全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)会長の神美知宏(こう・みちひろ)さんが草津で急逝したという報道には驚いた。9日に草津のホテルで倒れ、搬送先の病院で亡くなったという。80歳だった。草津で亡くなったというのは、今日から始まったハンセン病市民学会出席のためで、本当なら今日(5月9日)の14時から30分ほど、「全療協緊急アピール」を行う予定だった。明日の午前も「療養所の入所者の人権が守られるための制度を提案する」という分科会のパネリストを務める予定だった。本当なら僕も参加していてブログを書けないはずなんだけど、どうも最近いろいろと億劫になってしまうことが多く、家にいて書いている次第。
神さんは福岡の出身で、17歳で発病して瀬戸内海にある香川県の大島青松園に入所した。そして、入所者による自治会運動に参加するようになり、全国的な活動にも関わるようになっていった。大島青松園には曽我野一美さんという運動の大先輩がいて、その影響が大きかった。今、全療協の前身である全国ハンセン氏病患者協議会がまとめた「全患協運動史」(1977)をひもとくと、巻末資料にある支部長会議出席者名簿の中に、1966年に静岡県の駿河療養所で行われた会議参加者が出ている。そこに神さんの名前を見つけることができる。その後はしばらく名前がないが、70年代になると毎年のように支部長会議に出席している。(国立ハンセン病療養所は全国に13カ所あり、それらの入所者自治会の全国組織が全患協、全療協である。支部長会議の参加というのは、各自治会の代表として出席しているということである。)
ところで、その時の名前は「神」ではなかったのである。その時は「神崎正男」を名乗っていたが、それは園内の「通名」(偽名)だったのである。1996年の「らい予防法廃止」以後に、ようやく本名宣言をした。この病気で療養所に「隔離」された人々の多くは、園内で名を変える。それはもちろん僕も知っていたけれど、全患協の神崎事務局長として知っていた人が、実は「神」だったということに非常に驚いたものである。ペンネームなんかだったら、神崎という人が神と名乗りそうである。でも、療養所は違うのである。
そのあたりのことは、大阪府人権協会のサイトにある、「リレーエッセイ」の「ハンセン病療養所と社会を隔てる『壁』を取り払うために」に、以下のように述べられている。
17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。まず名前を変えることを勧められました。ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました。
らい予防法廃止からハンセン病国賠訴訟、そしてハンセン病問題の最終解決を目指すとされた2009年施行の「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)に至るまで、「当事者運動としてのハンセン病問題」を一貫して担ってきたのは、全療協の神事務局長だったと言ってもいいと思う。様々の集会で何回も話を聞く機会があったが、理路整然、論旨明快にして決然たる口調で厳しい言葉が発せられるのには、毎回驚くほかはなかった。
その神さんが2010年に会長を引き継ぎ、最後の最後に訴えていたことは、療養所の職員が削減され入所者がますます命の危険にさらされるような国の方針への抵抗である。国は隔離の過ちを認め、最後のひとりまで十分な医療を保障するという約束をしたにもかかわらず、公務員削減という方針を機械的に進め、療養所入所者に不安を抱かせている。そのことに対する危機感を神さんの全身から感じることができた。全療協の最後の闘いと位置づけ、厚労省との交渉を続けていた。
昔、「患者運動」が盛んな時代があった。公害患者、薬害患者の運動はその後も現在に至るまである。だが、多くの難病患者は自ら闘うことができない。国に対策を求める運動は大体家族が起こすのである。しかし、慢性の感染症で、療養所に長く生活せざるを得ない結核とハンセン病(らい病)が患者が多かった戦後直後には、療養所を舞台にした患者自らによる国に対する運動が非常に盛んだった。そして結核療養所の運動はなくなり、ハンセン病療養所も非常に高齢化が進み、ハンセン病療養所の運動も難しくなっている。神美知宏という人は、そういう戦後患者運動の最後の輝きだったのではないかと思う。ハンセン病問題を語ることに置いて、全国的な活動が可能な人は非常に少なくなってきた。(療養所を訪れた人に対して、所内で経験を語れる語り部なら、まだある程度はいると思うが。)本人ももう少し生きて活動したかっただろうし、また周りの人も活動してくれるものと思っていただろう。そういう意味では、無念の死であり、余人をもって代えがたいポジションの人だった。安易に後をまかせてくれとは、支援者も含めて誰も言えないのではないか。とても残念である。
