2016年8月は、後半になって幾人もの訃報が相次いで伝えられた。まず、ベラ・チャスラフスカ。1942~2016.8.30没、74歳。言わずと知れた東京五輪女子体操の個人総合金メダリストである。もうチャスラフスカと聞いて、優雅で魅惑的な彼女の体操を思い出すのも、60代以上だろう。でも、当時リアルタイムで知った人には絶対忘れられない名前である。
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チャスラフスカは68年のメキシコ五輪でも、2連覇を果たした。だけど、そこへ至る道は険しいものだった。当時、ソ連圏だった「チェコスロバキア」の選手だったチャスラフスカは、68年に起こった「プラハの春」と呼ばれる自由化運動にコミットした。ところが五輪直前の8月になって、ソ連を中心とするワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻するという大事件が起きたのである。そして彼女は、その後の苦難の時代を一貫して権力に屈せず生き抜いた。89年の「東欧革命」で復権するも、その後も私的な悲劇に見舞われる。そのような話は、2011年10月に「ベラ・チャスラフスカの勇気ある人生」に書いたので、ここではこれ以上書かないことにする。2011年秋に、元気を取り戻した彼女は、東日本大震災の被災者支援のために来日した。最後まで立派な人だったと思う。
ジャーナリストのむのたけじがなくなった。ひらがなで表記し、それも名字と名前の間に何もいれなかったけど、感じで表記すると「武野武治」になる。1915.1.2~2016.8.21。なんと101歳の長命だった。戦前は朝日新聞記者として活躍したらしいが、敗戦を機に「戦意高揚報道」に責任を感じて退社した。その後、郷里の秋田県横手市に帰って、週刊新聞「たいまつ」を発刊して、一貫して反戦を訴え続けた。「たいまつ」は1978年に休刊したが、その頃には「たいまつ社」という出版社を作り、「たいまつ新書」という新書を刊行していた。僕は当時ずいぶん読んだもので、ずいぶん影響を受けた。その後もずっと元気で、90代のジャーナリストとして反戦・護憲を訴えた。案外、近年が一番社会的知名度があったのかもしれない。人には寿命があるのだから、やむを得ないところだろう。
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映画監督というか、脚本家、または大女優高峰秀子の夫にして夫婦旅行記の登場人物である松山善三(1926~2016.8.27、91歳)が亡くなった。この人は監督もしたけれど、やはり脚本家、それも「人間の条件」のような骨太な構成が一番だろう。同時に「抒情派」と「社会派」の面を持ち続け、自分で「名もなく貧しく美しく」(1961)のような、ろうあ者夫婦の手話による映画という日本映画史に残る映画を生み出した。でも、題名に示されるような「善意」がメンドーな気がして、時々高峰特集でやってるけど再見していない。他の監督作品と言っても、あまり思い出さないけど全部で15本も監督している。
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中では、ポリオワクチン輸入をめぐる問題を扱った「われ一粒の麦なれど」(1964)が、映画の出来を超える迫力を持っていたと思う。ドキュメント「典子は、今」(1981)は当時よく見られたが、記憶されるべき映画。だけど、僕はそういう「善意の社会派」に入らない「六條ゆきやま紬」(1965)も良かったように思う。松山善三を「高峰秀子のエッセイの登場人物」などというのは失礼かもしれないが、高峰秀子の著作は最近も再刊されていて、案外それを読んだ人の中に名前が残るかもしれない。
プロ野球「西鉄ライオンズ」黄金時代の中心選手だった豊田泰光(とよだ・やすみつ、8.14没、81歳)が亡くなった。中西太、大下弘らと並び「野武士軍団」と呼ばれ、56年から日本シリーズ3連覇の中心となった。ということは、もちろん僕は同時代的には知らない。大体もう、西鉄なんて言っても覚えている人も少ないだろう。でも、60年代、70年代にも、この人の名前は有名だった。野球解説者として、よくラジオに出ていて、的確かつ辛辣でもある解説をしていたと思う。新人王を取り、ベストナインに6回選ばれたが、タイトルは首位打者1回だけ。その結果、選手としては殿堂入りできなかったが、野球評論家としての活動が評価され、2006年に野球殿堂入りしている。
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前大分県知事で、「一村一品運動」で世界的に知られた平松守彦。8.21没、92歳。79年から03年まで、6期24年知事を務めた。その間、全市町村で特産品をつくる運動を考案し、当時の「地方の時代」の代表格とされた。フィリピンのマグサイサイ賞を受けている。
