東京都北区の王子駅前にある飛鳥山(あすかやま)は、江戸時代から桜の名所として知られてきた所だけど、僕は行ったことがなかった。自分の家からは、もっと桜がいっぱいの上野公園や隅田公園が近かったからである。でも、そこには戦前に渋沢栄一の邸宅があり、タゴールや蒋介石も訪れた場所だった。空襲でほとんど焼けたが、小さな建物が2つほど残り、国の重要文化財に指定されている。近代の重文建築は、東京では非常に貴重なので是非一度訪れたいと思っていた。今日は暑くなくて散歩日和だから…ではなく、栄一の孫の渋沢敬三の誕生日で無料なので、行ってみることにした。(ま、300円なんですけど。)重文の建物は、青淵文庫(せいえんぶんこ)と晩香慮(ばんこうろ)。こんな感じ。

で、僕の家からはいろいろな行き方がある。でも、まあ都電でしょ、やっぱり。唯一の都電(東京の路面電車ですね)、荒川線は三ノ輪橋-早稲田間を結んでいる。早稲田や三ノ輪はまた別に散歩記を書きたいんだけど、今日は「貸切都電」というのが停まっていたので、写真をちょっと。三ノ輪橋停留場は、オロナミンCやボンカレーのホーロー看板が今も残っている不思議な場所である。広告の顔が誰か、もう知らない人が多いかもしれない。(大村崑と松山容子)

さて、都電は王子を過ぎるところ(というか早稲田から来れば手前)に大カーブがあり、これが有名。つい飛鳥山まで乗ってしまったが、飛鳥山ではなくて王子の方が良かった。歩いて戻る。というのも、もう一つ乗りたいものがある。ケーブルカーみたいなモノレール、あすかパークレールという無料の乗り物が2009年に出来たのである。飛鳥山はこんなものがなくても登れるけど、まあタダだし。たった2分で山頂へ。他の客はいない。前を見てると、山の観光地に来た感じもちょっとする。

山頂駅まであっという間で、後は水平の道をずっと歩いて行く。碑がいろいろある。まず1881年に建てられた、幕末の佐久間象山が詠んだ桜賦の詩碑。もう少し行くと、飛鳥山の碑。1737年というずいぶん昔のもので、飛鳥山に将軍吉宗が桜を植えて整備したなどと書いてあるらしい。けれど、江戸時代から漢文が難し過ぎて花見の庶民にはチンプンカンプンの碑として有名だったということである。北区のサイトに細かな解説がある。園内はちょっとした山の風情。

もう公園の終わりの方に三つの博物館エリアがある。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」「渋沢資料館」である。何で「紙の博物館」がここにあるかというと、王子製紙があったからである。明治初期に渋沢栄一が作った。東京西部の玉川用水を、さらに練馬、板橋から王子まで引いた千川用水といううのがあったのである。それを利用して、抄紙会社(後の王子製紙)や大蔵省紙幣寮抄紙局(今の印刷局滝野川工場)が作られた。しかし王子工場は空襲でほぼ壊滅、唯一残った建物を「紙の博物館」にしたのが、今は飛鳥山に移ったという歴史がある。王子製紙という会社は知ってるけど、今の王子には工場もビルもないから、今まで全然意識しなかった。

さて、渋沢資料館。(上の写真。右は資料館2階入り口の渋沢像。)ここはとても面白い博物館だった。僕はほとんど全然渋沢栄一(1840~1931)を知らないので、とても感心してしまった。幕末にパリの万博に派遣された話も面白いが、何と言っても日本初の銀行はじめ、無数の会社を作った人なのである。数字が付いてる銀行が今もあちこちにあるが、「第一銀行」(今の「みずほ」)は渋沢である。他にあげてみると、先の王子製紙、さらに東京ガス、東京海上火災、秩父セメント、帝国ホテル、サッポロビール、東洋紡績、帝国劇場など、非常に多彩。その分野で日本初の会社というのが多い。しかも、それらで得た利益は社会事業や教育につぎ込んでいる。商業教育や女子教育、社会福祉や国際協調などに活躍してるんだから、すごく「進歩的」である。会社経営を引退しても、福祉や教育は引退していない。90歳近くになってから日本女子大校長、中央盲人会会長、癩予防協会会頭などを引き受けている。日米親善のため人形を送るというのも渋沢栄一の活動。大正、昭和初期の古稀(70歳)を過ぎた老人が、驚くほど若々しく、未来を考えている。いやあ、これはすごい人ですね。

