2016年5月の訃報

2016年06月05日 23時17分41秒 | 追悼
 毎月書いている訃報特集だけど、5月は蜷川幸雄の追悼を書いたら、あまり書くことがない感じ。来月にまとめようかと思ったけど、モハメド・アリの訃報があったから、合わせて書くことにする。

 モハメド・アリ(1942~2016、6月3日没、74歳)は誰もが知る同時代の大人物だったけど、スポーツ界で活躍する人は若くして有名になるから、もう名前しか知らない人が多いと思う。1996年のアトランタ五輪では聖火点火者の最有力候補と言われ続けていたが、病気のためできないのではとの観測もあった。実際に当日出てきたアリの手は、パーキンソン病で震えているのが明らかだった。それから20年、長い闘病を続けていた。今思うと、発病は50代である。僕にとって遠い先に見えていたが、もう通り過ぎてしまった。僕は特にモハメド・アリをよく知っているわけではないのだが、「他に誰もいない巨大な存在」だったのは間違いない。サッカーのペレマラドーナも知名度では同じぐらい有名だと思うが、「社会的存在」という意味では全然違う。スポーツを超えた人物だった。
 
 ところで、今「モハメド・アリ」と書いている。NHKや朝日、読売などはそう書いているが、毎日、日経、東京、産経などは「ムハマド・アリ」と表記しているのである。アルファベットでは「Muhammad Ali」である。Muhammadは、イスラム教の預言者の名だが、昔は「マホメット」と言われていたが、今は社会科の教科書では「ムハンマド」で統一されている。英語の発音を調べてみると、moʊhˈæmədとある。これをカタカナで表記すると、モハメドとムハマドの中間ぐらいというべきか。

 「黒人ボクサー」の「カシアス・クレイ」が、名前を「モハメド・アリ」に変更すると表明したのは、1964年のことだという。その時のことは知らないが、僕がこの人の名前を知ったとき、というのは新聞を読み始めた中学生ごろだが、ベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したボクサー、チャンピオン資格をはく奪された反体制派として、名前がよく報道されていた。つまり、ベトナム反戦運動の闘士として知ったわけである。だけど、イスラム教に改宗し「モハメド・アリ」と改名したことの意味はほとんどだれも理解していなかったと思う。僕ももちろんそうだし、新聞なんかにも出ていなかった。マルコムXが当時入っていた「ネーション・オブ・イスラム」をどう理解すべきか。まだ日本では問題意識がなかった。(日本人がイスラム教という「問題」と出会うのは、1973年のオイルショック以後のことである。)

 だから、70年ころには「ボクサーとしては終わった存在」と思われていたと思う。1974年にコンゴのキンシャサでジョージ・フォアマンにKO勝ちして、奇跡の復活を遂げる。この「キンシャサの奇跡」に世界はビックリしたものである。その後10回防衛したのち、1978年にレオン・スピンクスに判定負け。翌1979年にスピンクスと再選して判定勝ちして、3回目のチャンピオンとなった。僕もこの3回目のことは、今調べるまで知らなかった。この王位は返上して引退するが、すぐに復帰する。しかし、1980年、1981年の試合に敗れてついに完全に引退した。通算56勝5敗。うち37勝がKO勝ち。もっとも、あえてKOせずに最後まで痛めつけた試合もあったという。(下の写真はフォアマン戦。)

 この間、日本で、1976年6月26日に、アントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」という異種間格闘技を行った。これは大評判となり、僕もテレビで少し見たような気がするが、つまらないので全部は見てないと思う。そうそうつまらないものでもなかったと今はされるが、猪木がずっと寝てた印象しかなかったわけである。そこらへんも含めて、日本では一種怪しげなイメージもあったわけだが、その後アメリカで「差別と病気と闘い続けた偉人」という評価が確定していく。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」 (Float like a butterfly, sting like a bee)という言葉も誰もが知っていた。映画もドキュメンタリーもあるし、劇映画「アリ」(2001)もあり、ウィル・スミスがアリを演じた。それもいいけど、ぜひドキュメントを再映してほしいと思う。20世紀のアメリカを語るときに絶対に落とせない人物である。