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作家の真継伸彦(まつぎ・のぶひこ、8.22没、84歳)は、「鮫」「無明」「光る声」などで、政治と宗教を日本史の中で大胆に作品化した。今はほとんど読まれていないと思うけど、「鮫」は東映で田坂具隆監督、中村錦之助主演で映画化もされた。文芸評論家、川西政明(8.26没、75歳)は、河出で高橋和巳を担当し、その後退社して多くの評伝を書いた。伊藤整が未完に終わった文壇史を引き継ぎ、「新・日本文壇史」として完結させた人でもある。フランス文学者にして、ファッション等を自在に論じた、山田登世子(8.8没、70歳)は、何かで話を聞いたことがあるが、特別の存在感を持つ人だった。
日本画家で文化勲章受章、松尾敏雄(8.4没、90歳)、文楽人形遣いの吉田文雀(8.20没、88歳)、いまや「武豊の父」と書かれてしまう名騎手、武邦彦(8.12没、77歳)は通算1163勝を挙げている。元国土庁事務次官の下河辺淳(しもこうべ・あつし、8.13没、92歳)は、「新産業都市」指定からの日本の開発行政の中心にいた人物である。まあ、ある意味現代日本に、大きな責任があるが、最高位は二流官庁の事務次官だったのか。それにしては知名度があったけど。
アメリカの俳優、映画監督のジーン・ワイルダーが死去。8.28没、83歳。70年代の「ヤング・フランケンシュタイン」や「ブレージング・サドル」なんかの、ハチャメチャなコメディが面白かった。顔を見れば思い出す人もあるだろう。
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映画監督のアーサー・ヒラー(8.17没、92歳)は、あの「ある愛の詩」の監督をした人である。「詩」を「うた」と読ませる作品名も、ここからだろう。現代は「Love Story」というシンプルな大ベストセラー小説で、映画音楽もあいまって確かに泣けた泣けた。難病ものだから、今見るとどうなんだろう。そればっかり記憶にあるけど、「大陸横断超特急」や「ラ・マンチャの男」もこの人なんだったと今回初めて知った(というか、当時は知っていたはずだが。)
FIFAぼ元会長で、日韓ワールドカップ決定時の会長だったジョアン・アベランジェも訃報があった。ブラジルの人で、100歳である。8.16没。それより、中国の歩平が亡くなった。社会科学院近代史研究所前所長である。名前は「プー・ピン」と読む。8.14没、68歳。ハルビンの人で、東北地方の日本侵略の後を研究した。毒ガスなど、今も残る被害に目を向け研究した。その結果、日本側とも交流が生まれ、単なる地方研究者に留まらず、中央レベルで活動するようになった。小泉内閣時の「日中歴史共同研究」の中国側座長だった。日本側は北岡伸一である。産経に追悼文が載り、それによると北岡氏は葬儀に参列したらしい。僕も「731部隊展」の時に話を聞いたと思うが、判りやすくて公正な人だったと思う。忘れてはいけない人であり、もっと長命して欲しかった人。
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チャスラフスカは68年のメキシコ五輪でも、2連覇を果たした。だけど、そこへ至る道は険しいものだった。当時、ソ連圏だった「チェコスロバキア」の選手だったチャスラフスカは、68年に起こった「プラハの春」と呼ばれる自由化運動にコミットした。ところが五輪直前の8月になって、ソ連を中心とするワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻するという大事件が起きたのである。そして彼女は、その後の苦難の時代を一貫して権力に屈せず生き抜いた。89年の「東欧革命」で復権するも、その後も私的な悲劇に見舞われる。そのような話は、2011年10月に「ベラ・チャスラフスカの勇気ある人生」に書いたので、ここではこれ以上書かないことにする。2011年秋に、元気を取り戻した彼女は、東日本大震災の被災者支援のために来日した。最後まで立派な人だったと思う。
ジャーナリストのむのたけじがなくなった。ひらがなで表記し、それも名字と名前の間に何もいれなかったけど、感じで表記すると「武野武治」になる。1915.1.2~2016.8.21。なんと101歳の長命だった。戦前は朝日新聞記者として活躍したらしいが、敗戦を機に「戦意高揚報道」に責任を感じて退社した。その後、郷里の秋田県横手市に帰って、週刊新聞「たいまつ」を発刊して、一貫して反戦を訴え続けた。「たいまつ」は1978年に休刊したが、その頃には「たいまつ社」という出版社を作り、「たいまつ新書」という新書を刊行していた。僕は当時ずいぶん読んだもので、ずいぶん影響を受けた。その後もずっと元気で、90代のジャーナリストとして反戦・護憲を訴えた。案外、近年が一番社会的知名度があったのかもしれない。人には寿命があるのだから、やむを得ないところだろう。
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映画監督というか、脚本家、または大女優高峰秀子の夫にして夫婦旅行記の登場人物である松山善三(1926~2016.8.27、91歳)が亡くなった。この人は監督もしたけれど、やはり脚本家、それも「人間の条件」のような骨太な構成が一番だろう。同時に「抒情派」と「社会派」の面を持ち続け、自分で「名もなく貧しく美しく」(1961)のような、ろうあ者夫婦の手話による映画という日本映画史に残る映画を生み出した。でも、題名に示されるような「善意」がメンドーな気がして、時々高峰特集でやってるけど再見していない。他の監督作品と言っても、あまり思い出さないけど全部で15本も監督している。