栄一の孫、渋沢敬三(上のチラシの人)が後継者となるが、彼は会社経営から、日銀総裁や大蔵大臣を務めた。さらに柳田國男に師事した民俗学者として著名で、ぼう大な民俗資料を収集し、著述も多い。今は民俗学の巨人として多くの人を育てたことが最大の業績として有名だろう。そういう後継者を育てたということこそ、渋沢栄一の特徴かもしれない。敬三の没後50年ということで、今は敬三の号、祭魚洞(さいぎょどう)にちなんだ「祭魚洞祭」という企画を行っている。連続講座もあるし、また無料日もあるので、くわしくはホームページで。
さて、近くに重文の建物があり、資料館開館時はそちらも見られる。どっちも小さな建物で、東京に残る洋館、旧岩崎邸や旧前田邸などを期待するとガッカリするが、細部までこだわった美しい建築に小さいながら満足できる。まず、晩香慮(ばんこうろ)だが、1917年に栄一喜寿を祝って現在の清水建設が贈ったという、1階しかない小さな建物だが、談話室に当時の面影が残る。中は写真が撮れないので、外だけ。中の様子は貰ったパンフを載せておく。

一方、青淵文庫は1925年に、傘寿(80歳)と子爵になった記念(それまで男爵、ちなみに財閥当主は男爵止まりに対し、社会活動が認められ渋沢栄一だけ子爵に栄進できたらしい)で贈られたもの。「文庫」というのは、もともと徳川慶喜伝を作るための資料や栄一の思想的バックボーンの「論語」関係書籍を収めることを目的にしたから。でも本は関東大震災で焼けてしまい、もっと早く出来ていれば良かったと残念に思ったという。ここは2階があるが見られない。内部はフラッシュなしなら写真も可。ここも細部が素晴らしい建物で、とても気持ちがいい場所である。裏から見ても素晴らしい。この2つだけでも残ったのが、大変貴重である。とても大事な場所だと思うが、東京でも知らない人が結構多いのではないか。一度は是非。


で、僕の家からはいろいろな行き方がある。でも、まあ都電でしょ、やっぱり。唯一の都電(東京の路面電車ですね)、荒川線は三ノ輪橋-早稲田間を結んでいる。早稲田や三ノ輪はまた別に散歩記を書きたいんだけど、今日は「貸切都電」というのが停まっていたので、写真をちょっと。三ノ輪橋停留場は、オロナミンCやボンカレーのホーロー看板が今も残っている不思議な場所である。広告の顔が誰か、もう知らない人が多いかもしれない。(大村崑と松山容子)



さて、都電は王子を過ぎるところ(というか早稲田から来れば手前)に大カーブがあり、これが有名。つい飛鳥山まで乗ってしまったが、飛鳥山ではなくて王子の方が良かった。歩いて戻る。というのも、もう一つ乗りたいものがある。ケーブルカーみたいなモノレール、あすかパークレールという無料の乗り物が2009年に出来たのである。飛鳥山はこんなものがなくても登れるけど、まあタダだし。たった2分で山頂へ。他の客はいない。前を見てると、山の観光地に来た感じもちょっとする。



山頂駅まであっという間で、後は水平の道をずっと歩いて行く。碑がいろいろある。まず1881年に建てられた、幕末の佐久間象山が詠んだ桜賦の詩碑。もう少し行くと、飛鳥山の碑。1737年というずいぶん昔のもので、飛鳥山に将軍吉宗が桜を植えて整備したなどと書いてあるらしい。けれど、江戸時代から漢文が難し過ぎて花見の庶民にはチンプンカンプンの碑として有名だったということである。北区のサイトに細かな解説がある。園内はちょっとした山の風情。



もう公園の終わりの方に三つの博物館エリアがある。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」「渋沢資料館」である。何で「紙の博物館」がここにあるかというと、王子製紙があったからである。明治初期に渋沢栄一が作った。東京西部の玉川用水を、さらに練馬、板橋から王子まで引いた千川用水といううのがあったのである。それを利用して、抄紙会社(後の王子製紙)や大蔵省紙幣寮抄紙局(今の印刷局滝野川工場)が作られた。しかし王子工場は空襲でほぼ壊滅、唯一残った建物を「紙の博物館」にしたのが、今は飛鳥山に移ったという歴史がある。王子製紙という会社は知ってるけど、今の王子には工場もビルもないから、今まで全然意識しなかった。


