二重国籍問題の話は、大体終わっているんだけど、今までとは違った観点でもう少し考えておきたい。それは「支配・被支配」の関係と「父系重視」の考え方が交錯するところで、どのような心理的偏見が生み出されるかという問題である。「深層」に潜む社会心理の問題である。
蓮舫氏とはまた違った問題だが、アメリカではバラク・オバマ大統領の「出生」が長らく問題になってきた。バラク・オバマ(1961~)はハワイで、ケニア人留学生の父と「白人」の母の間に生まれた。母親の民族的背景は、イングランドやスコットランド、アイルランドなどが混ざっているということで、要するに「白人」(ヨーロッパ系)としか言えない。
ハワイ大学のロシア語の授業で知り合って、正式に結婚した時に、母は18歳だった。まだ60年代の公民権運動の前だから、大変な反対があったという。父はその後、ハーバードの大学院に進み、ユダヤ系女性と親しくなり、一緒に帰国した。帰国後は石油会社に勤務し、のちに政府のエコノミストを務めた。優秀な人物だったわけだが、交通事故で1982年に亡くなっている。
母親アン・ダナムは、夫がハーバードに去ったのち、1964年に正式に離婚した。1967年にはインドネシア人学生と再婚し、インドネシアに引っ越した。(子どものバラクを同行した。)女子が生まれているが、1980年には離婚した。その後、人類学の研究を続け、人類学の博士号を取得したが、1994年にガンで死去した。このようにオバマ大統領は、すでに早く両親を失っているわけである。
こういう経緯を見ると、(出生証明書を公表しているように)、バラク・オバマはハワイ生まれであることは疑いない。ハワイは1959年に州に昇格しているから、出生地主義のアメリカでは、生まれた時からアメリカ市民権を持つわけである。だけど、それに対して「オバマはケニア生まれ」と疑問を投げかける人が一定程度いる。ドナルド・トランプもつい最近まで、そういうことを言っていた。
トランプは同じ共和党のテッド・クルーズ上院議員の「大統領資格」も問題視していた。テッド・クルーズは紛れもなく「カナダ生まれ」だけど、父親は仕事の都合でカナダに行っていた。後にテキサスに戻り、以後ずっとそこで過ごしている。(なお、父親はキューバ移民で、福音派キリスト教の伝道師でもある。)大統領は「出生によるアメリカ国民」と憲法で規定しているけど、いくら「出生地主義」のアメリカといっても、親がアメリカ人なら「自国民」と認めているわけである。そうでなければ、現代のようなグローバル社会に対応できない。外国で多数の国民が勤務しているのに、子どもが生まれたら国籍が無いとなったら、外交官やビジネスマンが外国へ赴任しない。
そういう観点で見れば、どこで生まれようが、「母はアメリカ人」であることが疑いないバラク・オバマはアメリカ市民権を持っているはずだ。だけど、ずっと「疑いの目」が存在する。何故だろうか? それは恐らく、60年代にアフリカ人やアジア人と結婚した「母親の生き方」が理解できないからじゃないか。本人を目の前にしたら言えないことでも、死んでいるから陰であれこれ言える。よりによって、アフリカ系とアジア系の子どもを二人も生んだ母親は、一種の「裏切者」「転落者」に見られる。
これが、戦争に行った後に外国から帰還した米兵が、女性を連れて帰った場合は違ったんだろうと思う。占領軍として来た兵士が日本女性を連れて帰った例は、ものすごくたくさんあるし、うまく行った場合ばかりではない。よりによって「敵の娘」を連れ帰ったことに、家族が違和感を持つ場合もあっただろうが、「一種の戦利品」として受け入れ可能な存在である。
一般的に、男性優位社会では「男性優位婚」になる。「大卒男子」は会社で高卒の派遣社員と結婚しても非難はされない。(ただし、相手の「容姿」レベルは問われる。)一方、「大卒女子」の社員が、出入り業者の高卒社員と結婚するのは、「不釣り合い」と見なされる。本人同士が良ければどうでもいいことだけど、以上の例は理解可能だと思う。これは「強い者」「弱い者」の結びつきでは、同じようになる。男性が「弱い者」から結婚相手を見つけるのは、条件付きで許される。だけど、女性は「より上位の男性」に選ばれないと価値が証明できないわけである。
