小川洋子の作品には、家族も友人もいない「孤独」な人物がよく出てくる。しかし、社会的な評価や成功を求めて挫折したのではなく、初めから社会的な関係が薄く、さらに数少ない知り合いとも縁を切って暮らしているような人が多い。そうやって「私」をめぐる社会関係が消滅していき、ついには「私」そのものも消滅してしまう。そんな話がたくさんあるのである。
そんなもの、つまらないんじゃないかと思うかもしれないが、それが面白い。日本の人間関係はただでさえ鬱陶しいのに、さらにグローバル化だの、ソーシャル・ネットワークだの面倒な事態が進行している。FacebookやTwitterやLineとか…、人間はいかにたくさんの友人知人とつながっているかを確認し誇示しているかのような世の中である。情報機器の発達により、「世間」が解体されるのではなく、「デジタル世間」のようなものができているのかもしれない。
だから、ホントなら自分の社会的関係をすべて断ち切って生きたいと思う人もいる。それができないとしても、パソコンもスマホもない南洋の島国のリゾートにでも行きたいと願う人はたくさんいるだろう。そんな「孤独」を求める現代人の心の渇きが、小川洋子作品の魅力を支えている。初期の傑作「薬指の標本」はフランスで映画化されたが(日本公開されたが未見)、小川洋子作品は世界で翻訳されて評判になっている。一部では村上春樹に次ぐノーベル文学賞候補と言う人までいる。小川作品が現代世界で必要とされているということだろう。
さて、初期作品では今あげた「薬指の標本」(1994、新潮文庫)。人々の思い出の品を標本として保存する「標本室」で働く「わたし」。そこには様々な人々が「思い出」を持ってくる。「わたし」と標本技術師との奇妙で切ない愛、そしてついには…という「奇妙な愛の物語」であり、一種のホラー小説でもある「薬指の標本」だけど、愛の究極は「私の消滅」だという冷たい触感に身震いするような傑作である。好き嫌いは分かれるかもしれないが。
「沈黙博物館」(2000、ちくま文庫)も似たような感触が残る作品。「標本室」と「博物館」というのも似ている。そういう「ハコもの」の「冷たい感じ」が小川作品に向いている。学校で言えば、放課後の理科室や音楽室といった場所がかもしだすイメージと似ているかもしれない。世間的には「孤独」であるかもしれないが、そこには「永遠」があるという意味では孤独ではない。この「沈黙博物館」では、博物館技師が老婆に雇われ、ある村にやってくるところから始まる。老婆が開きたい博物館というのは、村で死んでいったものの「形見」を展示するが、それは死者を最も象徴するようなものでなくてはならない。だから、死者の家族から譲り受けるようなものではない。自分で「盗み取る」ことで、永遠に死者たちが存在した証となるのである。
その村では野球も行われているから、地名はどこにも出てこないけど、日本という感じ。鉄道で技師はやってくるし、迎えに来た少女(老婆の養子)は車に乗ってくる。少女とともに野球観戦や村祭りに行くし、村には警察もいる。だから現代社会の仕組みの中にあるはずなんだけど、もうすぐ子供が生まれる兄に送る手紙には、なぜか返事がまったく来ない。ここは一種の「異界」なのか。ここでは「私」が消滅はしないけれど、死者の記憶の中に留められてしまう。村の描写も美しいし、話も面白いけど、これも一種のホラーというか、怖い作品。これはぜひ日本で映像化してほしいな。舞台は北海道の旭川や帯広あたり。老婆は樹木希林、少女は二階堂ふみ、そして博物館技師は西島秀俊でどうか。
そういう不思議世界の「消滅」物語では、僕が最高傑作と思う「猫を抱いて象と泳ぐ」(2009、文春文庫)も同様である。不思議な題名だが、「猫を抱いて」はその通りの意味、「象と泳ぐ」は「西洋将棋」=チェスの盤面を意味する。世界に同調できず、11歳で体の成長を止めた少年。まるで「ブリキの太鼓」のような設定だが、この小説ではもっと奇抜なシチュエーションになっていく。この少年がチェスを覚え素晴らしいチェス棋士になっていくのだが、その小さな身体、人と顔を合わせてチェスを打てない性格から、盤面の下で猫を抱きながら指すという特別なチェス選手となっていく。20世紀前半のロシア(のちフランスに帰化)の有名なチェスプレイヤー、アリョーヒン(アレヒン)が「盤上の詩人」と呼ばれたのに対し、この少年は「リトル・アリョーヒン」と呼ばれ「盤下の詩人」と呼ばれるようになっていく。
