千葉市美術館で開催されている「板倉鼎・須美子展」を見に行った。(6月16日まで。)千葉市美術館は、京成線千葉中央駅が一番近いけれど、案外行きにくい。京成線は成田方面が幹線で、千葉市方面へは京成津田沼から普通電車に乗り換えるしかない。前に行ったこともあるが、一日つぶれてしまう。どうしようかなと思ったが、見る機会を逃したくない気がして出掛けてきた。
(チラシの絵は「休む赤衣の女」1929年頃)
と言っても、「板倉鼎をご存じですか」という感じだろう。これは最近出た水谷嘉弘氏の本の題名である。そういう本が出るぐらいで、ほとんどの人はまだ名前も知らないのではないかと思う。僕もNHK「日曜美術館」をたまたま見ていて、なかなかいいじゃないかと初めて知ったのである。板倉鼎(いたくら・かなえ、1901~1929)は埼玉県に生まれたが、幼いときに千葉県松戸市に転居し、松戸の小学校、千葉の中学を経て、東京美術学校西洋画科を卒業した。
1925年に文化学院在学中の昇須美子(1908~1934)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で結婚した。ロシア文学者として多くの翻訳を手がけていた昇曙夢(のぼり・しょむ)の娘で、周りからあの二人を会わせてみたいと声が挙ったらしい。24歳と17歳のカップルだった。翌1925年2月にパリを目指して旅立つが、その時珍しく太平洋航路でハワイに寄ってから、アメリカを横断してパリへ向かった。そして「エコール・ド・パリ」の一員として活躍したのである。
(板倉鼎・須美子夫妻)
パリでは岡鹿之助らと画業に励み、美術展にも入選するようになった。また日本に送られて「帝展」にも出されている。それらパリ時代の作品は、今見ても鮮烈な色彩で驚くほど魅力的だ。独特の構図、赤を多用した色彩感覚など、当時の日本人の感覚を突き抜けている。日本では必ずしも高く評価されなかったというのも判る気がする。「日本的風土」を超越しているのである。
《雲と秋果》1927年
展示されているほとんどの絵は撮影禁止だったが、一部に撮影可能な絵があった。ここで挙げる3枚の画像は、スマホで撮影したもの。非常に鮮烈な色彩感覚の静物画である。
《垣根の前の少女》1927年
少女像は主にパリでは妻の須美子がモデルになっている。しかし、結婚前の学生時代などは妹の板倉弘子をモデルにしたものも多い。それらを見ると、何もパリへ行って突然ヨーロッパ風になったのではなく、日本時代から不思議な作風の風景画、人物画を書いていたことが判る。板倉弘子は兄の作品を守り通し、Wikipediaによると2021年に111歳で亡くなった。そして遺志によって松戸市や千葉県、千葉市に寄贈された。近年になって再評価されているのは、そういう事情があったのである。
《黒椅子による女》1928年
パリでは二人の娘も生まれ、絵も順調に描いていたようだが、運命は突然暗転した。1929年9月に歯槽膿漏の治療から敗血症になって10日間の闘病で亡くなってしまった。当時は病弱な芸術家が多かった時代だが、板倉鼎は普段は病弱なタイプではない。それが彼の絵の明るさに表れている。世界恐慌も世界大戦も知らず、20年代のパリの記憶のみを留めているのである。
板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》1927-28年頃
妻の板倉須美子は日本では「文学少女」であり、ピアノを弾けたが絵の訓練は受けていなかった。しかし、パリで夫から手ほどきされ、絵を描くようになった。主に描いたのは、パリへ行く途中で過ごしたホノルルの美しさだった。「ベル・ホノルル」という題で幾つもの作品を残している。それらは夢幻的に美しく魅惑的で、当時パリでは鼎より人気があったと言われている。
板倉須美子《ベル・ホノルル24》1928年頃
しかし、夫の死以前に誕生直後の次女を亡くしていた。残された長女とともに帰国したが、長女も亡くなってしまう。実家に戻って、有島生馬について絵画を習い始めたが、今度は本人が結核に倒れ、1934年に亡くなった。わずか25歳だった。夫妻ともに早世したために、日本で評価される機会もなかったが、多くの作品の寄贈を受け、松戸市を中心に顕彰の動きが始まったところである。全く知らなかったが、とても魅力的。板倉須美子の絵もナイーヴアートかなと思うが忘れがたい。
(さや堂ホール)
なお、千葉市美術館は1927年に建てられた旧川崎銀行千葉支店が基になっている。ネオ・ルネサンス様式の壮麗な建築だが、新しいビルで元の建物を覆う「さや堂」方式で残すことになった。1階には「さや堂ホール」として歴史的建造物が残されている。常設展では草月流に関わる作品が展示されていた。司馬遼太郎『街道をゆく』の挿画で有名な須田剋太(すだ・こくた)が描いた勅使河原蒼風の絵も展示されていた。須田剋太の絵をこんなに見たのは初めて。
