尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

蓮舫氏は「生まれながらの日本人」である-政治家と国籍②

2016年09月24日 23時17分49秒 | 政治
 民進党新代表の蓮舫氏は、周知のように、実際の「事実」としては、「台湾籍」を保持していたということである。今回、「台湾籍」を離脱する手続きを行い、完了したということだ。そのような「事実」は認識しているけれど、蓮舫氏は「生まれながらの日本人」だと解釈するべきだというのが、僕の考えである。どうしてそう考えるのかを、以下で説明したい。

 「事実」は事実なのであって、変えられないと言われるかもしれない。だが、「事実」というのものは、ただ単なる「出来事」に過ぎない。それをどのような「文脈」(コンテクスト)で位置づけるか、その「評価」が一番大事なのである。それは「歴史学」ということになるが、何も大昔のことばかりではなく、自分の周りで日々起きていることも「歴史」なのであって、歴史学的な「史料批判」は重要だ。

 例を挙げておくと、例えば「学校の定期テストで、50点だった」という生徒がいるとする。平均点は60点だったとする。この生徒は「テストの半分しか正解できず、平均点にも10点及ばなかった」ということが、「冷厳なる事実」である。だけど、そういう時に「事実」だけを取り上げることは意味がない。なぜならば、人間はただ現在だけを生きている人はいなくて、「過去」と「未来」の中間点に「現在」があるからである。もともと学力レベルが低い生徒が、前回の中間テストで40点を取り、今回期末テストで50点を取った。そういう場合は、「50点」は「よく頑張った」の指標である。

 もちろんその逆もあり、今回はさぼったという場合もある。数学や物理などの場合、中身が本格的に難しくなって付いていけないということもある。50点なら、(高校だったら)単位は取れるだろうから、それでいいということもある。数学なんかだと、計算問題のケアレスミスなんかもあるから、生徒によっては「きちんと見直しをして、注意深くなること」が課題だという場合もある。同じく「50点を取った」という「事実」が共通していても、人さまざまの事情や経緯があるから、意味が違ってくるのである。

 もう一つの例を挙げる。僕がたびたび取り上げている「ハンセン病」の場合である。かつて「らい予防法」という法律があり、ハンセン病患者は全員の「隔離」が定められていた。1996年に「らい予防法」は廃止され、2001年のハンセン病国賠訴訟判決(熊本地裁)で、隔離政策は厳しく断罪された。特効薬が開発され、世界的に「隔離政策」が見直されたけれど、日本では長く政策の見直しが行われなかった。そのことに対して、熊本地裁判決は、遅くとも1960年には「違憲」だったとし、さらに見直しを進めなかった国会の「立法不作為」をも認めたのである。つまり、国会は法律を作るところだけど、それだけでなく「法律を作らなかった(見直さなかった)こと」も違法だったと認めたのである。

 この判決では、隔離政策そのものが憲法違反だったとまでは言っていない。だけど、病気そのものは昔と同じである。感染力は昔から弱かった。しかし法律廃止が遅れている間に、療養所入所者は高齢になり社会復帰も難しくなった。今もハンセン病療養所で暮らす人が多数いる中で、「法律ができた当時は隔離は正しかった」などと言うことはできない。そのように考えてはいけないのである。それはさらなる人権侵害だ。隔離政策の過ちを正視すれば、「当時は法律があったんだ」とか「国民の中には偏見もあって、やむを得ない部分もあった」などと隔離政策を正当化してはいけない。

 さて、やっと蓮舫氏の事例検討である。蓮舫氏は1967年に東京で生まれた。その国で生まれた人間に国籍を与える「出生地主義」の国なら、この時点で日本国籍となる。しかし、日本は「血統主義」を取り、親が日本国民の場合に子どもに日本国籍を与える。蓮舫氏の父親は「台湾人」で、日本人の母親(ミス・シセイドウだったそうである)との間に生まれた。1967年の時点で、日本の国籍法は「父親が日本人の子どもに日本国籍を与える」としていた。母親が日本人の場合は、日本国籍を得られなかったのである。二重国籍になるのではない。父親の方の国籍しか得られなかったのである。

 おかしいでしょ、これは。もちろん、今は改正されているわけだ。それは1985年のこと。日本は当時「女性差別撤廃条約」(政府は「女子差別撤廃条約」としているが、「Women」の訳語は「女性」だろう)を批准しようとしていた。その結果、国内法の整備が必要となり、男女雇用機会均等法の制定、高校での家庭科男女共修などが実施された。そして、国籍法も改正され、「父系主義」から「父母両系主義」となったのである。蓮舫氏はこのときに、日本国籍を取得した。その時点で「台湾籍」(中華民国籍)を離脱したと思い込んでいたとのことだが、実際には残されていたという。

