7月7日に神保町シアターで「流れる」(成瀬己喜男監督、1956年)を見た。神保町シアターが開館10周年を迎え、今までで一番観客が多かった映画として一日だけ特別に上映したのである。すでに2回か3回は見てるんだけど、最後に見てから10年ぐらい経つし、実は幸田文(こうだ・あや)の原作をようやく最近読んだので、ちょっと原作と映画を比べて見たくなったのである。
「流れる」は小説としても映画としても有名だけど、全然知らない人もいるかもしれないから最初に紹介しておきたい。簡単に言うと東京の花街として有名な柳橋に女中として住み込んだ「梨花」の目から見た芸者置屋の裏面を描く作品である。「梨花」(名前は「異人みたい」と言われて「お花さん」に変えられてしまうけど)は、つまりは幸田文の実体験である。離婚後に父の幸田露伴を看取り、父の話をエッセイで書いて文筆家になったけれど、自分に行き詰まりを感じたんだろう。
小説では「梨花」は夫と子供を続けて失い、自活するために働くという設定になっている。年齢から断られることが多く、職業安定所から紹介されて「つたの屋」にやってくる。戦前から戦後にかけての大スター、田中絹代が演じていて、「あなたは何者?」と言われる役を悠然と演じている。もう田中絹代を知らない人も多いだろう。10年ぐらい前に早稲田松竹で見た時に、若い女性が連れにあの女優は誰と聞いていた。ホントは露伴の娘なんだから、女中にしては品があり過ぎるわけで、そういう感じを田中絹代ならではの名演で演じてる。1909年生まれで、映画当時は44歳。
「つたの屋」の主人、つた奴はパトロンとも別れて、実の姉にも多額の借金があり、どうも落ち目である。このつた奴は、山田五十鈴が演じていて、ちょっと年増になった芸者の「日々の哀歓」を圧倒的な貫録で演じている。1917年生まれだから、39歳である。川本三郎は昔、銀座並木座で「流れる」を見た時に、女性観客が「ベルちゃん、きれいねえ」と思わず声を挙げたと書いている。特に昔のパトロンともう一度会えるんじゃないかとお化粧して出かけるところなど、素晴らしいとしか言葉がない。
原作では非常に辛辣に書かれているのが、芸者の家に醜く生まれたことで性格もゆがんだとされる勝代である。つた奴の娘だけど、芸者ではない。前に出たこともあるというけど、芸者に向かないと悟り、今は玄人の家で素人のように暮らしている。落ち目の芸者屋では、嫁にも行けず婿の来手もないと結婚も諦めている。そんな勝代は、映画では高峰秀子が演じているから、そんなに悪くは描かれない。そこは原作と映画の大きな違いで、映画は「滅びゆく者への哀歌」という感じである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/39/f4/937caa7bcf05c46390da279f5f0d1926_s.jpg)
「つたの屋」にいるのは、若い「なな子」(岡田茉莉子)と年増の「染香」(杉村春子)、それと男と別れて転がり込んでいる姪の米子(中北千枝子)である。一方、原作に出てくる「蔦次」は出てこない。原作では最後に「奥様」になれそうな重要な役どころなんだけど、映画の記憶にないから思わずネットで調べてしまった。でも、要するに映画では省略されたわけである。他にも、三流地に逃げ出していく「なみ江」は原作ではもう直接は出てこないけど、映画では冒頭にほんのちょっと顔を出している。
この「なみ江」は、つたの屋で虐待され売春を強要されたと伯父が乗り込んでくる。住所から千葉県の「鋸山」と言われている。名優の宮口精二がうまく演じている。それよりすごいのは、つた奴がずっと世話になってきた料亭の主人、組合の幹部でもある「お浜」を演じている戦前の大女優、栗島すみ子。もう僕なんかは名前しか知らない無声映画時代の大スターである。小津の傑作「淑女は何を忘れたか」(1937)を最後に引退して踊りの師匠をしていたのを、成瀬監督たっての要請で特別出演した。これが凄い迫力で、誰も太刀打ちできない。
