尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東京都政と都知事の問題を考える①

2016年06月20日 23時42分37秒 | 政治
 「都政」と「都知事」の問題を3回にわたって考える。自分はごく一部の期間を除き、半世紀ほども東京都民である。また、30年近く東京都職員(教育職)だった。中学勤務の時も、教育職員の給与は(区立学校だけど)、東京都が支払う。給与明細にある「給与支払者」は、採用時は鈴木俊一、その後青島幸男、最後が石原慎太郎だった。

 今回の舛添問題に関して、「王様のような都知事」とからかい気味に言われる。そう言われるだけの事実はあるんだろう。そうなる理由としてよく「3つ」のことが言われる。しかし、僕の思うに、もっとも重大な問題が抜け落ちているような気がする。まず「3つ」の問題を先に書くと、最初に挙げられるのは、地方政治は「大統領制」であるということだ。つまり、最高責任者(首長)を住民が直接選ぶ。もちろん同様に「地方議会」も選ばれ、相互にチェックすることになっている。だけど、地方政治の行政権を一手に握る首長の権力をチェックするのは大変である。

 もう一つは、東京が巨大都市であり、首都であるという事実である。人口も多いし、大企業の本社が集中して税収も多い。日本の中で、中央政府からの「交付税」に頼らず予算を組めるただ一つの地域である。なんでも財政規模はスウェーデン並みだというから、驚く。首都だから、政府中枢機能も集中し、外国大使館もあるし、皇居もある。警視庁の警官は「東京都職員」であり、都知事は首都機能の警備に大きな責任がある。もっとも、これはタテマエで、警察は都知事の指示で動くわけではない。だけど、都知事は自分をすごい大物だと思いやすいんだろう。

 そして、もう一つは「石原知事の存在」である。支持者は熱狂するし、反対派は嫌悪する。「トランプ」的存在である。大スターだった弟の名声も利用し、スター軍団の応援を得て当選した。当選後は国ともケンカし、反対派を蹴散らし、様々な話題をまきながら当選を4回重ねた。「実績がある」と言う人もいるが、僕には何が実績なのかさっぱりわからない。登庁回数なども少なく、自由気ままな都政運営を行いながら、なぜか批判が沸き上がらなかった。イデオロギー的には「極右」で、「暴言」も多かったから、嫌いな人は全く評価しない。「石原が悪かった」と言う人が僕の周りにもたくさんいるのだが、それは本当だろうか。「皇帝政治」という面では、石原都政の悪弊が受け継がれてしまった部分があると思う。

 以上のような問題も大きいけれど、さらに重大な問題がある。それは「東京都制度」である。2012年ロンドン五輪では、閉会式で五輪旗がロンドン市長からIOC会長へ、そしてリオデジャネイロ市長へと手渡された。リオデジャネイロ州知事ではない。当たり前である。オリンピックは都市が開催するものだから。しかし、東京には「東京市長」がいない。いないというか、いたけど無くされた。1943年、戦争のさなかである。戦時中のどさくさ紛れで、「東京都構想」が強行されたわけである。

 大阪では「大阪市」をなくして大阪府に統合し、「大阪都」を作ろうという「大阪都構想」が橋下徹大阪府知事によって提唱された。しかし、大阪市長が反対して事態が進まなくなったのを見て、橋下知事は辞任して大阪市長選挙に立候補して当選した。この経過をどう評価するかは様々だろうが、大阪府知事と大阪市長は「ライバル関係」というか、相互にけん制する存在なのである。大阪「同日選」の後は、同じ勢力(当時の「大阪維新の会」)になったから、「ライバル」というより「協力」関係、「車の両輪」のようになっているが、両者の存在が大きな意義を持っていることは同じである。

 つまり、知事にとって、地方議会や世論、マスコミなどの他に、同じ県の市町村長、中でも道府県庁所在地の市長は大きな「けん制勢力」なのである。特に「政令指定都市」の市長が同じ自治体にあれば、実力も人気も知事に匹敵するような存在感がある。知事に何かあれば、それに代わりうる重要な地位にあると言ってもいい。ところが1898年から1943年まで存在した東京市長は、今はいない。(ちなみに東京市長には、尾崎行雄後藤新平中村是公=元満鉄総裁で漱石の友人として有名、伊澤多喜男=内務官僚の総帥的存在で、劇作家飯沢匡の父、など近代日本史上の有名人物がいる。)戦前は任命制、のちに市会による互選で、市民の直接選挙ではなかったが、東京市長には閣僚級の重要人物が就任していたのである。

