尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「埼玉の日光」、国宝妻沼聖天山を見に行く

2025年01月12日 20時16分36秒 | 東京関東散歩

 妻沼(めぬま)と言われても難読地名だろう。埼玉県北部、川向こうは群馬県太田市という辺りである。2005年に熊谷市と合併して、今は自治体名としては残っていない。昔、東武鉄道熊谷線という熊谷と妻沼を結ぶ短い路線があったので、名前だけは小さい頃から知っていた。(本来は太田市にあった中島飛行機への資材搬送のため計画された路線だったようである。敗戦で必要が薄れて、短いまま運行されていたが、1983年に廃止された。)その妻沼にある歓喜院聖天山(かんぎいん・しょうてんざん)の本堂国宝に指定されたというニュースがあったのが2012年。エッ、聞いたことないんですけど。

 いつか行きたいと思っていて、ようやく今年の正月に出かけてみた。なかなか場所的には行きにくいのである。熊谷と大田方面を結ぶバスはあるようだが、なかなか遠そうだ。車で行っても関越道と東北道の中間になり、どっちからも距離がある。しかし、まあ隣県なんだから日帰り出来る範囲である。関東の国宝建造物は日光(東照宮、輪王寺)、鎌倉(円覚寺舎利殿)の他は富岡製糸場、足利の鑁阿寺、赤坂の迎賓館、東村山の正福寺地蔵堂しかないので、非常に貴重で気になる場所である。

   

 上記写真にあるのが本堂の奥殿で、ここが国宝エリア。ここまで行くのもなかなか遠いのだが、本堂まで行っても一番大事なところは見られない。まあちょっとは見えるんだけど、奥の方に日光の東照宮陽明門みたいな見事な彫刻に覆われた黄金の建物が見えている。そこは有料エリア(700円)だけど、入らないと意味がない。ただエリアが板で囲われているので、全体を写真で撮るのが難しい。陽が差していると金箔が輝いてキレイだけど、写真が難しい。自分で撮るのがなかなか難しい場所である。色彩がかなり褪せていたらしいが、2003年から11年まで修復工事が行われ、その完成を待って国宝に指定されたのである。

   

 創建は平安末期だが、この本堂は江戸時代中期に再建された。具体的には1735年から60年で、東照宮みたいな権現造というらしい。奥殿は本堂に接続し、残り3面に彫刻が施されている。それは仏教をベースに儒教や道教などの教えを平明に説くものらしい。ボランティアの説明があるので聞けばよく判る。面白いんだけど、全部書いてても仕方ないから省略。写真ももっと撮ってるけど、あまり多く載せても仕方ないから省略。この彫刻が素晴らしいので、「埼玉の日光」と呼ばれる。一見の価値がある。 

   

 上の写真が本堂で、その奥に奥殿があるわけだ。合わせて国宝に指定されている。寺伝によると、1179年に斎藤実盛(さいとう・さねもり)によって建立されたと言われる。斎藤実盛はこの地域を本拠とした武将で、源氏の内紛で源義賢が討たれた時、まだ幼児だった義仲を木曽に送り届けた人である。その後は平氏に従っていて、源平合戦になると義仲追討軍に加わることになった。1183年、加賀国の篠原の戦いで討ち死にしたが、事前に覚悟を固めて白髪を黒く染めて出陣した。このエピソードは『平家物語』で後世に伝えられている。江戸時代初期の1670年に大火で焼失し、それを江戸中期に20数年かけて再建された。

(斎藤実盛像)

 ここにはもう一つ見どころがある。国指定重要文化財貴惣門という境内正面にある門である。横から見ると三つの破風を持つ特異な様式と調べて知ったのが今なので、うっかり正面しか撮らなかった。1855年頃完成という。持国天、多聞天を左右に配している。他にも国の登録有形文化財指定の建物は多いけど、国宝の本堂にかなり圧倒されたので、他は写真を撮らなかった。また本尊になっている錫杖(しゃくじょう)が重文に指定されている。下が貴惣門。

   

 この地域はやたらに長い稲荷寿司が名物で、「聖天寿司」というらしい。まあ買わないけど。境内に占い師がいて、寒い中ストーブに当たって客待ちしていたが、誰も相談してない感じだった。境内に鰻屋もあったし、なかなか広いお寺だった。車で5分ほどのところに「道の駅めぬま」があって地場農産物も多い。「妻沼ねぎ」という名前で束にしたネギを売っていた。まあ隣が深谷なので、深谷ネギと同じような品種だと思う。帰りは車で羽生方面に向かう途中に荻野吟子記念館があった。

   

 荻野吟子(1851~1913、おぎの・ぎんこ)というのは、日本最初の「女医」である。日本全体ではそんなに知られてはいないと思うが、埼玉県では「埼玉三偉人」の一人となっている。(後の二人は塙保己一(はなわ・ほきいち)と渋沢栄一。)日本で最初の女性医師はシーボルトの娘じゃないのという人もいるかもしれない。しかし、「正式な国家資格第Ⅰ号」は荻野吟子で、1884年のことだった。1868年に結婚するも夫から淋病をうつされて離婚し、その時の体験から女性医師の必要性を痛感して勉強を始めた。東京女子師範(現お茶の水女子大)を首席で卒業し、その後医学を学ぶも国家試験を受けることすら認められなかった。そこを何とか苦労の末に突破するのだが、それは映画にもなっている。時間がなくて記念館は見なかったが、生誕の地の碑が立っている。


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