 しかし、だからと言って、蓮舫氏を「二重国籍者」だというのは間違っていると思う。日本国憲法第14条は、「法の下の平等」を次のように規定している。「1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」性別によって差別されないと明記されているではないか。憲法にこう書いてありながら、どうして国籍法は「父系主義」だったのか。当時は「そういうもんだ」と思われていたかもしれないが、「今の目で見れば」明らかに違憲ではないか。

 だから国会は、もっと早く、条約批准などを待つまでもなく、父母両系主義に国籍法を改正するべきだった。いつとは言えないが、蓮舫氏が生まれた1967年には改正されていて当然だった。それを怠った国会は「立法不作為」である。もちろん、蓮舫氏個人が「父親の国籍を選ぶ」と言うのなら、それは自由である。だけど、そういう選択権を与えられたわけではなく、蓮舫氏は父の国籍となってしまった。母親が日本人であり、日本で生まれ、日本でずっと学んでいた。(幼稚園から大学まで青山学院だとウィキペディアに出ている。それもどうなんだと思うけど。)それなのに、日本国の「差別政策」により、日本国籍は(出生時に)与えられなかった。

 子どもの時は自分で判断できないけど、両親はずっと日本社会で生きていく心づもりだったのではないかと思う。だから、1967年当時に父母両系主義だったら、蓮舫氏は生まれながらに日本国籍だった可能性が高いと思う。そうじゃなかったのは、日本国の政策の過ちのせいであり、蓮舫氏の責任ではない。このように、「差別政策の被害者」に向かって、「事実は事実」だなどと「二重国籍」をあげつらうのは、卑劣な行為だと僕は思う。母親が日本人であり、生まれたのも日本である人間は、誰であれ「生まれた時からの日本人」だと考えるのが、今の時点の常識ではないか。それなのに、国会議員でありながら、この問題を取り上げる人がいる。国会議員なら「立法不作為」を蓮舫氏(だけでなく、多くの同様なケースの人々に)謝罪する方が先だろう。違いますか?
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アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか-政治家と国籍①

2016年09月24日 00時08分40秒 | 政治
 民進党代表選に、蓮舫参議院議員が出馬して当選した。そのこと自体にはたいして関心もないのだが、(政治ニュース一般に寄せる関心以上の熱い関心はないという意味)、選挙戦中に一部の勢力から、蓮舫議員の「二重国籍問題」が指摘された。この問題をどう考えるべきか。ひとり蓮舫氏の問題にとどまらず、案外深く広い問題を秘めていると思う。だから何回かに渡って考えてみたい。

 僕がこのニュースを聞いたときに、すぐに思い出したのはアルベルト・フジモリのケースだった。言うまでもなく、元ペルー共和国大統領である。「アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか?」ペルーの大統領選挙の話ではない。ペルー大統領選の立候補資格も、問題を指摘する人がいるようだけど、今はその話ではない。フジモリ氏が日本の選挙に立候補したのである。「あなたはそれを覚えていますか?」と僕は言いたいんだけど、どうしてそのケースの話が出てこないのだろうか。まあ、関係者もみな忘れたいのかもしれないが。

 日本政府の解釈によれば、アルベルト・フジモリは日本国籍を有していた。だけど、ペルー大統領を務めていたんだから、もちろんペルー国籍もあるわけだ。堂々たる「二重国籍」である。でも立候補できたのである。まあ、当選はしなかったけど。でも、立候補できるなら当選してもいいんだろう。当選してから資格を取り消すことはできないだろう。だから、日本政府の公式見解は、「国政に携わるものが二重国籍であってもかまわない」ということだとしか思えない。

 もっと具体的に言うと、アルベルト・フジモリは、2007年参議院選挙で「国民新党」の比例区名簿に掲載されていたのである。国民新党というのは、2005年に郵政民営化法案に反対した人々が作った党である。郵政民営化法案が参議院で否決されたとき、当時の小泉首相は衆議院を解散した。その「郵政解散」で、反対派は自民党公認を外された。そこで亀井静香、綿貫民輔らが国民新党を選挙前に結成したわけである。その後、2009年の民主党「政権交代」に参加して、連立内閣に加わった。でも、2007年参院選時点(第一次安倍政権)では、野党である。

 参院選比例区は「非拘束名簿式比例代表制」である。国民新党は党名票と個人票で約127万票を得て、1議席を獲得した。当選は117,590票で個人得票1位の自見庄三郎、ついで青山丘、津島恭一ときて、アルベルト・フジモリは4位。51,612票だった。なお、このときには同党候補には10位で落選した、ペマ・ギャルボという人もいた。チベット生まれで、1959年にダライ・ラマらとともにインドに亡命した。その後日本人の支援で訪日して、日本で活動してきた。2005年に日本国籍を取得した。この人の場合「二重国籍」ではないだろうが、外国出身者を擁立したことになる。