 
 さて、5月の訃報だが、蜷川幸雄と同じぐらい大きく報道されたのは、シンセサイザーを使った電子音楽で世界に知られた富田勲(5日没、84歳)である。この人は、まず「作曲家」であり、NHKの「新日本紀行」とか「きょうの料理」、アニメの「ジャングル大帝」なんかの曲がその時代。その後シンセサイザーと出会い、「月の光」や「展覧会の絵」などが世界で大ヒットした。「月の光」で日本人初のグラミー賞ノミネート。その後も2回ノミネートされたが、坂本龍一や喜多郎は受賞しているものの富田勲は受賞してはいない。山田洋次監督の映画音楽も多数手がた。藤沢周平原作時代劇もそうだし、「学校」シリーズもそう。「学校」の音楽はとても心に沁みるもので忘れがたい。

 他に、考古学者で文化財行政の基礎を作った(文化財を開発から守るために、開発者の負担で事前調査する仕組みを作った)人で文化功労者の坪井清足(7日没、94歳)、女優で在日朝鮮人の生涯を一人芝居にした「身世打鈴」(シンセタリョン)を2千回以上演じた新屋英子(しんや・えいこ、2日没、87歳)、落語家で「マクラ」が暗い話から入ることで知られた柳家喜多八(17没、66歳)はそういえば何回か聞いたような…。ジャズバンド「宮間利之とニューハード」のリーダー、指揮者の宮間利之(24日没、94歳)、河合塾の名物講師として知られ、市民運動家として愛知県知事選、名古屋市長選に出たこともある牧野剛(まきの・つよし、20日没、70歳)などの訃報が届いた。(下の写真は書いた順)
    
 政治家では元通産相というより、佐藤栄作元首相の次男で後継者となった佐藤信二(3日没、84歳)。いわゆる「沖縄密約」が佐藤元首相の部屋に残されていたことを明かしたのにはビックリした。政府内で引き継がれていないのだから、「私的文書」だったというしかないけど、それで通るのか。とにかく「実在」したわけである。同じく元通産相で、総務会長も務めた堀内光雄(17日没、86歳)。富士急社長から政界入りし、当選10回。宏池会(大平派)の所属したが、のち加藤紘一の「加藤の乱」(2000年)で派閥が分裂したときは、反加藤派と率いる立場となり「堀内派」と呼ばれるグループができた。今の岸田外相のグループである。以上の二人は、どっちも2005年の郵政民営化反対派だったが、佐藤はそのまま引退。堀内は無所属で出て当選した。(写真は、佐藤、堀内)
 
 外国では、旧ユーゴスラビアの歌手、ヤドランカ・ストヤコビッチ(3日没、65歳)は、サラエボ出身でサラエボ冬季五輪(1984年)のテーマ曲を歌った歌手である。日本文化に関心があり、日本に来ているときにボスニア戦争が激化し帰国できなくなった。1988年から2011年まで、日本を拠点に歌手活動を行ったから、名前は知っている人が多いだろう。僕は直接聞いたことはないけど。その後、今度はクロアチアに仕事で行ったときに発病し、筋萎縮性側索硬化症で亡くなった。

 ヌーヴェルヴァーグの先駆者として「カメラ=万年筆論」で知られる映画監督アレクサンドル・アストリュック(19日没、92歳)は映画史の中では伝説的な名前だが、日本ではほとんど見られないので、僕もよく知らない。中では「サルトル自身を語る」(1976)というサルトルのドキュメンタリーは見ているはず。あれを作ったのはアストリュックだったのか。他にも、「お菓子放浪記」で知られる作家、西村滋(21没、91歳)、「ちびまる子ちゃん」の姉役の声優、水谷優子(17没、51歳)、元零戦パイロットで、記録映画「ひとりひとりの戦場ー最後の零銭パイロット」に出た原田要(3日没、99歳)、日本ハムで1982年に20勝4敗で最多勝になった工藤幹夫(13日没、55歳)など。また5月に報じられた先月の物故者に、東京バレエ団を創設した佐々木忠次(4.30没、83歳)、経済評論家で長銀専務、「路地裏の経済学」で知られた竹内宏(4.30没、85歳)がいる。
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