尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

室謙二のリバイバル-新書⑤

2012年11月01日 00時23分11秒 | 〃 (さまざまな本)
 室謙二(むろ・けんじ、1946~)という人がいる。昔「思想の科学」という雑誌があって、その編集代表をしていた。60年代にはべ平連に参加し、米軍脱走兵を逃がす活動も行った。70年代にはあちこちで室さんの書いたものを読んだような気がする。「思想の科学」はわりとよく読んでいたし、読者会というのもあって時々参加していたから話も聞いたと思う。検索して見ると「旅行の仕方」、「アジア人の自画像」など、読んではないけど名前に記憶がある本を書いてた。85年には「踊る地平線」という本を出して評価された。これは丹下左膳の原作者として知られる林不忘、またの名を谷譲次、牧逸馬の三つのペンネームを使い分けた長谷川海太郎の評伝である。谷譲次はアメリカ放浪記を書いたときの名前だけど、それは実体験に基づいている。そして、室さんの実人生も、この海太郎みたいなことになっていた。

 そういえば、しばらく室謙二さんの名前を聞いていなかったなあと、去年新著「天皇とマッカーサーのどちらが偉い?」(岩波書店、2011)が出て思い出した。その本を読んだら、なんと室謙二はアメリカ人になっていた。住んでいるだけでなく、ユダヤ系アメリカ人女性と結婚して米国市民権を取って、日本国籍ではなくなっていた。そして今年の7月に岩波新書で「非アメリカを生きる-複数文化の国で」という本も出した。いやあ、長年日本の言論界を離れていた「室謙二」という人が急速にリバイバルしてきた。それも「アメリカ人」として。そういう生き方もあるのか。まあ頭では知ってるけど、外国に住んでも国籍は変えない人もいる。いずれ日本に帰ってくる人も多い。「こういう生き方もあるんだ」という感じ。
 
 でも「アメリカ人になりたい」というわけではなかったらしい。「ある人に会って、その人と暮らすためにここまで来てしてしまったのだよ」ということらしい。そして「アメリカで非アメリカ人として住む方が、日本で非日本人として住むより楽なように思えた。」と言う。うーん、そうなのかな。確かにそうかもしれない。前の著作は主に日本での人生を自伝的に、後の新書はアメリカの「非アメリカ人」を取り上げてエッセイ風にまとめている。とても自由な風が本の中を吹き抜けていて、読んで刺激された。内容を簡単に紹介しながら、いくつかの論点に触れてみたい。

 まず後者から。「最後のインディアンが見たアメリカ」として有名な「イシ」の生涯が最初。「ハンクとジャックはスペインに行く」はスペイン内戦で国際義勇軍に参加したアメリカ人。そして「マイルスはジャズを演奏しない」「ビートたちのブッダと鈴木老師」「ハムサンドを食べるユダヤ人」と続く。アメリカ国内のマイノリティを描きながら、「もう一つのアメリカ」を示していく。「北アメリカ最後の野生インディアン」と呼ばれて「イシ」と呼ばれた人は、「人類学者」クローバーに「発見」され、クローバー夫人の「イシ」と言う本で有名になった。その夫妻の娘がアーシュラ・K・ル=グウィンで、「そうやってイシは、ゲドとなっていまの若い世代に伝えられている。」

 スペイン内戦のときの国際義勇軍は、スターリンや他の多くの政治家にボロボロにされたけど、でも一身を犠牲にしてファシズムに立ち向かった「高貴な国際精神」は、僕にとって「永遠の英雄」だと思っている。アメリカの義勇軍はよく「リンカーン旅団」と言われたが、そういう名前の旅団は正式にはないらしい。理想主義なんて実現しない、純真な心だけではずるい連中に利用され犠牲にされるだけだ、という局面ばかり体験してきたけど、まだ1936年は理想を語れた。というか、選挙で選ばれた人民戦線を武力で倒そうとするフランコを公然と支援するヒトラーをここで止めなくては…という危機感と熱い想いは今も僕の心に共振するものがある。そうして、そう思った多くのアメリカ青年がスペインにおもむき、銃弾に倒れた。そこでアメリカ人が歌を作った。

