ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督(1926~2016)は、昨年10月に90歳で亡くなった。そのワイダ監督の遺作「残像」が現在公開されている。(東京では岩波ホール。)見たのはちょうど都議選の日で、少し時間が経ったけど簡単に紹介。昨日も2本書いた後で不調に戻ったパソコンが今日は好調なので、今のうちに書いてしまおう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/41/56/e50ec88219e4c262df8ee1fa732325b8_s.jpg)
かつて100歳近い新藤兼人監督が最後の作品「一枚のハガキ」を作ったとき、その格調の高さ、重位の深さに感動したものだが、そういう例は映画史上には少ないだろう。小津安二郎のように60歳で亡くなった人はともかく、ある程度長生きした監督に関しては、黒澤明「まあだだよ」、フェリーニ「ボイス・オブ・ムーン」などのように、まあそれなりに面白いところもあるけど…と声低く語るしかない作品の方が多いのではないか。じゃあ、ワイダ監督の「残像」はどうだっただろうか。
そういう意味では、新藤兼人ほど「最後にどうしても作りたいんだ」感が全面を覆うほどではないだろうと思う。でも、若い世代にポーランドの「社会主義時代」(という名前の事実上のソ連支配時代)を伝えておきたいんだという思いは十分に伝わる。ていねいに作られた作品だが、画家を主人公にするという意味で、芸術と社会、芸術と政治というものを深く考えさせる映画になっている。
というと、今の日本ではちょっと敬遠されるかもしれないテーマだろう。でも、「なんだかだんだんものが言いにくくなる」、皆が「誰に付くべきか」(つまり「党に逆らってはいけない」)というムードを暗黙のうちに察知して「忖度」するようすは、現代の日本にとっても意味があると思う。ただ、ポーランドでは「一党支配」の独裁だから、画家の協会を除名されると仕事ができない。日本ではそういうことはない。「言論の自由」はあるけれど、テレビ局や大きな新聞社、出版社からの仕事は来なくなる。
主人公はヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893―1952)という画家で、見てるときは判らなかったけど実在した人である。ポーランドの前衛芸術家として非常に知られた人だったらしい。中部の大都市ウッチ(ウージ)に美術館を開き、また造形大学を設立し自分でも教壇に立った。この映画でも多くの学生に慕われている様子が印象深く描かれている。だけど、政府は「社会主義リアリズム」以外の芸術は認めず、彼は公然と批判したことからだんだん地位が奪われていく。
「残像」というのは、直接には彼がまとめようとしている絵画理論の概念なんだけど、このような人がかつていたという意味でもあるんだろう。彼は妻とは離婚していて、間には女の子がいる。この離婚はあまり説明されてないけど、宗教問題らしい。夫がカトリック、妻が正教という違いがあったらしい。娘のニカが苦労する様子は痛ましい。彼を慕い、「視覚理論」をまとめようとする女子学生ハンナも印象的。50年代の寒々しい「ソ連時代」を撮影などで再現していて見ごたえがある。
ワイダ監督は、この映画を作る意味をこのように語っている。
「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。どのような答えを出すべきか、私たちは既に知っている。そのことを忘れてはならないのです。」
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かつて100歳近い新藤兼人監督が最後の作品「一枚のハガキ」を作ったとき、その格調の高さ、重位の深さに感動したものだが、そういう例は映画史上には少ないだろう。小津安二郎のように60歳で亡くなった人はともかく、ある程度長生きした監督に関しては、黒澤明「まあだだよ」、フェリーニ「ボイス・オブ・ムーン」などのように、まあそれなりに面白いところもあるけど…と声低く語るしかない作品の方が多いのではないか。じゃあ、ワイダ監督の「残像」はどうだっただろうか。
そういう意味では、新藤兼人ほど「最後にどうしても作りたいんだ」感が全面を覆うほどではないだろうと思う。でも、若い世代にポーランドの「社会主義時代」(という名前の事実上のソ連支配時代)を伝えておきたいんだという思いは十分に伝わる。ていねいに作られた作品だが、画家を主人公にするという意味で、芸術と社会、芸術と政治というものを深く考えさせる映画になっている。
というと、今の日本ではちょっと敬遠されるかもしれないテーマだろう。でも、「なんだかだんだんものが言いにくくなる」、皆が「誰に付くべきか」(つまり「党に逆らってはいけない」)というムードを暗黙のうちに察知して「忖度」するようすは、現代の日本にとっても意味があると思う。ただ、ポーランドでは「一党支配」の独裁だから、画家の協会を除名されると仕事ができない。日本ではそういうことはない。「言論の自由」はあるけれど、テレビ局や大きな新聞社、出版社からの仕事は来なくなる。
主人公はヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893―1952)という画家で、見てるときは判らなかったけど実在した人である。ポーランドの前衛芸術家として非常に知られた人だったらしい。中部の大都市ウッチ(ウージ)に美術館を開き、また造形大学を設立し自分でも教壇に立った。この映画でも多くの学生に慕われている様子が印象深く描かれている。だけど、政府は「社会主義リアリズム」以外の芸術は認めず、彼は公然と批判したことからだんだん地位が奪われていく。
「残像」というのは、直接には彼がまとめようとしている絵画理論の概念なんだけど、このような人がかつていたという意味でもあるんだろう。彼は妻とは離婚していて、間には女の子がいる。この離婚はあまり説明されてないけど、宗教問題らしい。夫がカトリック、妻が正教という違いがあったらしい。娘のニカが苦労する様子は痛ましい。彼を慕い、「視覚理論」をまとめようとする女子学生ハンナも印象的。50年代の寒々しい「ソ連時代」を撮影などで再現していて見ごたえがある。
ワイダ監督は、この映画を作る意味をこのように語っている。
「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。どのような答えを出すべきか、私たちは既に知っている。そのことを忘れてはならないのです。」