こんなにすごい女優の競演映画は、他にちょっと記憶にない。この映画は「日本映画の伝説」になってきた。杉村春子も映画でのベスト級じゃないかと思う。今回よく見ると、女優の立ち居振る舞い、どこまでが監督の演出家は判らないけど、首の傾げ方ひとつとっても、優雅で細かく計算されつくしている。こういう映画は、もう文化財的な「映画遺産」とでも呼ぶしかない。
その大女優、栗島すみ子演じる古狸が、実は案外と腹黒いことが最後に判明するわけだが、要するに梨花を単なる女中ではないとにらんで引っこ抜いて、芸者屋をたたんで料理屋をやろうと考える。それを映画の田中絹代はきっぱりと断る。だけど、意外なことに原作では、つた奴も承知で「梨花」ぐるみ家を買ったように書いてある。梨花一人で新居を住めるようにしてから出て行くが、必ずしも梨花がこの町を完全に出るようには書いていない。そこらへんも大きな違いである。
原作は、読んでみると案外読みにくい。幸田文の小説は初めて読むんだけど、こういうのは読みにくいなあという感じの描写である。新潮文庫の高橋義孝の解説に、中で使われる「擬声語」が列挙されている。「がじがじ」「わたわたと」「へぐへぐ」とか、はっきり言って僕には全然判らない。イメージが湧かないのである。つまり、東京に住んでいた幸田文の言葉の感覚が、半世紀以上たつと感覚的にずいぶん判らなくなってしまうのだ。映画を見て、基本的なストーリイは判っているというのに、なかなか読み進まないという本だった。だから昔の本は難しい。原作の方は案外辛らつに柳橋の人々を見つめていて、その冷静な様子もちょっと意外だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1d/31/2d10275ab374d33ba36e357051554372_s.jpg)
ところで「柳橋」という場所は、1999年に最後の料亭が閉鎖され、花街としての歴史は終わっている。江戸時代から存在して、明治にできた新橋を薩長新政府が愛好したのに対し、旧幕的なムードがあったという。隅田川あっての場所だから、川が汚水となり五輪で東京が変わる中、柳橋の命運が尽きたのもやむを得ないのだろう。東京都台東区である。その後訪れてみて、「柳橋散歩ーいまはなき花街」(2018.11.18)を書いた。(2020.5.20一部改稿)
「流れる」は小説としても映画としても有名だけど、全然知らない人もいるかもしれないから最初に紹介しておきたい。簡単に言うと東京の花街として有名な柳橋に女中として住み込んだ「梨花」の目から見た芸者置屋の裏面を描く作品である。「梨花」(名前は「異人みたい」と言われて「お花さん」に変えられてしまうけど)は、つまりは幸田文の実体験である。離婚後に父の幸田露伴を看取り、父の話をエッセイで書いて文筆家になったけれど、自分に行き詰まりを感じたんだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6a/a8/d8960580d47f984f4156540f3a0a894c_s.jpg)
小説では「梨花」は夫と子供を続けて失い、自活するために働くという設定になっている。年齢から断られることが多く、職業安定所から紹介されて「つたの屋」にやってくる。戦前から戦後にかけての大スター、田中絹代が演じていて、「あなたは何者?」と言われる役を悠然と演じている。もう田中絹代を知らない人も多いだろう。10年ぐらい前に早稲田松竹で見た時に、若い女性が連れにあの女優は誰と聞いていた。ホントは露伴の娘なんだから、女中にしては品があり過ぎるわけで、そういう感じを田中絹代ならではの名演で演じてる。1909年生まれで、映画当時は44歳。
「つたの屋」の主人、つた奴はパトロンとも別れて、実の姉にも多額の借金があり、どうも落ち目である。このつた奴は、山田五十鈴が演じていて、ちょっと年増になった芸者の「日々の哀歓」を圧倒的な貫録で演じている。1917年生まれだから、39歳である。川本三郎は昔、銀座並木座で「流れる」を見た時に、女性観客が「ベルちゃん、きれいねえ」と思わず声を挙げたと書いている。特に昔のパトロンともう一度会えるんじゃないかとお化粧して出かけるところなど、素晴らしいとしか言葉がない。
