尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

6年目の教員免許更新制①

2016年08月31日 21時37分39秒 |  〃 (教員免許更新制)
 中世の話を長く書きすぎたので、今回は短くして2回に分けることにする。「教育」に関するさまざまな話題を、9月にかけてまとめて書いておきたいと思っている。まずは「教員免許更新制」である。

 もっとも何か新しいことがあったわけではない。ちょっとあったけど、それは次回に回して、まずは「原理的問題」を書いておきたい。この教員免許更新制も2011年から実施されているので、6年目を迎えている。1年前には講習を受講しないといけないので、事実上7年目とも言える。55歳の人は管理職や主幹になっていて受講免除の人も多いと思うが、ここまで続いてしまうと全教員の半分以上は「免許更新」の対象になったのではないか。「10年研修」は廃止されるということだったが、政府に動きはないようだから、いまだに「二重苦」が続いている。

 もう少しすると、45歳、55歳の教員の2回目、そして「初めから10年期限の免許を取得した教員の35歳の最初の更新」もやってきてしまう。そういう若い教員にとっては、「初めから決まっていたこと」だから、免許更新講習を受けることにもそれほど違和感がないのかもしれない。だけど、その結果「教育の質は向上したのか」と問うと、どうなんだろう。更新制導入後にも、それ以前と同じくというか、むしろより多く、教員の「不祥事」が報じられている気がする。

 ある意味で当然のことだろう。「負荷」が大きければ大きくなるほど、「破綻」するものも多くなる。そういうこともあるし、それ以上に「教員免許」は「私的資格」だという「免許更新制」の本質から、教員が「公教育」を担っているという誇りが薄れていってしまう。

 時々、「受講した講習が役に立った」という理由で、「更新制はあってもいい」などと主張する人がいる。これこそまさに「本末転倒」の考え方である。更新制の主眼は、講習を受けさせることではない。もし講習が役に立つというなら、「講習を受けて合格した人はそれで免許が更新される」という仕組みになるはずである。そうではなくて、講習だけではダメで、その後に「自己責任」で「私的資格である教員免許」を教育委員会に更新を申請しないといけない。それを忘れたことで、失職して教壇を追われた人が何人もいる。講習は受けていても、それだけではダメなのである。「更新手続き」の方が、更新制度の本質なのである。

 当初は教育委員会で講習を行う案もあったけれど、とても請け負いかねるということで、「大学等で行う講習」を受けることに制度が変更された。大学に行くのも久しぶり、大学の先生の話は、いつも受けさせられているつまらない官製研修と違って、教育行政批判もあったりして「案外面白かった」という人もいる。それはそれでいいけど、それなら、「10年に一度、長期休業中に大学で研修する」という制度にすればいいだけである。いくら工夫して頑張っている大学だって、それを受けないと教員資格を失うというほど素晴らしい講習をしているわけでもあるまい。何もしないで更新するわけにはいかないから、大学で受講するという風に作られただけである。

 それは結局、「教員免許は私的資格」だという決めつけに行きつく。だから「講習」であって「研修」ではない。だから、出張にはならない。自己負担で行く。「職免」(職務専念義務の免除)は申請できるはずだが、管理職が不勉強、もしくは不親切で、「年休」で受講している人も多いらしい。全国には職場で組合活動がほとんどできていない中学校が非常に多いだろうから、制度のこともよく知らない人が多いかもしれない。講習費と交通費の負担が嫌だというよりも、というか嫌には違いないだろうけど、それ以上に「公教育を担っている」という仕事が「私的」なものだということに納得できないと思う。

 運転免許は私的な資格だから、更新するときは休暇を取っていかなくて行けない。教員が運転免許を更新するときに、年休を取っていくのは当然だ。しかし、「それと同じように、教員免許は教員の私的な資格だから、更新するために教育委員会に行くときには、休暇を取っていかなくてはいけない」なんていうのが、当たり前になってしまっていいのか。学校で教師が行っている仕事は、そんな私的な性格のものだったのか。そうだったんだ。次世代の社会を担う人造りを行う、社会的に意義ある立派な仕事ではなかったのである。それが「教員免許更新制の本質」である。

