武田泰淳を読む3回目は『風媒花』。1952年に出た長編小説で、今は講談社文芸文庫に入っている。この前、安水稔和の本を図書館に返却に行ったら、この本があったので借りてきた。僕は昔新潮文庫で読んでいて、その時の記憶ではとても面白かった。奥付を見ると、1976年6月に25刷の本である。当然ながらそれ以後に読んだわけだから、大学時代のことになる。
近年武田泰淳の本を一番出しているのは中公文庫である。それも純文学以外の『十三妹』(シーサンメイ)とか短編集『淫女と豪傑』とか中国を舞台にしたエンタメ系の作品を出している。中国の古代史、中世史を舞台にしたチャイナ・ファンタジーというべき小説やマンガ、映画などは日本でもずいぶん多い。日本ではほとんど紹介されてこなかった「武侠小説」の日本版として、武田泰淳も発掘されたらしい。そういう視点もあるかと思うけど、武田泰淳と中国との関わりはもっと宿命的なものである。
そもそも出生名「大島覚」だったものが、父の師である武田芳淳の養子になって武田泰淳となった。お寺の子である。「仏教」を教え込まれながら、悩みが多く左傾した。東京帝大支那文学科に入学するも、逮捕されて退学した。しかし、大学のつながりは残り、1934年に竹内好らとともに「中国文学研究会」に参加した。竹内は魯迅研究者として知られ、戦後を代表する評論家になった。晩年まで友人として深く関わった。東大が「支那文学」と呼んでいるときに、日本で初めて「中国文学」を研究するんだと旗を揚げた。この思いは同時代の中国文学者に伝わった。
(竹内好)
ところが1937年に召集され輜重補充兵として華中に派遣されたのである。愛好する中国の地をあろうことか侵略軍の一員として踏むという屈辱。翌38年に除隊し、評論『司馬遷』を構想し始めた。よく知られているように『司馬遷』の冒頭は「司馬遷は生き恥さらした男である」と始まっている。これは司馬遷が武帝から「宮刑」(性器を切り取られる刑)に処せられたことを指すが、武田泰淳本人の意識でもあっただろう。1943年に『司馬遷』刊行、同じ年に「中国文学」が終刊になった。翌年上海の「中日文化協会」に勤務して、そこで日本の敗戦を見た。解説の山城むつみは「小説家、武田泰淳誕生の秘密は上海にある。『司馬遷』の著者が小説家になったのは、上海で日本帝国の滅亡を経験したからだ」と書いている。
さて前置きで長くなったが、『風媒花』は1952年の1月から11月まで「群像」に連載された長編小説である。ちょうど1952年4月の講和条約発効を間にはさみ、朝鮮戦争のさなかになる。著者の私生活では前年に鈴木百合子と結婚し、長女武田花が生まれていた。主人公は「エロ作家」の峯三郎。峯が狂言回しとなって、当時の左翼、右翼の有象無象が混沌と乱れ合っている様を描き出している。冒頭は「中国文化研究会」の会合で、これは戦時中に解散した中国文学研究会のメンバーである。学生時代にはよく判らなかったけど、リーダーの「軍地」は明らかに竹内好がモデルになっている。
(武田泰淳と百合子夫妻)
僕が若い頃に読んだとき、この小説を気に入ったのは観念的な思想小説でありながら、戦後風俗をたっぷりと描いている面白さだったのではないかと思う。今読むと、その辺は古くて現代ではよく判らない部分が多い。まさに「朝鮮戦争下小説」なのである。峯には同棲相手の蜜枝がいて、これは明らかに武田百合子がモデル。その弟と付き合っている左翼の細谷桃代という女性は、同時に峯にも惹かれている。桃代は「PD工場」に勤めていて、峯を工場見学に誘う。そこでは青酸カリによる殺人事件が起きる。この「PD工場」が判らなかったが、検索すると「米軍の調達工場」と出ていた。銃や青酸カリが当然のように登場し、登場人物は「革命」を信じている。隔世の感がある。
そんな登場人物を結びつけているのは「中国」である。左翼は大陸で成立したばかりの共産党政権を支持している。一方、右翼は台湾に移った蒋介石を支援するために武器を送ろうとしている。前に読んだ新潮文庫の解説は三島由紀夫が書いているが、三島は「『風媒花』の女主人公(ヒロイン)は中国なのであり、この女主人公だけが憧憬と渇望と怨嗟と征服とあらゆる夢想の対象であり、つまり恋愛の対象なのである」と喝破している。この三島の解説は講談社文芸文庫でも収録して欲しかった。
蜜枝が峯三郎に「毛沢東と私とどっちを愛しているの」と聞く印象的なシーンがあるが、まさにそういう言葉が成り立ちうる時代だったのである。この小説では朝鮮戦争に中国が「人民義勇軍」を送り、事実上の米中戦争になった時代相を背景にしている。「男の世界」では再び中国人民の敵となって、米軍の補給基地となった日本で生きる精神的、物質的苦しさが封じ込められている。それは今から見ればリアリティが欠けている。一番生きているのは蜜枝と桃代の二人の女性である。ただし、この二人の行動も今となれば全く理解出来ないことが多い。
以前は60年代反乱の余韻の中で読んだから、あまり違和感がなかったんだと思う。時代が全く違ってしまい、今では恐ろしく読みにくい小説になった。でもこの小説を無視して「戦後精神史」は理解出来ない。中国革命に理想を見出した時代があったことも、今では理解出来ないだろう。この小説の「新中国」はやはり理想化された部分がある。この時代はまだ、凄絶な権力抗争は起きていなかった。しかし、それはもうすぐ始まったのである。(東北地方の責任者であり、中央政府の副主席だった高崗が失脚したのは1954年2月だった。前年にはソ連のスターリンが死去していた。)