しかも、もっとすごいことに、この「リトル・アリョーヒン」はついにはそのままでは人前に出ず、昔のヨーロッパで作られたチェスを打つ「からくり人形」の中に入ってチェスを打つようになるのである。その独特なプレイ方法から、公式戦に出ることは一度もなく、幻のチェスプレイヤーとして生きる「リトル・アリョーヒン」。学校にも行かず、どうやって生きていくのかと思うと、彼を必要とする人々が出てくるのである。そしてかつてのチェス選手たちが老いた後で暮らすために作られた施設、それが彼の居場所となる。山の中にあり、昔はホテルだったためロープウェイで下界とつながる場所。そこは映画の「グランド・ブダペスト・ホテル」や「グランド・フィナーレ」のようなホテルなのかもしれない。
チェスという設定から、日本ではない場所のような感じがする物語である。実際、囲碁や将棋ならともかく、チェスをする人が日本でこれほど多いとは思えない。だけど、地名はどことも示されていない。そんなことを考える必要もないだろう。小川洋子はよほどチェスが好きなのかと思うと、ルールも知らなかったという。そして、しばらく後に書いたエッセイでは、ルールを忘れてしまったと言っている。つまり、チェスというのは、からくり人形や「リトル・アリョーヒン」といった物語を作る「装置」として必要なのであって、チェスを知らなくても読める。というか、競技としてのチェスはほとんど描写されない。「リトル・アリョーヒン」の孤独がひたひたと伝わってきて全身に染み渡るような気がする作品で、そのロマネスクな世界の感動は言葉に尽くせない。圧倒される物語。チェスという特技を極めながら、ついに名を残すことのなかった「リトル・アリョーヒン」の中に、「自己消滅」の究極的な姿が読み取れる。
小説を読む楽しさ、充実感を与えてくれる物語は、まだまだあるのだが、とりあえず「自己消滅」という視角から三つの小説を取り上げた。文学を愛する人ならば、決して裏切られない傑作である。
そんなもの、つまらないんじゃないかと思うかもしれないが、それが面白い。日本の人間関係はただでさえ鬱陶しいのに、さらにグローバル化だの、ソーシャル・ネットワークだの面倒な事態が進行している。FacebookやTwitterやLineとか…、人間はいかにたくさんの友人知人とつながっているかを確認し誇示しているかのような世の中である。情報機器の発達により、「世間」が解体されるのではなく、「デジタル世間」のようなものができているのかもしれない。
だから、ホントなら自分の社会的関係をすべて断ち切って生きたいと思う人もいる。それができないとしても、パソコンもスマホもない南洋の島国のリゾートにでも行きたいと願う人はたくさんいるだろう。そんな「孤独」を求める現代人の心の渇きが、小川洋子作品の魅力を支えている。初期の傑作「薬指の標本」はフランスで映画化されたが(日本公開されたが未見)、小川洋子作品は世界で翻訳されて評判になっている。一部では村上春樹に次ぐノーベル文学賞候補と言う人までいる。小川作品が現代世界で必要とされているということだろう。
さて、初期作品では今あげた「薬指の標本」(1994、新潮文庫)。人々の思い出の品を標本として保存する「標本室」で働く「わたし」。そこには様々な人々が「思い出」を持ってくる。「わたし」と標本技術師との奇妙で切ない愛、そしてついには…という「奇妙な愛の物語」であり、一種のホラー小説でもある「薬指の標本」だけど、愛の究極は「私の消滅」だという冷たい触感に身震いするような傑作である。好き嫌いは分かれるかもしれないが。