 東京市長が存在しないというのが、東京都知事が「王様化」する最大の要因だ。今では東京都制が当たり前になりすぎて、誰も改めて意識しない。だから、リオに旗を引き継ぎに行くのは都知事の仕事だと言われても、誰も疑問にすら思わない。旧東京市は23の「特別区」になっているが、人口が非常に大きいのに、権限は一般の市に及ばない。特別区民は800万以上もいるが、自分は「区」に所属するのか、「都」に所属するのか、はっきりと意識していない人が多いだろう。「基礎自治体」は一応「特別区」の方で、福祉や義務教育は区の仕事ということになっている。だけど、都の権限が強すぎて、住民も区を超えて仕事や娯楽に出かけているから、区民意識はそれほど強くない。しかし、東京都となると多摩地方の山岳地帯から、はるか南方の小笠原諸島まで含む。都庁も新宿にあるお城のような広大な建物で、都民意識も持ちにくい。この「都民意識の薄い住民」がたくさんいるから人気投票的な知事選挙になるし、当選すれば住民意識からかけ離れた「王様」になる。

 昔の都知事も同じだったのだろうか。最初の民選知事で3期、かつ戦前の官選時代の2期と加えて、通算5期務めた安井誠一郎。あるいは64年の東京五輪の時の知事、東龍太郎はどうなのだろうか。自分の記憶にはない時代の話だが、この時代もやはり一種の「王様」だったのではないかと思う。だけど、日本全体も貧しい時代で、中央直結で都市基盤整備を進める知事であれば、それで良かった。当時は中央政府の力が圧倒的で、誰も地方が(東京都といえど)政府に対抗できるなどとは考えもしなかった時代なんだと思う。「人気投票」だったのは、参議院の全国区の方で、いつも有名人が立候補していた。石原慎太郎も最初は参議院全国区に出馬したのである。(美濃部亮吉は知事後に、青島、舛添は知事前に参院議員だった。参議院議員だった都知事は4人もいる。)

 日本が高度成長をとげ、東京五輪も終わると、その後は「高度成長の影」も一番最初に東京に現れた。通勤電車は満員だし、物価はどんどん高くなる。福祉や医療の水準は低く、大気汚染、水質汚染、地盤沈下など公害問題が深刻化した。今は改善されている隅田川が、当時は本当に悪臭で耐え難かった。そこに「待った」を掛けたのが、1967年の都知事選における「革新知事美濃部亮吉の当選だった。革新自治体は、それ以前に社会党議員の飛鳥田一雄が横浜市長に当選していた。だが、全国に「革新自治体」を印象付けたのは、やはり美濃部知事ではないかと思う。特に、1971年には長期政権だった佐藤栄作内閣への不満を「ストップ・ザ・サトー」というスローガンで訴え、対立候補を大差で破った。地方選挙の課題ではないとか、この「ザ」は何だとか言われたが、とにかく「地方自治体」が中央政府に異議申し立てできるという意識は、このころから定着したのではないか。
(美濃部亮吉知事)
 だから、後の石原都政もそうだし、自民党が鈴木知事4選を高齢を理由に公認しなかったとき、あるいは鈴木4選後に与野党相乗りで官僚候補が決まりそうだったとき(結果的に青島幸男が立候補して当選した)にも「中央対抗意識」が発動されることになったのである。思想的、党派的には違いがあっても、今は皆「美濃部後」の都知事なんだと思う。特に石原都政は「国」を仮想敵化して対抗するようなパフォーマンスが多かった。小泉首相が「自民党をぶっ壊す」と主張して反対派を「抵抗勢力」と呼んだのと同じである。また橋下市長が「東京」を意識した発言を繰り返すのも、同じ構図なのだろうと思う。じゃあ、一体「石原都政」とは何だったのか。あるいはその前に4期務めた鈴木都政は何だったのか。その間の青島都政はどうだったのか。
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