 教育基本法を「改正」し、教員免許更新制を導入した第一次安倍内閣。安倍内閣が復活以来、教育行政もすっかり様変わりした。そんな中で、ついに私立小中学校に通う生徒の保護者にも補助金を出すという案が有力になっている。高校の話ではない。本来は全生徒がいけるはずの公立小中学校がある。いじめを避けて転校するなどと言っても、私立から公立に移る例はあっても、公立学校の生徒を私立が受け入れてくる例があるのか。こうして、教員の資格を私的なものにした後では、「学校に行く」と言うことそれ自体も、親の行う私的な行為となっていく。「公教育」という発想は、もう今の政権にはないんだと思う。
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日本の「中世」とは何だったのか-「シリーズ日本中世史」を読む

2016年08月31日 00時01分32秒 |  〃 (歴史・地理)
 各種スポーツの「日本代表」には様々な「愛称」が付いている。「なでしこジャパン」は有名だけど、他にも実にいっぱいある。競泳は「トビウオジャパン」で、シンクロナイズドスイミングは「マーメイドジャパン」、飛び込みが「翼ジャパン」、「水球」が「ポセイドンジャパン」なんだという。多分ほとんど知らないだろうからクイズに使えるのが、「ムササビジャパン」に「おりひめジャパン」。これがハンドボールの男子と女子だと知っている人は少ないだろう。

 そんないっぱいある中で、一番使われている言葉は、間違いなく「サムライ」である。野球が「サムライジャパン」というのは有名だと思うけど、「さむらいジャパン」というのもあって、それはホッケーの男子である。サッカー男子代表にもちゃんとあって、SAMURAI BLUE(サムライブルー)と言うらしい。ちなみに、フットサル代表は、SAMURAI5(サムライファイブ)と言う。(以上、ウィキペディアの「日本代表」の記述による。実に面白く、この付け方の考察だけで一種の日本論になりそう。)

 このように150年近くも前に終わった「武士の時代」の支配階級の呼び名は、今ではすっかり「カッコいい」「強い」「男らしい」「勇気ある」といったイメージになっているらしい。そう言えば、武将が出てくるゲームもいっぱいあるらしいし。後の時代に作られるイメージをいちいち批判しても仕方ないのかもしれないが、「武士」って、そんなにカッコいいものなの? 大体、「サムライ」は漢字で書けば「侍」である。「侍女」の「侍」である。「はべる」女のことである。何でサムライが「侍」なのか。

 それはもちろん、「さむらい」というのは「さぶらう」、そばで付き添う、つまり権力者に仕えるボディガードだったという歴史を示している。いわば、「侍女」ならぬ「侍男」だったわけである。仕える先は、当初は摂関家の当主の場合が多いが、やがて院政時代になると院に直属する武力になってくる。そして朝廷や摂関家が分裂すれば、「私兵」として動員され、勝てば武力行使が公認されるが、負ければ没落する。そういう時代を経て、長い長い時間をかけて、武士は「日本の支配者」として誰もが認める勢力として定着した。

 そういう「武士の時代」の前半期を、日本史では「中世」と呼んでいる。支配者としての武士が確立した「江戸時代」は、別に「近世」という呼び方をすることになっている。でも、「近世」って何だ?外国語にできないではないかと、昔からこういう時代区分自体に疑問も出されてきた。世界史、というか「標準としてのヨーロッパ史」では、ギリシャ・ローマの「古代文明」が栄え、また「大航海時代」以後にヨーロッパ諸国が世界を支配した「近代」がある。その間に、古代文明が破壊され、自給自足的経済に落ち込んだ「暗黒の中世」があるわけである。