原作では非常に辛辣に書かれているのが、芸者の家に醜く生まれたことで性格もゆがんだとされる勝代である。つた奴の娘だけど、芸者ではない。前に出たこともあるというけど、芸者に向かないと悟り、今は玄人の家で素人のように暮らしている。落ち目の芸者屋では、嫁にも行けず婿の来手もないと結婚も諦めている。そんな勝代は、映画では高峰秀子が演じているから、そんなに悪くは描かれない。そこは原作と映画の大きな違いで、映画は「滅びゆく者への哀歌」という感じである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/39/f4/937caa7bcf05c46390da279f5f0d1926_s.jpg)
「つたの屋」にいるのは、若い「なな子」(岡田茉莉子)と年増の「染香」(杉村春子)、それと男と別れて転がり込んでいる姪の米子(中北千枝子)である。一方、原作に出てくる「蔦次」は出てこない。原作では最後に「奥様」になれそうな重要な役どころなんだけど、映画の記憶にないから思わずネットで調べてしまった。でも、要するに映画では省略されたわけである。他にも、三流地に逃げ出していく「なみ江」は原作ではもう直接は出てこないけど、映画では冒頭にほんのちょっと顔を出している。
この「なみ江」は、つたの屋で虐待され売春を強要されたと伯父が乗り込んでくる。住所から千葉県の「鋸山」と言われている。名優の宮口精二がうまく演じている。それよりすごいのは、つた奴がずっと世話になってきた料亭の主人、組合の幹部でもある「お浜」を演じている戦前の大女優、栗島すみ子。もう僕なんかは名前しか知らない無声映画時代の大スターである。小津の傑作「淑女は何を忘れたか」(1937)を最後に引退して踊りの師匠をしていたのを、成瀬監督たっての要請で特別出演した。これが凄い迫力で、誰も太刀打ちできない。
こんなにすごい女優の競演映画は、他にちょっと記憶にない。この映画は「日本映画の伝説」になってきた。杉村春子も映画でのベスト級じゃないかと思う。今回よく見ると、女優の立ち居振る舞い、どこまでが監督の演出家は判らないけど、首の傾げ方ひとつとっても、優雅で細かく計算されつくしている。こういう映画は、もう文化財的な「映画遺産」とでも呼ぶしかない。
その大女優、栗島すみ子演じる古狸が、実は案外と腹黒いことが最後に判明するわけだが、要するに梨花を単なる女中ではないとにらんで引っこ抜いて、芸者屋をたたんで料理屋をやろうと考える。それを映画の田中絹代はきっぱりと断る。だけど、意外なことに原作では、つた奴も承知で「梨花」ぐるみ家を買ったように書いてある。梨花一人で新居を住めるようにしてから出て行くが、必ずしも梨花がこの町を完全に出るようには書いていない。そこらへんも大きな違いである。
原作は、読んでみると案外読みにくい。幸田文の小説は初めて読むんだけど、こういうのは読みにくいなあという感じの描写である。新潮文庫の高橋義孝の解説に、中で使われる「擬声語」が列挙されている。「がじがじ」「わたわたと」「へぐへぐ」とか、はっきり言って僕には全然判らない。イメージが湧かないのである。つまり、東京に住んでいた幸田文の言葉の感覚が、半世紀以上たつと感覚的にずいぶん判らなくなってしまうのだ。映画を見て、基本的なストーリイは判っているというのに、なかなか読み進まないという本だった。だから昔の本は難しい。原作の方は案外辛らつに柳橋の人々を見つめていて、その冷静な様子もちょっと意外だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1d/31/2d10275ab374d33ba36e357051554372_s.jpg)
ところで「柳橋」という場所は、1999年に最後の料亭が閉鎖され、花街としての歴史は終わっている。江戸時代から存在して、明治にできた新橋を薩長新政府が愛好したのに対し、旧幕的なムードがあったという。隅田川あっての場所だから、川が汚水となり五輪で東京が変わる中、柳橋の命運が尽きたのもやむを得ないのだろう。東京都台東区である。その後訪れてみて、「柳橋散歩ーいまはなき花街」(2018.11.18)を書いた。(2020.5.20一部改稿)