 実はこのとき、フジモリ候補は日本にいなかった。南米のチリで身柄拘束後に保釈されていた。もう細かい経緯を忘れている人が多いと思う。(自分もそう)。ちょっとウィキペディアを見て思い出してみることにする。アルベルト・フジモリは、国立農科大学総長だったが、1990年の大統領選に新党を作って立候補した。小勢力だったが、決選投票でバルガス=リョサ(世界的な作家で、のちにノーベル文学賞受賞)を破って当選した。新自由主義的な経済政策と強硬なゲリラ対策を進め、成果も挙げた。しかし強権的手法に反発もあり、1992年に議会を解散して憲法を停止、強大な権力を手にした。1995年に再選、2000年にも3選された。しかし、独裁政権下で秘密警察が強大になり、腐敗も多くなった。

 2000年の大統領選は強硬に乗り切ったが、側近が野党議員に現金を渡す映像が公開され、反フジモリ派の攻勢が激しくなった。11月にブルネイで開かれるAPEC首脳会議出席のため、出国して11月16日に日本に入国。翌17日、突然ペルー政府にあてて、大統領辞任の申し出をファックスで送りつけた。(ペルー政府は辞任を受け付けず、罷免にしている。)日本政府は、フジモリは日本国籍を有しているとして、そのまま日本滞在を続けることを認めた。日本は「政治亡命」を認めていないはずだが(それも問題だけど)、フジモリのケースは「事実上の亡命」を認めたものと言える。

 この間、ペルー司法当局は「左翼ゲリラによる日本大使公邸襲撃事件の際、ゲリラ殺害を指示した殺人罪」で起訴し、日本に身柄引き渡しを求めた。その他、権力乱用など多くの容疑があったが、日本政府は一貫して引き渡しを拒絶した。その後、2006年の大統領選に立候補したいと考え、2005年に突然日本を離れてチリに向かった。ところが、チリでペルーの要請により身柄を拘束されたわけである。その間に、2007年の参院選出馬があったわけだが、このような理由で日本での選挙運動は全くできなかった。だから覚えてない人が多いと思う。2007年9月になって、チリ最高裁がペルーへの引き渡しを認め、以後ペルー当局に拘束されている。裁判の細かい経緯は省略するが、2010年に禁錮25年が確定している。本人は無罪を主張している。

 フジモリの裁判をどう考えるかは、ここでは扱わない。独裁者への裁きでもあれば、政治的弾圧という要素もあるだろう。そのことはペルーの問題として、では日本政府はどうして「独裁者フジモリ」を一貫して擁護したのか。よく判らないけど、その経済政策や左翼テロへの強硬策が、日本の保守派に高く評価されていたことが背景にある。フジモリ政権下で、日本の経済援助も増え、日本の経済進出も多くなった。「日系人」が大統領に上り詰めたことが、保守派にとって「国威発揚」のように感じられたこともあると思う。ウィキペディアに「日本で親交のある人物」として、曽野綾子、石原慎太郎、徳田虎雄らの名があがっている。そういう人たちの「お友達」なのである。

 何でも右派系マスコミの中には、蓮舫氏を批判する声が強かったようだ。しかし、フジモリの場合、完全なる二重国籍であるにもかかわらず、当時の保守派は一貫してフジモリ擁護を主張していたのである。いつもなら外国人政治犯の亡命を認めない人が、フジモリは日本人だから守れと言う。中には、ペルーのような国に引き渡せば殺して闇に葬るに決まっている、日本人の命を守れなどと言っている人がいた(僕はよく覚えている)。ペルーでは1979年以来死刑は執行されず、テロ行為への死刑は法文上残っているものの、「事実上の死刑廃止国」とされていることなど、多分知らなかったのだろう。

 ところで、肝心のアルベルト・フジモリの出生だけど、両親は熊本の出身である。1934年にペルーへ移住した。アルベルトが生まれたのは、1938年。だから、出生によりペルー国民とされる。だけど、両親は日本公使館に出生届を提出し、国籍保持を申し出たという。その結果、日本国籍を保有することになった。と言うんだけど、実は日本生まれだという説もあるらしい。まあ、それはともかく、これはちょっと無理筋ではないだろうか。日本人の両親から生まれた「日系ペルー人」であるとしても、一度も日本で生活していない。それで「日本人」と言えるだろうか。そして、ペルー大統領選に立候補。法的にはともかく、その時点で事実上「日本国籍を放棄した」というべきだろう。だけど、日本政府は前例に反してまで、フジモリを擁護し続けた。そこまで「日本人の血筋」は尊いということだろうか。

 かくして、日本では「二重国籍でも、国政選挙に立候補できる」という前例が作られた。蓮舫氏の場合には、それは認められないとするなら、二重基準と言うほかない。そう思うんだけど、それはともかく、二重国籍でもホントにいいのかという問題はある。そして、なぜ「二重国籍ではダメ」という人がいるのかと言う問題もある。そして、蓮舫が二重国籍だというなら、どことどこの国の国籍なのかという大問題も存在する。それらを順々に考えていきたい。
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