植民地においては、支配民族の男性が「現地の被支配者の女性」を「性的対象」にするのは許される。(そうじゃないと、戦争や貿易に男がやってこない。)ただし、「正妻」にするのは問題で、そういう「変人」(原住民を愛情の対象にしてしまうというのは「掟破り」の変人)は支配者の社会から追放されることが多い。「愛人」ではなく、「現地妻」といった存在でなら許容される。(祖国に正妻がいる場合もあるが、「現地妻」は許される。「現地妻」の存在を正妻がとやかく言うのは、「男の仕事」に口をはさむはしたないこととされる。)
一方、植民地社会が安定してくれば、医師や教師などの専門職の人々が、(祖国よりも有利な条件で職にありつける可能性が高いので)やってくることになる。一家で住み着けば、子どもも生まれる。男子は祖国の学校に送って教育するが、女子は手元に置くことが多い。だけど、支配民族の中で配偶者を見つけるのが当然で、いくら相手が現地のエリート階層であっても、支配民族の女性が被支配民族の男性を「性の対象」にするのは、許されない。(相手が王族などの有力者にまでなれば、「政略結婚」として支配者の女性が嫁ぐ(嫁がされる)ことはよくあるが。)
まあ、そういう原則ばかりでは語れないけど、サマセット・モームの「南海もの」などのイギリスの小説を読むと、こういう話がよく出てくる。あるいは、マルグリット・デュラスの「愛人」(ラマン)は、現地の男性と性的関係を持つ支配民族の娘の状況を深くとらえている。要するに、「男には許される」が「女には許されない」わけである。そして、子どもに関していえば、子どもは父親の民族を受け継ぐべき存在と見なされるわけである。
そうなると、バラク・オバマの出生問題の本質は、「アフリカ人男性と結婚した母から生まれた子ども」はアメリカ人と認めたくないという心理ではないかと思う。蓮舫問題の深層にあるものも、「旧植民地」である台湾の男性を父とするものは、日本人というより、父の国籍の台湾人と見なしたいという心理ではないだろうか。だから、二重国籍とか日本国籍取得などの経緯は、一番重要な問題ではないように思うのである。もちろん、それは「女性差別」であり、「民族差別」だから、表立っては言われない。言ってる本人も気づいていないかもしれない。だけど、僕は「帝国支配の残りかす」のような、ゆがんだ感覚を感じてしまうのである。後、もう一回。
蓮舫氏とはまた違った問題だが、アメリカではバラク・オバマ大統領の「出生」が長らく問題になってきた。バラク・オバマ(1961~)はハワイで、ケニア人留学生の父と「白人」の母の間に生まれた。母親の民族的背景は、イングランドやスコットランド、アイルランドなどが混ざっているということで、要するに「白人」(ヨーロッパ系)としか言えない。
ハワイ大学のロシア語の授業で知り合って、正式に結婚した時に、母は18歳だった。まだ60年代の公民権運動の前だから、大変な反対があったという。父はその後、ハーバードの大学院に進み、ユダヤ系女性と親しくなり、一緒に帰国した。帰国後は石油会社に勤務し、のちに政府のエコノミストを務めた。優秀な人物だったわけだが、交通事故で1982年に亡くなっている。
母親アン・ダナムは、夫がハーバードに去ったのち、1964年に正式に離婚した。1967年にはインドネシア人学生と再婚し、インドネシアに引っ越した。(子どものバラクを同行した。)女子が生まれているが、1980年には離婚した。その後、人類学の研究を続け、人類学の博士号を取得したが、1994年にガンで死去した。このようにオバマ大統領は、すでに早く両親を失っているわけである。
こういう経緯を見ると、(出生証明書を公表しているように)、バラク・オバマはハワイ生まれであることは疑いない。ハワイは1959年に州に昇格しているから、出生地主義のアメリカでは、生まれた時からアメリカ市民権を持つわけである。だけど、それに対して「オバマはケニア生まれ」と疑問を投げかける人が一定程度いる。ドナルド・トランプもつい最近まで、そういうことを言っていた。