神さんは福岡の出身で、17歳で発病して瀬戸内海にある香川県の大島青松園に入所した。そして、入所者による自治会運動に参加するようになり、全国的な活動にも関わるようになっていった。大島青松園には曽我野一美さんという運動の大先輩がいて、その影響が大きかった。今、全療協の前身である全国ハンセン氏病患者協議会がまとめた「全患協運動史」(1977)をひもとくと、巻末資料にある支部長会議出席者名簿の中に、1966年に静岡県の駿河療養所で行われた会議参加者が出ている。そこに神さんの名前を見つけることができる。その後はしばらく名前がないが、70年代になると毎年のように支部長会議に出席している。(国立ハンセン病療養所は全国に13カ所あり、それらの入所者自治会の全国組織が全患協、全療協である。支部長会議の参加というのは、各自治会の代表として出席しているということである。)
ところで、その時の名前は「神」ではなかったのである。その時は「神崎正男」を名乗っていたが、それは園内の「通名」(偽名)だったのである。1996年の「らい予防法廃止」以後に、ようやく本名宣言をした。この病気で療養所に「隔離」された人々の多くは、園内で名を変える。それはもちろん僕も知っていたけれど、全患協の神崎事務局長として知っていた人が、実は「神」だったということに非常に驚いたものである。ペンネームなんかだったら、神崎という人が神と名乗りそうである。でも、療養所は違うのである。
そのあたりのことは、大阪府人権協会のサイトにある、「リレーエッセイ」の「ハンセン病療養所と社会を隔てる『壁』を取り払うために」に、以下のように述べられている。
17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。まず名前を変えることを勧められました。ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました。
らい予防法廃止からハンセン病国賠訴訟、そしてハンセン病問題の最終解決を目指すとされた2009年施行の「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)に至るまで、「当事者運動としてのハンセン病問題」を一貫して担ってきたのは、全療協の神事務局長だったと言ってもいいと思う。様々の集会で何回も話を聞く機会があったが、理路整然、論旨明快にして決然たる口調で厳しい言葉が発せられるのには、毎回驚くほかはなかった。
その神さんが2010年に会長を引き継ぎ、最後の最後に訴えていたことは、療養所の職員が削減され入所者がますます命の危険にさらされるような国の方針への抵抗である。国は隔離の過ちを認め、最後のひとりまで十分な医療を保障するという約束をしたにもかかわらず、公務員削減という方針を機械的に進め、療養所入所者に不安を抱かせている。そのことに対する危機感を神さんの全身から感じることができた。全療協の最後の闘いと位置づけ、厚労省との交渉を続けていた。
昔、「患者運動」が盛んな時代があった。公害患者、薬害患者の運動はその後も現在に至るまである。だが、多くの難病患者は自ら闘うことができない。国に対策を求める運動は大体家族が起こすのである。しかし、慢性の感染症で、療養所に長く生活せざるを得ない結核とハンセン病(らい病)が患者が多かった戦後直後には、療養所を舞台にした患者自らによる国に対する運動が非常に盛んだった。そして結核療養所の運動はなくなり、ハンセン病療養所も非常に高齢化が進み、ハンセン病療養所の運動も難しくなっている。神美知宏という人は、そういう戦後患者運動の最後の輝きだったのではないかと思う。ハンセン病問題を語ることに置いて、全国的な活動が可能な人は非常に少なくなってきた。(療養所を訪れた人に対して、所内で経験を語れる語り部なら、まだある程度はいると思うが。)本人ももう少し生きて活動したかっただろうし、また周りの人も活動してくれるものと思っていただろう。そういう意味では、無念の死であり、余人をもって代えがたいポジションの人だった。安易に後をまかせてくれとは、支援者も含めて誰も言えないのではないか。とても残念である。
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