 でも、日本史では「近世」概念の有効性は、やっぱりあるように思う。「武士」つまり「軍事貴族」が社会を支配し、江戸時代のように長期に安定した社会を築いたというのが、日本史の特徴なのは間違いないからである。そういう江戸時代へ向け、「武士の登場」(平安時代中頃から後期)から始まって、戦国時代の終焉までを、日本史では「中世」と呼んでいる。岩波新書では、今まで古代史、近世史、近代史のシリーズがあったけど、こんど「シリーズ中世史」全4巻が出た。そういうのが出ると、やっぱり買ってしまう。少し前になるけど、せっかくだから読んだ記録ということで。

 日本の「武士時代」と言っても、最後まで「朝廷」と「幕府」の二本立てである。幕府は朝廷から任じられて政治を行うタテマエだが、朝廷は政治的権能をほとんど有してない。江戸時代には御所の外に出ることさえかなわない。こういうのを、昔は僕も「一種の特殊状態」と思っていた。でも、今はちょっと違う。世界の様々な国を見れば、むしろ「権力と権威の分裂」、あるいは「二重権力」のようになった歴史を持つ国の方が多いのではないか。特に、複雑な異民族支配や宗教的権威が絡み合って、権力が二重にも三重にもなった時代を持つ国は結構多いと思う。日本だけが「特殊」だと昔は思い込みやすかったのだが、朝廷と幕府の分立なんか、世界史の中では軽い、軽いといったもんじゃないか。

 柳田国男によれば、村の民俗を訪ねてさかのぼれる上限は「室町時代」だという。また網野善彦によれば、南北朝の争乱時代以後に日本は「野蛮の時代」を脱するという。とにかく、日本では室町時代初期に大きな境目があるらしい。僕らが日常的に接しうる「日本的なもの」、茶道や華道、能・狂言、床の間などがある書院造などは、みんなその時代のものである。(でも書いていて思うけど、高度成長以後の生活スタイルの変化で、もう「室町時代以来のもの」も日常からなくなりつつある。)

 大昔は「鎌倉幕府の成立」をもって、「武士の時代の始まり」と見なしていた。「歴史は進歩する」と言われていて、平安初期までが「天皇の時代」、その後「貴族の時代」、そして「武士の時代」となっていく。「歴史の担い手」が移り変わっていく。特にマルクス主義的な唯物史観に立っているとも思えない先生でも、確かに判りやすく教えやすいと思えるからだろう、そういう教え方をしていたと思う。だから、武士の登場は「武士階級が政権を奪取した」わけである。新しい時代を切り開いたわけである。そういうとらえ方が変わってきたのは、もうずいぶん前だろう。大体、鎌倉時代は「武士の時代」というほど、幕府権力が社会を覆っていたとも言えない。経済的にも、院や摂関家に属する荘園の存在が大きかった。それに大寺社が朝廷や幕府を揺るがすほどの勢力を持っていた。だから、朝廷・幕府・寺社が並び立つ時代ととらえる「権門体制論」が登場して有力となってきた。

 一方、それだけではとらえきれない複雑さが日本史にはある。それは「源頼朝はなぜ鎌倉に幕府を置いたのか」という問題である。京都に幕府を設置したら、また歴史は変わっていたのだろうか。というか、「幕府」とは「征夷大将軍」のいる場所のことである。歴史的に「東国を制圧する」ことが「武士の仕事」だったから、そもそも京都にいるんだったら、平清盛のように太政大臣とか、あるいは関白などになる方が筋だろう。だから、そもそも「幕府時代」という時代区分はなかったかもしれない。はっきりしているのは、多分鎌倉幕府がなければ、江戸幕府というものもなかったということである。でも、日本では地理的にも、自然的にも「東西差」がはっきりとあって、その東西差が鎌倉幕府の存在によって、「公然化」したとも言える。

 なんだか書評にならないことを書いているけど、おそらく日本の中世の最大のできごとは「家」(イエ)の成立だろう。中世には天皇家も独自の荘園を持ち、それを相続していった。本来、天皇は日本全体の支配者であり、全国土が「王土」であるはずである。正規の支配ルートを通じて、日本各地を押さえられるはずだが、そういうタテマエはすぐに崩れてしまって、「天皇家」も独自の私有財産を世襲する。というか、「天皇」も天皇ではなく、天皇の父、つまりは「天皇の家の家長」が支配する時代となった。