(チラシの絵は「休む赤衣の女」1929年頃)
と言っても、「板倉鼎をご存じですか」という感じだろう。これは最近出た水谷嘉弘氏の本の題名である。そういう本が出るぐらいで、ほとんどの人はまだ名前も知らないのではないかと思う。僕もNHK「日曜美術館」をたまたま見ていて、なかなかいいじゃないかと初めて知ったのである。板倉鼎(いたくら・かなえ、1901~1929)は埼玉県に生まれたが、幼いときに千葉県松戸市に転居し、松戸の小学校、千葉の中学を経て、東京美術学校西洋画科を卒業した。
1925年に文化学院在学中の昇須美子(1908~1934)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で結婚した。ロシア文学者として多くの翻訳を手がけていた昇曙夢(のぼり・しょむ)の娘で、周りからあの二人を会わせてみたいと声が挙ったらしい。24歳と17歳のカップルだった。翌1925年2月にパリを目指して旅立つが、その時珍しく太平洋航路でハワイに寄ってから、アメリカを横断してパリへ向かった。そして「エコール・ド・パリ」の一員として活躍したのである。
(板倉鼎・須美子夫妻)
パリでは岡鹿之助らと画業に励み、美術展にも入選するようになった。また日本に送られて「帝展」にも出されている。それらパリ時代の作品は、今見ても鮮烈な色彩で驚くほど魅力的だ。独特の構図、赤を多用した色彩感覚など、当時の日本人の感覚を突き抜けている。日本では必ずしも高く評価されなかったというのも判る気がする。「日本的風土」を超越しているのである。
《雲と秋果》1927年
展示されているほとんどの絵は撮影禁止だったが、一部に撮影可能な絵があった。ここで挙げる3枚の画像は、スマホで撮影したもの。非常に鮮烈な色彩感覚の静物画である。
《垣根の前の少女》1927年
少女像は主にパリでは妻の須美子がモデルになっている。しかし、結婚前の学生時代などは妹の板倉弘子をモデルにしたものも多い。それらを見ると、何もパリへ行って突然ヨーロッパ風になったのではなく、日本時代から不思議な作風の風景画、人物画を書いていたことが判る。板倉弘子は兄の作品を守り通し、Wikipediaによると2021年に111歳で亡くなった。そして遺志によって松戸市や千葉県、千葉市に寄贈された。近年になって再評価されているのは、そういう事情があったのである。
《黒椅子による女》1928年
パリでは二人の娘も生まれ、絵も順調に描いていたようだが、運命は突然暗転した。1929年9月に歯槽膿漏の治療から敗血症になって10日間の闘病で亡くなってしまった。当時は病弱な芸術家が多かった時代だが、板倉鼎は普段は病弱なタイプではない。それが彼の絵の明るさに表れている。世界恐慌も世界大戦も知らず、20年代のパリの記憶のみを留めているのである。
板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》1927-28年頃
妻の板倉須美子は日本では「文学少女」であり、ピアノを弾けたが絵の訓練は受けていなかった。しかし、パリで夫から手ほどきされ、絵を描くようになった。主に描いたのは、パリへ行く途中で過ごしたホノルルの美しさだった。「ベル・ホノルル」という題で幾つもの作品を残している。それらは夢幻的に美しく魅惑的で、当時パリでは鼎より人気があったと言われている。
板倉須美子《ベル・ホノルル24》1928年頃
しかし、夫の死以前に誕生直後の次女を亡くしていた。残された長女とともに帰国したが、長女も亡くなってしまう。実家に戻って、有島生馬について絵画を習い始めたが、今度は本人が結核に倒れ、1934年に亡くなった。わずか25歳だった。夫妻ともに早世したために、日本で評価される機会もなかったが、多くの作品の寄贈を受け、松戸市を中心に顕彰の動きが始まったところである。全く知らなかったが、とても魅力的。板倉須美子の絵もナイーヴアートかなと思うが忘れがたい。
(さや堂ホール)
なお、千葉市美術館は1927年に建てられた旧川崎銀行千葉支店が基になっている。ネオ・ルネサンス様式の壮麗な建築だが、新しいビルで元の建物を覆う「さや堂」方式で残すことになった。1階には「さや堂ホール」として歴史的建造物が残されている。常設展では草月流に関わる作品が展示されていた。司馬遼太郎『街道をゆく』の挿画で有名な須田剋太(すだ・こくた)が描いた勅使河原蒼風の絵も展示されていた。須田剋太の絵をこんなに見たのは初めて。