トランプは同じ共和党のテッド・クルーズ上院議員の「大統領資格」も問題視していた。テッド・クルーズは紛れもなく「カナダ生まれ」だけど、父親は仕事の都合でカナダに行っていた。後にテキサスに戻り、以後ずっとそこで過ごしている。(なお、父親はキューバ移民で、福音派キリスト教の伝道師でもある。)大統領は「出生によるアメリカ国民」と憲法で規定しているけど、いくら「出生地主義」のアメリカといっても、親がアメリカ人なら「自国民」と認めているわけである。そうでなければ、現代のようなグローバル社会に対応できない。外国で多数の国民が勤務しているのに、子どもが生まれたら国籍が無いとなったら、外交官やビジネスマンが外国へ赴任しない。
そういう観点で見れば、どこで生まれようが、「母はアメリカ人」であることが疑いないバラク・オバマはアメリカ市民権を持っているはずだ。だけど、ずっと「疑いの目」が存在する。何故だろうか? それは恐らく、60年代にアフリカ人やアジア人と結婚した「母親の生き方」が理解できないからじゃないか。本人を目の前にしたら言えないことでも、死んでいるから陰であれこれ言える。よりによって、アフリカ系とアジア系の子どもを二人も生んだ母親は、一種の「裏切者」「転落者」に見られる。
これが、戦争に行った後に外国から帰還した米兵が、女性を連れて帰った場合は違ったんだろうと思う。占領軍として来た兵士が日本女性を連れて帰った例は、ものすごくたくさんあるし、うまく行った場合ばかりではない。よりによって「敵の娘」を連れ帰ったことに、家族が違和感を持つ場合もあっただろうが、「一種の戦利品」として受け入れ可能な存在である。
一般的に、男性優位社会では「男性優位婚」になる。「大卒男子」は会社で高卒の派遣社員と結婚しても非難はされない。(ただし、相手の「容姿」レベルは問われる。)一方、「大卒女子」の社員が、出入り業者の高卒社員と結婚するのは、「不釣り合い」と見なされる。本人同士が良ければどうでもいいことだけど、以上の例は理解可能だと思う。これは「強い者」「弱い者」の結びつきでは、同じようになる。男性が「弱い者」から結婚相手を見つけるのは、条件付きで許される。だけど、女性は「より上位の男性」に選ばれないと価値が証明できないわけである。
植民地においては、支配民族の男性が「現地の被支配者の女性」を「性的対象」にするのは許される。(そうじゃないと、戦争や貿易に男がやってこない。)ただし、「正妻」にするのは問題で、そういう「変人」(原住民を愛情の対象にしてしまうというのは「掟破り」の変人)は支配者の社会から追放されることが多い。「愛人」ではなく、「現地妻」といった存在でなら許容される。(祖国に正妻がいる場合もあるが、「現地妻」は許される。「現地妻」の存在を正妻がとやかく言うのは、「男の仕事」に口をはさむはしたないこととされる。)
一方、植民地社会が安定してくれば、医師や教師などの専門職の人々が、(祖国よりも有利な条件で職にありつける可能性が高いので)やってくることになる。一家で住み着けば、子どもも生まれる。男子は祖国の学校に送って教育するが、女子は手元に置くことが多い。だけど、支配民族の中で配偶者を見つけるのが当然で、いくら相手が現地のエリート階層であっても、支配民族の女性が被支配民族の男性を「性の対象」にするのは、許されない。(相手が王族などの有力者にまでなれば、「政略結婚」として支配者の女性が嫁ぐ(嫁がされる)ことはよくあるが。)
まあ、そういう原則ばかりでは語れないけど、サマセット・モームの「南海もの」などのイギリスの小説を読むと、こういう話がよく出てくる。あるいは、マルグリット・デュラスの「愛人」(ラマン)は、現地の男性と性的関係を持つ支配民族の娘の状況を深くとらえている。要するに、「男には許される」が「女には許されない」わけである。そして、子どもに関していえば、子どもは父親の民族を受け継ぐべき存在と見なされるわけである。
そうなると、バラク・オバマの出生問題の本質は、「アフリカ人男性と結婚した母から生まれた子ども」はアメリカ人と認めたくないという心理ではないかと思う。蓮舫問題の深層にあるものも、「旧植民地」である台湾の男性を父とするものは、日本人というより、父の国籍の台湾人と見なしたいという心理ではないだろうか。だから、二重国籍とか日本国籍取得などの経緯は、一番重要な問題ではないように思うのである。もちろん、それは「女性差別」であり、「民族差別」だから、表立っては言われない。言ってる本人も気づいていないかもしれない。だけど、僕は「帝国支配の残りかす」のような、ゆがんだ感覚を感じてしまうのである。後、もう一回。