近年武田泰淳の本を一番出しているのは中公文庫である。それも純文学以外の『十三妹』(シーサンメイ)とか短編集『淫女と豪傑』とか中国を舞台にしたエンタメ系の作品を出している。中国の古代史、中世史を舞台にしたチャイナ・ファンタジーというべき小説やマンガ、映画などは日本でもずいぶん多い。日本ではほとんど紹介されてこなかった「武侠小説」の日本版として、武田泰淳も発掘されたらしい。そういう視点もあるかと思うけど、武田泰淳と中国との関わりはもっと宿命的なものである。
そもそも出生名「大島覚」だったものが、父の師である武田芳淳の養子になって武田泰淳となった。お寺の子である。「仏教」を教え込まれながら、悩みが多く左傾した。東京帝大支那文学科に入学するも、逮捕されて退学した。しかし、大学のつながりは残り、1934年に竹内好らとともに「中国文学研究会」に参加した。竹内は魯迅研究者として知られ、戦後を代表する評論家になった。晩年まで友人として深く関わった。東大が「支那文学」と呼んでいるときに、日本で初めて「中国文学」を研究するんだと旗を揚げた。この思いは同時代の中国文学者に伝わった。
(竹内好)
ところが1937年に召集され輜重補充兵として華中に派遣されたのである。愛好する中国の地をあろうことか侵略軍の一員として踏むという屈辱。翌38年に除隊し、評論『司馬遷』を構想し始めた。よく知られているように『司馬遷』の冒頭は「司馬遷は生き恥さらした男である」と始まっている。これは司馬遷が武帝から「宮刑」(性器を切り取られる刑)に処せられたことを指すが、武田泰淳本人の意識でもあっただろう。1943年に『司馬遷』刊行、同じ年に「中国文学」が終刊になった。翌年上海の「中日文化協会」に勤務して、そこで日本の敗戦を見た。解説の山城むつみは「小説家、武田泰淳誕生の秘密は上海にある。『司馬遷』の著者が小説家になったのは、上海で日本帝国の滅亡を経験したからだ」と書いている。
さて前置きで長くなったが、『風媒花』は1952年の1月から11月まで「群像」に連載された長編小説である。ちょうど1952年4月の講和条約発効を間にはさみ、朝鮮戦争のさなかになる。著者の私生活では前年に鈴木百合子と結婚し、長女武田花が生まれていた。主人公は「エロ作家」の峯三郎。峯が狂言回しとなって、当時の左翼、右翼の有象無象が混沌と乱れ合っている様を描き出している。冒頭は「中国文化研究会」の会合で、これは戦時中に解散した中国文学研究会のメンバーである。学生時代にはよく判らなかったけど、リーダーの「軍地」は明らかに竹内好がモデルになっている。
(武田泰淳と百合子夫妻)
僕が若い頃に読んだとき、この小説を気に入ったのは観念的な思想小説でありながら、戦後風俗をたっぷりと描いている面白さだったのではないかと思う。今読むと、その辺は古くて現代ではよく判らない部分が多い。まさに「朝鮮戦争下小説」なのである。峯には同棲相手の蜜枝がいて、これは明らかに武田百合子がモデル。その弟と付き合っている左翼の細谷桃代という女性は、同時に峯にも惹かれている。桃代は「PD工場」に勤めていて、峯を工場見学に誘う。そこでは青酸カリによる殺人事件が起きる。この「PD工場」が判らなかったが、検索すると「米軍の調達工場」と出ていた。銃や青酸カリが当然のように登場し、登場人物は「革命」を信じている。隔世の感がある。
そんな登場人物を結びつけているのは「中国」である。左翼は大陸で成立したばかりの共産党政権を支持している。一方、右翼は台湾に移った蒋介石を支援するために武器を送ろうとしている。前に読んだ新潮文庫の解説は三島由紀夫が書いているが、三島は「『風媒花』の女主人公(ヒロイン)は中国なのであり、この女主人公だけが憧憬と渇望と怨嗟と征服とあらゆる夢想の対象であり、つまり恋愛の対象なのである」と喝破している。この三島の解説は講談社文芸文庫でも収録して欲しかった。
蜜枝が峯三郎に「毛沢東と私とどっちを愛しているの」と聞く印象的なシーンがあるが、まさにそういう言葉が成り立ちうる時代だったのである。この小説では朝鮮戦争に中国が「人民義勇軍」を送り、事実上の米中戦争になった時代相を背景にしている。「男の世界」では再び中国人民の敵となって、米軍の補給基地となった日本で生きる精神的、物質的苦しさが封じ込められている。それは今から見ればリアリティが欠けている。一番生きているのは蜜枝と桃代の二人の女性である。ただし、この二人の行動も今となれば全く理解出来ないことが多い。
以前は60年代反乱の余韻の中で読んだから、あまり違和感がなかったんだと思う。時代が全く違ってしまい、今では恐ろしく読みにくい小説になった。でもこの小説を無視して「戦後精神史」は理解出来ない。中国革命に理想を見出した時代があったことも、今では理解出来ないだろう。この小説の「新中国」はやはり理想化された部分がある。この時代はまだ、凄絶な権力抗争は起きていなかった。しかし、それはもうすぐ始まったのである。(東北地方の責任者であり、中央政府の副主席だった高崗が失脚したのは1954年2月だった。前年にはソ連のスターリンが死去していた。)