「沈黙博物館」(2000、ちくま文庫)も似たような感触が残る作品。「標本室」と「博物館」というのも似ている。そういう「ハコもの」の「冷たい感じ」が小川作品に向いている。学校で言えば、放課後の理科室や音楽室といった場所がかもしだすイメージと似ているかもしれない。世間的には「孤独」であるかもしれないが、そこには「永遠」があるという意味では孤独ではない。この「沈黙博物館」では、博物館技師が老婆に雇われ、ある村にやってくるところから始まる。老婆が開きたい博物館というのは、村で死んでいったものの「形見」を展示するが、それは死者を最も象徴するようなものでなくてはならない。だから、死者の家族から譲り受けるようなものではない。自分で「盗み取る」ことで、永遠に死者たちが存在した証となるのである。
その村では野球も行われているから、地名はどこにも出てこないけど、日本という感じ。鉄道で技師はやってくるし、迎えに来た少女(老婆の養子)は車に乗ってくる。少女とともに野球観戦や村祭りに行くし、村には警察もいる。だから現代社会の仕組みの中にあるはずなんだけど、もうすぐ子供が生まれる兄に送る手紙には、なぜか返事がまったく来ない。ここは一種の「異界」なのか。ここでは「私」が消滅はしないけれど、死者の記憶の中に留められてしまう。村の描写も美しいし、話も面白いけど、これも一種のホラーというか、怖い作品。これはぜひ日本で映像化してほしいな。舞台は北海道の旭川や帯広あたり。老婆は樹木希林、少女は二階堂ふみ、そして博物館技師は西島秀俊でどうか。
そういう不思議世界の「消滅」物語では、僕が最高傑作と思う「猫を抱いて象と泳ぐ」(2009、文春文庫)も同様である。不思議な題名だが、「猫を抱いて」はその通りの意味、「象と泳ぐ」は「西洋将棋」=チェスの盤面を意味する。世界に同調できず、11歳で体の成長を止めた少年。まるで「ブリキの太鼓」のような設定だが、この小説ではもっと奇抜なシチュエーションになっていく。この少年がチェスを覚え素晴らしいチェス棋士になっていくのだが、その小さな身体、人と顔を合わせてチェスを打てない性格から、盤面の下で猫を抱きながら指すという特別なチェス選手となっていく。20世紀前半のロシア(のちフランスに帰化)の有名なチェスプレイヤー、アリョーヒン(アレヒン)が「盤上の詩人」と呼ばれたのに対し、この少年は「リトル・アリョーヒン」と呼ばれ「盤下の詩人」と呼ばれるようになっていく。
しかも、もっとすごいことに、この「リトル・アリョーヒン」はついにはそのままでは人前に出ず、昔のヨーロッパで作られたチェスを打つ「からくり人形」の中に入ってチェスを打つようになるのである。その独特なプレイ方法から、公式戦に出ることは一度もなく、幻のチェスプレイヤーとして生きる「リトル・アリョーヒン」。学校にも行かず、どうやって生きていくのかと思うと、彼を必要とする人々が出てくるのである。そしてかつてのチェス選手たちが老いた後で暮らすために作られた施設、それが彼の居場所となる。山の中にあり、昔はホテルだったためロープウェイで下界とつながる場所。そこは映画の「グランド・ブダペスト・ホテル」や「グランド・フィナーレ」のようなホテルなのかもしれない。
チェスという設定から、日本ではない場所のような感じがする物語である。実際、囲碁や将棋ならともかく、チェスをする人が日本でこれほど多いとは思えない。だけど、地名はどことも示されていない。そんなことを考える必要もないだろう。小川洋子はよほどチェスが好きなのかと思うと、ルールも知らなかったという。そして、しばらく後に書いたエッセイでは、ルールを忘れてしまったと言っている。つまり、チェスというのは、からくり人形や「リトル・アリョーヒン」といった物語を作る「装置」として必要なのであって、チェスを知らなくても読める。というか、競技としてのチェスはほとんど描写されない。「リトル・アリョーヒン」の孤独がひたひたと伝わってきて全身に染み渡るような気がする作品で、そのロマネスクな世界の感動は言葉に尽くせない。圧倒される物語。チェスという特技を極めながら、ついに名を残すことのなかった「リトル・アリョーヒン」の中に、「自己消滅」の究極的な姿が読み取れる。
小説を読む楽しさ、充実感を与えてくれる物語は、まだまだあるのだが、とりあえず「自己消滅」という視角から三つの小説を取り上げた。文学を愛する人ならば、決して裏切られない傑作である。