その後もガルシア=マルケスを読み続けている。面白くて止められなくなってきて、このまま長編小説をどんどん読み進もうかと思っている。まずは『愛その他の悪霊について』(1994)である。日本では1996年に旦敬介訳で新潮社から翻訳された。生前に発表された長編小説としては最後から2番目の作品になる。解説を入れて200頁ほどの本で、それほど長くはないが、最近ずっと短編を読んでたので話が佳境に入るまでちょっと読みにくかった。しかし、物語が始動していくとジェットコースターのようにスピードが付いてくる。ガルシア=マルケスは難しい作家ではなく、基本的にはひたすら面白い豊かな物語性が特徴である。
最初がちょっと取っつきにくいのは、この話が大昔を舞台にしているからだ。大昔と言っても18世紀の半ば頃である。若き日の体験が話の基になっていると冒頭に書かれているが、内容は完全なフィクションだろう。当時のコロンビアはスペインの植民地で、ヌエバ・グラナダ副王領と言われていた。大農園領主とカトリック教会が支配する体制が確立されていたが、すでに滅びへの道行が始まっていた。(19世紀初頭にスペインから独立する。)
(19世紀初頭の南アメリカ)
コロンビアのどこかの城塞都市が舞台になっている。港があるようなので、ガルシア=マルケスと縁が深いカリブ海岸の都市カルタヘナかもしれない。カルタヘナは奴隷貿易の中心として栄え、港や歴的建造物が世界遺産になっている。そこである日12歳の少女が市場で犬に噛まれた。少女シエルバ・マリアは侯爵の娘だが、事情があって父からも母からも見捨てられて育った。そのため黒人奴隷と一緒に育ち、アフリカ各地の言語や音楽、ダンスに親しんでいる。この両親の事情は相当にぶっ飛んでいて、もうこの国は壊れているなという感じだ。
ところでこの犬が後に狂犬病を発症し、シエルバ・マリアも狂犬病になるんじゃないかと恐れられるようになった。父親も改めて接してみると、娘は全く理解できない行動ばかりする。どうしたら良いのかとユダヤ人医師に相談したりするが、結局は教会に預けることにする。教会はサンタ・クララ修道会に身柄を預けるが、教会の目からみると少女は「悪霊憑き」にしか見えない。そこで司教は「悪魔払い」を始めることになり、自分の秘書格の若者カエターノ・デラウラ神父が派遣される。
(ガブリエル・ガルシア=マルケス)
このデラウラは西欧の最新思想にも通じていて、少女と話すうちに悪霊が付いているのではなく、その生育歴から来たものだと信じるようになる。シエルバ・マリアは魅力的な美少女で、二人は次第に惹かれ合うようになってしまう。だが少女をめぐる「不思議」な事態は、教会当局からは「悪霊」としか思えず、少女の処遇はどんどん悪化していく。両親も滅びへの道を歩み、小説世界は悲劇の予感に満たされていく。いま見ると、明らかに「虐待」「ネグレクト」であり、この少女が荒れるのも当然。『あんのこと』や『ホールドオーバーズ』の子どもと同じなのである。
それがなにゆえ教会には通じないのか。「神」を奉じながら、「悪霊」に憑かれているのは自分たちではないか。しかし、才能豊かなデラウラもよりによって12歳の少女にメロメロになってしまう。これは見る者によれば、少女に悪霊が付いている証拠になるだろう。あるいは「愛」すらも「悪霊」の仕業なんだろうか。帯には「愛は成就されず、成就されるのは愛でないものばかり」とある。その不条理な背理をトコトン煮詰めたような小説である。
時と所が離れすぎて、なかなか理解が難しい状況もある。だけど基本的には「愛」と「悪魔払い」のジェットコースター小説。こうして書いていても魅力は全然伝わらないと思う。これは読んでみるしかないタイプの小説で、出来映えはガルシア=マルケスの長編の中でも上々なんじゃないかと思う。
最初がちょっと取っつきにくいのは、この話が大昔を舞台にしているからだ。大昔と言っても18世紀の半ば頃である。若き日の体験が話の基になっていると冒頭に書かれているが、内容は完全なフィクションだろう。当時のコロンビアはスペインの植民地で、ヌエバ・グラナダ副王領と言われていた。大農園領主とカトリック教会が支配する体制が確立されていたが、すでに滅びへの道行が始まっていた。(19世紀初頭にスペインから独立する。)
(19世紀初頭の南アメリカ)
コロンビアのどこかの城塞都市が舞台になっている。港があるようなので、ガルシア=マルケスと縁が深いカリブ海岸の都市カルタヘナかもしれない。カルタヘナは奴隷貿易の中心として栄え、港や歴的建造物が世界遺産になっている。そこである日12歳の少女が市場で犬に噛まれた。少女シエルバ・マリアは侯爵の娘だが、事情があって父からも母からも見捨てられて育った。そのため黒人奴隷と一緒に育ち、アフリカ各地の言語や音楽、ダンスに親しんでいる。この両親の事情は相当にぶっ飛んでいて、もうこの国は壊れているなという感じだ。
ところでこの犬が後に狂犬病を発症し、シエルバ・マリアも狂犬病になるんじゃないかと恐れられるようになった。父親も改めて接してみると、娘は全く理解できない行動ばかりする。どうしたら良いのかとユダヤ人医師に相談したりするが、結局は教会に預けることにする。教会はサンタ・クララ修道会に身柄を預けるが、教会の目からみると少女は「悪霊憑き」にしか見えない。そこで司教は「悪魔払い」を始めることになり、自分の秘書格の若者カエターノ・デラウラ神父が派遣される。
(ガブリエル・ガルシア=マルケス)
このデラウラは西欧の最新思想にも通じていて、少女と話すうちに悪霊が付いているのではなく、その生育歴から来たものだと信じるようになる。シエルバ・マリアは魅力的な美少女で、二人は次第に惹かれ合うようになってしまう。だが少女をめぐる「不思議」な事態は、教会当局からは「悪霊」としか思えず、少女の処遇はどんどん悪化していく。両親も滅びへの道を歩み、小説世界は悲劇の予感に満たされていく。いま見ると、明らかに「虐待」「ネグレクト」であり、この少女が荒れるのも当然。『あんのこと』や『ホールドオーバーズ』の子どもと同じなのである。
それがなにゆえ教会には通じないのか。「神」を奉じながら、「悪霊」に憑かれているのは自分たちではないか。しかし、才能豊かなデラウラもよりによって12歳の少女にメロメロになってしまう。これは見る者によれば、少女に悪霊が付いている証拠になるだろう。あるいは「愛」すらも「悪霊」の仕業なんだろうか。帯には「愛は成就されず、成就されるのは愛でないものばかり」とある。その不条理な背理をトコトン煮詰めたような小説である。
時と所が離れすぎて、なかなか理解が難しい状況もある。だけど基本的には「愛」と「悪魔払い」のジェットコースター小説。こうして書いていても魅力は全然伝わらないと思う。これは読んでみるしかないタイプの小説で、出来映えはガルシア=マルケスの長編の中でも上々なんじゃないかと思う。