尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東京23区の北の端でー僕の東京物語①

2025年01月26日 22時02分44秒 | 自分の話&日記

 2年前まで日本の山や温泉を毎月1回書くシリーズを書いていた。それを終わりにした後で、なんか違うシリーズを始めたいと思ったけれど、ちょうど母親の入院と重なって書く機を逸してしまった。それが「僕の東京物語」である。実は東京新聞の最終面に「私の東京物語」という連載コラムがあって、著名人がそれぞれの東京の思い出を書き綴っている。まあ、それと同じなんだけど、自分なりに関わりのあった思い出の地を書き残してみようかと思ったのである。

 このブログを書き始めてもう15年ぐらい経つ。いつまで書けるか知らないが、まあ誰かと同じようなことを書いても仕方ない。絶対に誰も書いてないのは、自分自身の思い出である。とは言っても自分の仕事は教員だったから、面白いエピソードは大体「個人情報」に触れてしまう。そこで「場所」の方をメインにして書こうかと思いついたわけである。 

 「自伝」とは違うけど、まあ最初は自伝的に。僕は東京23区の北の端、足立(あだち)区という所で育った。1歳まで墨田区にいたらしいが、当然記憶はない。記憶は足立区から始まる。と言っても、全国的にはどこというイメージが湧かないと思う。北千住西新井大師があるが、東京人でも行ったことがない人の方が多いだろう。この前書いた寅さんゆかり、あるいは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(または「キャプテン翼」)に関係する隣の「葛飾(かつしか)区」の方が有名だろう。

(足立区立伊興小)

 しかし、足立区だろうが葛飾区や他の区も含めて東京23区の周縁部は、高度成長時代以前はほぼ農村地帯だった。ただ西の方は畑が多かったが、東の方は田んぼが主流だった。つまり、僕が小学校に通っていた時代には、通学路はほぼ水田地帯だったのである。あぜ道を歩いて通学していたのである。春になるとレンゲが咲き、やがて田植え、秋に稲刈りがあり、木に掛けて干す。それを「稲架掛け(はさかけ)」というらしいが、その一連の仕事を見て育った。冬になると、水田の水は落とされ乾いたところに鷺がよく来ていた。そうやって、就学時期が来て「足立区立伊興小」に通学するようになった。

 ということで伊興小に行ってみよう。行ったのはお正月のころだけど、アレ、どこだ、迷ってしまったじゃないか。仕方ない、スマホで検索するかと思ったら、スマホがないじゃないか。時々スマホを忘れて出てしまうのである。小学校は駅に行くのとは方向が違うので、もう半世紀以上ちゃんと行ったことがない。そうすると行き方を忘れてしまうのである。そんなことがあるのか。

 翌日地図を確認して出かけたら、ようやく着いた。こんなところにあったのか。案外遠いのに驚いた。子どもは元気だし、皆で行っていたから、遠さは感じてなかった。今はネットが張りめぐらされていて、写真を撮りにくい。ボール飛びだし予防もあるが、写真を撮りにくくする意味もあるのかもしれない。子どもがいたら、盗撮っぽくて撮りにくい。だから正月に行ったわけ。 

(校庭)

 校歌の2番をホームページで確認してみると、「東に筑波 西に富士 平和の旗はたなびきて 自由のかねのなるところ」とある。この歌詞とメロディは今も覚えているが、「平和」「自由」はいかにも「戦後の校歌」という感じがする。ところで、このように富士山筑波山を対比させる校歌は、自分が通学通勤した学校に多かった。しかし、もう僕の子ども時代に筑波山は見えなくなっていた。家が建ち並び始めていて、標高が低い筑波は見えないのである。しかし、特に空気が澄み渡る冬になれば富士山はよく見えた。今は家からは見えないが、電車に乗って荒川鉄橋を渡るときなど富士山がよく見える。(冬だけだが。)

(今は家ばかりの通学路)

 小学校2年、3年時の担任の先生は片足が悪かった。傷痍軍人だったのである。そしてバイオリンが得意で、時々弾いてくれた。図工の時間にはよく校舎外に「写生」に行かせてくれた。学校の周りは田んぼで、田植え前の時期にはレンゲがキレイ。周りにメダカがいる小川が流れていて、その辺りに腰掛けてスケッチするのである。時間があったらレンゲを摘んで首飾りを作ったり、皆で遊び回る。そんな自然環境が東京23区だけど、1960年代にはまだ残っていたわけである。

 自分の家で飼っていたニワトリがイタチに襲われて全滅したのも覚えている。そんな地域に住んでいたわけだから、周囲は空き地だらけ。「秘密基地」みたいな隠れ場所もいっぱいあったが、それらはほぼ1970年前後に無くなった。昨日まで遊んでいた雑木林が、今日見たら重機が入って土地がならされていた。そこに住宅が建って、あっという間に開発されていった。もともとただの郊外農村だったから、特に伝統ある祭りとか名物など何もなかった。そして風景も変わってしまった。

 僕には昔から「アイデンティティの拠り所」がないという気持ちに囚われていたが、それはこういう環境で育ったことが大きいと思う。僕の若い頃に「外地帰還者の文学」が注目されていた。僕はそういう体験とは違うけれど、何か似たような通じるものがあるのかと思う。僕が若い頃に感じていたのは「居場所が失われていく」という感覚だった。いつの間にかなじんでいた風景が無くなってしまうのである。今は肯定的なイメージで語られる「高度成長」だが、中で生きている時は激しい変化に付いて行くことが大変な時代だった。だから僕は「故郷がない」という感覚で育っていくのである。


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