さて、渋沢資料館。(上の写真。右は資料館2階入り口の渋沢像。)ここはとても面白い博物館だった。僕はほとんど全然渋沢栄一(1840~1931)を知らないので、とても感心してしまった。幕末にパリの万博に派遣された話も面白いが、何と言っても日本初の銀行はじめ、無数の会社を作った人なのである。数字が付いてる銀行が今もあちこちにあるが、「第一銀行」(今の「みずほ」)は渋沢である。他にあげてみると、先の王子製紙、さらに東京ガス、東京海上火災、秩父セメント、帝国ホテル、サッポロビール、東洋紡績、帝国劇場など、非常に多彩。その分野で日本初の会社というのが多い。しかも、それらで得た利益は社会事業や教育につぎ込んでいる。商業教育や女子教育、社会福祉や国際協調などに活躍してるんだから、すごく「進歩的」である。会社経営を引退しても、福祉や教育は引退していない。90歳近くになってから日本女子大校長、中央盲人会会長、癩予防協会会頭などを引き受けている。日米親善のため人形を送るというのも渋沢栄一の活動。大正、昭和初期の古稀(70歳)を過ぎた老人が、驚くほど若々しく、未来を考えている。いやあ、これはすごい人ですね。

栄一の孫、渋沢敬三(上のチラシの人)が後継者となるが、彼は会社経営から、日銀総裁や大蔵大臣を務めた。さらに柳田國男に師事した民俗学者として著名で、ぼう大な民俗資料を収集し、著述も多い。今は民俗学の巨人として多くの人を育てたことが最大の業績として有名だろう。そういう後継者を育てたということこそ、渋沢栄一の特徴かもしれない。敬三の没後50年ということで、今は敬三の号、祭魚洞(さいぎょどう)にちなんだ「祭魚洞祭」という企画を行っている。連続講座もあるし、また無料日もあるので、くわしくはホームページで。
さて、近くに重文の建物があり、資料館開館時はそちらも見られる。どっちも小さな建物で、東京に残る洋館、旧岩崎邸や旧前田邸などを期待するとガッカリするが、細部までこだわった美しい建築に小さいながら満足できる。まず、晩香慮(ばんこうろ)だが、1917年に栄一喜寿を祝って現在の清水建設が贈ったという、1階しかない小さな建物だが、談話室に当時の面影が残る。中は写真が撮れないので、外だけ。中の様子は貰ったパンフを載せておく。


一方、青淵文庫は1925年に、傘寿(80歳)と子爵になった記念(それまで男爵、ちなみに財閥当主は男爵止まりに対し、社会活動が認められ渋沢栄一だけ子爵に栄進できたらしい)で贈られたもの。「文庫」というのは、もともと徳川慶喜伝を作るための資料や栄一の思想的バックボーンの「論語」関係書籍を収めることを目的にしたから。でも本は関東大震災で焼けてしまい、もっと早く出来ていれば良かったと残念に思ったという。ここは2階があるが見られない。内部はフラッシュなしなら写真も可。ここも細部が素晴らしい建物で、とても気持ちがいい場所である。裏から見ても素晴らしい。この2つだけでも残ったのが、大変貴重である。とても大事な場所だと思うが、東京でも知らない人が結構多いのではないか。一度は是非。




映画『妹』は、鎌倉の民芸品店や原宿のフリーマーケット、おかしな伊丹十三など、日本の1970年代をよく表現した傑作で、大好きな作品です。
娘に見せたら「軽くて良い」と生意気なことを行っていましたが。
資本家と言っても、昔の人は違いますね、世の中や他の人に利益を還元しなくてはいけないという思想があり、昔の自民党の議員は、大体そうでしたが、今の連中は自己利益だけですね。
都電は、柳町光男「愛について、東京」や平山秀幸「しゃべれども しゃべれども」なんかでも印象的でした。寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」も早稲田近くの都電だと思います。映画には、昔の街がいろいろと残されていて、それを見つける楽しみがありますね。
最近好きになった堀江敏幸「いつか、王子駅で」という小説も、名前の通り王子駅でした。