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中では、ポリオワクチン輸入をめぐる問題を扱った「われ一粒の麦なれど」(1964)が、映画の出来を超える迫力を持っていたと思う。ドキュメント「典子は、今」(1981)は当時よく見られたが、記憶されるべき映画。だけど、僕はそういう「善意の社会派」に入らない「六條ゆきやま紬」(1965)も良かったように思う。松山善三を「高峰秀子のエッセイの登場人物」などというのは失礼かもしれないが、高峰秀子の著作は最近も再刊されていて、案外それを読んだ人の中に名前が残るかもしれない。
プロ野球「西鉄ライオンズ」黄金時代の中心選手だった豊田泰光(とよだ・やすみつ、8.14没、81歳)が亡くなった。中西太、大下弘らと並び「野武士軍団」と呼ばれ、56年から日本シリーズ3連覇の中心となった。ということは、もちろん僕は同時代的には知らない。大体もう、西鉄なんて言っても覚えている人も少ないだろう。でも、60年代、70年代にも、この人の名前は有名だった。野球解説者として、よくラジオに出ていて、的確かつ辛辣でもある解説をしていたと思う。新人王を取り、ベストナインに6回選ばれたが、タイトルは首位打者1回だけ。その結果、選手としては殿堂入りできなかったが、野球評論家としての活動が評価され、2006年に野球殿堂入りしている。
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前大分県知事で、「一村一品運動」で世界的に知られた平松守彦。8.21没、92歳。79年から03年まで、6期24年知事を務めた。その間、全市町村で特産品をつくる運動を考案し、当時の「地方の時代」の代表格とされた。フィリピンのマグサイサイ賞を受けている。
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作家の真継伸彦(まつぎ・のぶひこ、8.22没、84歳)は、「鮫」「無明」「光る声」などで、政治と宗教を日本史の中で大胆に作品化した。今はほとんど読まれていないと思うけど、「鮫」は東映で田坂具隆監督、中村錦之助主演で映画化もされた。文芸評論家、川西政明(8.26没、75歳)は、河出で高橋和巳を担当し、その後退社して多くの評伝を書いた。伊藤整が未完に終わった文壇史を引き継ぎ、「新・日本文壇史」として完結させた人でもある。フランス文学者にして、ファッション等を自在に論じた、山田登世子(8.8没、70歳)は、何かで話を聞いたことがあるが、特別の存在感を持つ人だった。
日本画家で文化勲章受章、松尾敏雄(8.4没、90歳)、文楽人形遣いの吉田文雀(8.20没、88歳)、いまや「武豊の父」と書かれてしまう名騎手、武邦彦(8.12没、77歳)は通算1163勝を挙げている。元国土庁事務次官の下河辺淳(しもこうべ・あつし、8.13没、92歳)は、「新産業都市」指定からの日本の開発行政の中心にいた人物である。まあ、ある意味現代日本に、大きな責任があるが、最高位は二流官庁の事務次官だったのか。それにしては知名度があったけど。
アメリカの俳優、映画監督のジーン・ワイルダーが死去。8.28没、83歳。70年代の「ヤング・フランケンシュタイン」や「ブレージング・サドル」なんかの、ハチャメチャなコメディが面白かった。顔を見れば思い出す人もあるだろう。
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映画監督のアーサー・ヒラー(8.17没、92歳)は、あの「ある愛の詩」の監督をした人である。「詩」を「うた」と読ませる作品名も、ここからだろう。現代は「Love Story」というシンプルな大ベストセラー小説で、映画音楽もあいまって確かに泣けた泣けた。難病ものだから、今見るとどうなんだろう。そればっかり記憶にあるけど、「大陸横断超特急」や「ラ・マンチャの男」もこの人なんだったと今回初めて知った(というか、当時は知っていたはずだが。)
FIFAぼ元会長で、日韓ワールドカップ決定時の会長だったジョアン・アベランジェも訃報があった。ブラジルの人で、100歳である。8.16没。それより、中国の歩平が亡くなった。社会科学院近代史研究所前所長である。名前は「プー・ピン」と読む。8.14没、68歳。ハルビンの人で、東北地方の日本侵略の後を研究した。毒ガスなど、今も残る被害に目を向け研究した。その結果、日本側とも交流が生まれ、単なる地方研究者に留まらず、中央レベルで活動するようになった。小泉内閣時の「日中歴史共同研究」の中国側座長だった。日本側は北岡伸一である。産経に追悼文が載り、それによると北岡氏は葬儀に参列したらしい。僕も「731部隊展」の時に話を聞いたと思うが、判りやすくて公正な人だったと思う。忘れてはいけない人であり、もっと長命して欲しかった人。
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