尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ゆとりなき「ゆとり教育」-「ゆとり教育」論②

2016年09月08日 22時59分27秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」というと、学校現場に「ゆとり」が増えたように思う人がいるが、もちろん違う。「ゆとり教育」によって、むしろ「ゆとり」がなくなったと言ってもいい。それは何故か。そのことを現場の状況とともに、そもそも「ゆとり教育の本質」を考える中で追及してみたい。

 そもそも「ゆとり」とは何か。検索してみると、「物事に余裕があって窮屈でないこと」などと出ている。これではなんだか判らないだろう。「ゆとり」という言葉は、普通に使われているが、多くは「ゆとりがない」と否定形で使うと思う。経済的、あるいは時間的に、「自分が自由にできない」時に使われる。お金で言えば、食費や光熱費、家賃(銀行ローン)などは、毎月必ず必要になってくる。今はパソコンやスマホなどの代金も大変だ。残りの部分を趣味・交際費などに使うわけだが、月初めに高い服を買うとか、つい高い店で飲食したりすると、その月の後半は「ゆとりがない」ということになる。自分で自由に使えるお金が不足しているという意味である。

 そこで「ゆとり教育」の場合を考えてみると、「授業時間が減った」「授業内容が減った」ということがあるとする。じゃあ、毎日午前中だけ勉強して、小中では給食を食べたら帰っていい。「生徒は午後の時間を好きに使っていい」となった。これなら確かに、生徒にとって「ゆとりができた」ことになるだろう。だけど、もちろんそんな事実はない。教科の授業時間が減ったとしても、その削減分で他のことをさせられるわけである。例えば「総合的な学習」を。つまり「学校に拘束される時間」は変わりがない。(むしろ増えるかもしれない。)生徒の「負担感」は変わらないわけである。

 生徒は勉強する立場だから、まあ時間拘束はやむを得ないとしても、指導する立場の教員にとってはどうだろうか。教師の場合は本来の勤務時間は定められているから、授業時間が変わっても仕事の時間そのものは変わらない。だけど、教科以外で担当するものが増えるほど、教員の時間的、精神的ゆとり感が減っていくと思われる。自分の担当する教科の授業に関しては、大学で専門的に学んでいるし、長年やってる教員ならば積み重ねた経験がある。だから、教科の授業時間が増えるというなら、その場合は対応しやすい。一方、授業時間を減らして、「他のこと」(行事など)をやるとなると、そのための会議(教員全体の共通理解)に時間が取られ、負担が大きい。

 行事ならまだしもイメージがわくが、「総合的な学習の時間」になると、何をやったらいいかから始まって、多くの会議を行わないといけない。まあ、もう大方の学校では「型」は決められていると思うが、そこまでは大変な苦労があったはずである。今でも校内や学年内での役割分担、評価の付け方などで、毎週の負担は大きいはずである。「総合学習」は「教科」ではないことになっているが、時間割に入れるんだから、事実上「教科」と同じである。全教員の担当教科が一つ増えたということだから、本来なら教員定数の増員がないとやっていけない

 だけど、もちろんそんなことは起こらない。もう現場でも、抵抗する力もないし、ひたすら会議、会議の連続に耐えてきたわけだろう。「総合学習」だの、「小学校の英語」だの、「道徳」だの、うまく行ってる学校は「研究授業」などを公開して、「成功」をアピールしているだろう。管理職や管理職を目指す人には、「実績」が必要である。「うまく行ってる」例ばかりが、文科省や教委にたまっているかもしれない。でも、当然のことながら、うまく行ってるところばかりじゃないはずだ。僕が非常に心配するのは、ここまで現場が疲弊しているのに、小中で「道徳の教科化」が強行されることである。前に書いておいたが、道徳のためだけに、どれだけの会議が必要になるだろうか。