 摂関家も同じで、もとは藤原鎌足に発する一族も、様々に枝分かれしながら、藤原北家、それも藤原道長の子孫以外は摂関にはなれなくなる。さらにそれは枝分かれしていって、結局、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五つの家柄からしか摂関にはなれなくなる。(五摂家)九条家が一時排除されかかるが、なんとか滑り込める経緯は、「鎌倉幕府と朝廷」で興味深く説明されている。他の貴族も全部同様に家格と職掌が固定され、「家の仕事」が継承される体制となる。その下に清華家(せいがけ)、大臣家、羽林家…とずっと続いている。ほとんどは藤原家の流れだが、中には清和源氏や村上源氏、桓武平氏などの流れもある。そして、それぞれ琵琶だの笛だの、歌道、蹴鞠(けまり)など、その家で伝えていくべき仕事も決まっている。

 武士だって、実力でのし上がった新しい階級というよりも、平将門の乱の平定に活躍して以来、清和源氏(の中でも河内源氏)、桓武平氏(の中でも伊勢平氏)、藤原秀郷の流れの諸氏(中央に出なかったが、関東の武士の多く、奥州藤原氏、九州の大友、龍造寺、立花などの祖先となった)に固定されていた。「武芸」を一族の職掌として、朝廷や摂関家に仕える「家」として成立したわけである。このような「家」の成立とともに、自己の子孫に「家」を継承させていこうとする果てしない政争が生まれることになる。鎌倉時代や南北朝時代の、凄惨なまでの同族も含めた殺し合い、特に鎌倉で起こる相次ぐ「騒動」、あるいは南北朝時代の足利尊氏と弟の足利直義の兄弟争いなどは、陰惨なまでに「武士の時代」の本質を示している。

 長くなりすぎているので、後は簡単に。そういう権力の争いが行きついたのが、「戦国時代」である。将軍家をはじめ有力武家の多くで、家督争いが起こり、果てしない争乱が全国に広がった。その終局に、逆に信長、秀吉、家康による、前近代では世界的に珍しいほどの「中央集権政権」が誕生する。「分裂から天下統一へ」は、常にアジアの中で日本史を論じてきた村井章介氏が担当している。琉球やアイヌの状況も詳しく、同時に「石見銀山の世界史」では、日本、特に石見銀山だけで世界の銀の6分の1を産し、世界経済を大きく変えた様が語られている。その中で、豊臣秀吉が朝鮮侵略戦争を起こし東アジア世界を大きく変えてしまった。今では秀吉が朝鮮から大明国までをも征服し、天皇は明に移すなど「老人の誇大妄想」としか思えないが、著者によれば「秀吉ができなかったことが、ヌルハチにはなぜできたのか」という問いも立てられるのではないかという。なるほどと思わせられた。

 村の様子も触れられているが、特に第3巻「室町幕府と地方の社会」では、書名にも「地方」が入っていて、判りやすく叙述されて興味深かった。室町時代は「荘園制の終わり」と理解されていたが、武士が荘園に勢力を伸ばすのも荘園制の一環として理解できる面があるという。よく教科書に出てくる「下地中分」(荘園領家と地頭方で、領地そのものを半分ずつに分けること)も、「武士の勢力増長」と言われるが、むしろ「本所(摂関家などの領家)にも半分は保証する」という「荘園保護策」だったという。

 他にも書きたいことは多いけど、最後に一つだけ。今も「葬式はお寺」という人が圧倒的である。それも「鎌倉仏教」と総称される諸派の寺院でほとんどが行われる。浄土真宗とか日蓮宗とか曹洞宗とか…。それは何故か。源平争乱から南北朝、戦国時代と続くぼう大な死者の群れ…。「死者の穢れ」を免れる僧侶が、死者の弔いを担当したという長くて辛い民衆の歴史が底にあるのだろう。葬送のあり方の中にこそ、日本社会で「中世」が今もなお生きている証ではないか。
   
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