 「ハラマの歌
 スペインにハラマと言う谷がある。
 人々はそこを忘れない。
 大勢の同志が山麓に倒れ、
 ハラマでは至るところに花が咲く。
 国際旅団はハラマに残り、
 自由のスペインを守る。
 彼らの山を守ろうと誓い、
 残忍非道なファシストを倒す。

 メロディは、「レッドリバー・バレー」(赤い河の谷間)。西部開拓時代の白人とインディアンの女性の恋を描いたアメリカのフォークソング。聞いてみれば誰でも思い当たる曲。何とも言えない懐かしく切ない想いがあふれてくるメロディである。そしてこの曲が、どういう経緯でか(本の中で追跡されている)中国で歌われているという。今も小学生の音楽で歌われているらしい。何でだろうと言うまでもない。これは「反ファシズム」の歌だ。中国は反ファシズム陣営で戦った国で、「抗日」「反日」というのはつまり「反ファシズム」のことなのだ。日本では「反日教育」は「拝外的ナショナリズムをあおる教育」としか思わない人が多いが、それは「本質においては違う」のだと思う。

 前著の方は9章まであるので全部は紹介しないが、戦後直後からの東京の様々が語られる。特に「レッド・ダイパー・ベイビーとして」「ここは江戸川アパート?」が面白かった。そして最後の「同世代の脱走」でベトナム戦争での脱走米兵救援活動が語られている。この問題は近年かなり語られているので、ここでは書かないことにする。簡単に一言言えば、戦争が嫌だと軍を逃げだした兵隊を日本の庶民が必死に匿って逃がし通した。「現代の英雄」ではないか。「日本民衆の誇り」である。これが判らない人がいる。ソ連大使館に接触しソ連経由でスウェーデンに逃亡させたことがある。ソ連崩壊後、そのソ連側記録を発掘し、「ソ連の手先だった」などと言う人がいるし、ネット上に書く人もいる。事態の本質はどうたったかは本書に詳しい。米ソとも、諜報機関と言えども官僚機関なのである。鵜呑みにしてはいけない。

 「レッド・ダイパー・ベイビー」(Red Diaper Baby)というのは、「赤いおむつの赤ちゃん」、親が共産党員、さらには左翼活動家の両親に育てられた子供のことを指す言葉らしい。普通に使う言葉ではなく、「隠語」というか「仲間内の言葉」に近いらしい。スパイ容疑で死刑を執行されたローゼンバーグ夫妻事件の子供たちの話で始めながら、室さんは自分の親のことを語っていく。自分も一種の「レッド・ダイパー・ベイビー」だったのだと。そういう人はけっこう多いのではないか。少し古くなったけど、10年ちょっと前には親が全共闘世代で子どもよりラディカル、ロックばっかり聞いて育ったような子どもが時々いた。日本で一番典型的なのは、父親が共産党代議士だった米原昶(いたる)の娘、米原万里(よねはら・まり 1950~2006)だろう。小学生のときに父の仕事でプラハに移り、共産党幹部の子ども専用のソ連政府が作ったソビエト学校でロシア語教育を受けた。この凄まじい体験を後に笑い飛ばすような痛快かつ痛切なノンフィクションにまとめた。そこまで行かなくても、小さな時代に「マイノリティ」として(例えば、戦争中に反戦的な言動をして監視されていた親とか、キリスト教の中でも少数グループの親とか)なんかに育てられた「誇りと傷」が、ある種のトラウマになっていると言う人もいるはずだ。親の主義や信仰を受け継いでくれる子どもばかりではないのだから。この問題を教えられたという意味は大きい。
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2 コメント

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Unknown (室謙二)
2015-09-12 01:24:29
いまこの文章を読みました。
ありがとう。
kenjim@earthlink.net
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コメントありがとうございます (ogata)
2015-09-12 23:25:18
 ご本人からコメントいただけるとは、とてもうれしく思います。まだ、室さんの本を読んでない方は、ぜひ上記の本を読んでみていただければと思います。からだの中に自由の風が吹き通っていく感じがします。「米軍脱走兵」に関しては、直接関わるような年齢ではなかったのですが、「語り継いでいく」ことが大切と思います。
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