 このように、「ゆとり教育」などと言っても、現場には「ゆとりはなかった」のである。当たり前だ。教員が自分で判ってる教科を削って、何か新しいことを始める。その「新しいこと」がこれからの日本社会にとって、真に必要なものだとしても、「導入に必要なエネルギー」はぼう大なものになる。「ゆとり教育」になったから、現場がうまく対応して、「生きる力」を育てられるなどと、そう都合よく展開するわけがない。本気でやるなら、「人的支援」がもっと必要だったのである。

 さて、以上のような現場的観点もあるわけだが、「ゆとり教育」をめぐる問題はもっと大きな射程で考えるべきだろう。1973年のオイルショックを契機にして、日本は高度成長時代が終わった。日本は「経済大国」となったけれども、生活レベルは欧米に及ばず、「日本人は働き過ぎ」と国際的に批判されるようになった。同時に、日本の近隣アジア諸国でも、70年代半ばには経済成長が始まり、日本企業は人経費が安いアジア各国に工場を移すようになっていった。そういう中で、日本の教育に関しても、新しい見方が登場したわけである。

 つまり、それまでの「知識注入型教育」は、大量生産を中心とする「労働集約型産業」には向いていた。だけど、低成長時代にはそれでは対応できないというわけである。そこでは「自分で考える力」がもっと必要になる。言うならば、若い世代の人材育成においても、「大量生産」ではなく「多品種少量生産」が求められる時代になったということである。それまでの「マジメに先生の言う通り勉強する生徒」ではダメだということである。「ゆとり教育」というのは、つまりは日本の資本主義のあり方が大きく変容したということを背景にしたものだったわけである。

 そういう文脈で、「知識・技能」の評価だけではなく、「意欲・関心」を評価する「新学力観」が出てきたと理解できる。だからこそ、「ゆとり教育」が導入された80年代以後、高校でも大学でも「推薦入学」(名前は様々だが、入学試験以前に試験なしで合格できる制度)は広がっていく。都立高校でも、職業科から始まり、やがて「普通科高校」にも推薦制度が導入された。そして、「部活推薦」という不思議なものまで作られている。「普通科」というのは、名前の通り「普通教科」を勉強して大学へつながるものだから、試験なしで合格できてしまうというのはおかしいと思うのだが。

 このような制度は、生徒にとっていいものなのだろうか。当初は「一発入試」で合否が決まり、それが人生をも左右する、そんな入試制度はおかしいと思われていた。だから、意欲が高い生徒を優先する推薦入学制度は、「やる気がある生徒」には有利だし、チャンスを広げるものだと思われていた。僕も中学教員だったときには、職業科の推薦制度は「使い甲斐のある制度」だと思っていた。落ちてもまた一般入試を受ければいいわけだし、特徴的な学科を志望する生徒にはありがたい。

 だけど、ここまで広がるとどうなんだろうか。大体、大学の入試制度が複雑すぎて、秋の高校は忙しくてかなわない。大学の推薦入試と、学校行事(文化祭)や部活の大会が必ず重なる生徒が出てくる。大学進学も就職希望もいるような高校だと、夏から冬にかけて、就職や大学進学者の指導が連続し、終わったと思うと今度は自分の高校の推薦、一般入試と休む時がない。その間に文化祭や部活大会があり、もちろん授業と定期テストもあるわけである。学校の教師の忙しさというのは、昔に比べて倍増、三倍増になっていると思うが、一つの大きな理由に「推薦入試」があるのは間違いない。

 ところで、その過剰なまでの忙しさは、同じく生徒にも重圧となっている。「意欲・関心」を重視する以上、推薦入試を使いたいと思う生徒は、行事、部活動、生徒会活動などにも積極的な参加が望まれる。絶対条件かというと、そうではないだろうが、アピール点としては重要である。それどころか、さらにボランティア体験ぐらいないと、面接で言うことがなくなる。もちろん、根本に「授業に対する意欲・関心」がなくてはならないから、単にテストが良ければいいじゃないかと言ってはいられない。授業でも意欲をアピールしなくてはいけない。このように、常に自分を意識しアピールし続けないといけない、そんな「ゆとりなき学校」。それが実は「ゆとり教育」というものなのである。
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