連休中は大島渚(国立映画アーカイブ)やゴダール(角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷)をつい何本か見てしまった。やっぱり時代が違っていて、なんで見に行ったんかなあと正直思った。その間に新作もずいぶん公開されたが、最近見た阪本順治監督の新作『せかいのおきく』は傑作だった。しかし、『せかいのおきく』は3週目に入ったら上映が減っている。黒木華、寛一郎、池松壮亮主演で、拡大公開もされたから大ヒットしてもいいのだが…。
この映画のチラシを初めて見たときは、てっきり「世界の記憶」かと思った。そうしたら、よく見れば『世界のおきく』という題名だった。これは阪本順治監督初めての「時代劇」で、幕末期の気高い青春物語である。何と大部分が白黒で、ところどころパートカラーという映画だった。安政五年(1858年)から万延を経て、文久二年(1862年)までの江戸が舞台だが、安政の大獄も桜田門外の変も出て来ない。外国貿易も出て来ない。世は「尊皇攘夷」で騒がしくなりつつあるが、それも関係ない。
(池松壮亮と寛一郎)
矢亮(やすけ=池松壮亮)と中次(ちゅうじ=寛一郎)は、武家屋敷や長屋を回って人々の糞尿を集める「汚穢屋」(おわいや)である。江戸では肥料として糞尿を近隣の農家に売る「循環経済」が成立していたのである。その糞尿を集めるのが「汚穢屋」である。インドと違って被差別身分の人々が担当したわけではない。矢亮は郊外に住んでいるが、中次は江戸市中の長屋にいる。つまり「町人身分」なのだが、それでも周囲の人々からは見下されている。この映画は江戸時代の循環社会を描くと同時に、世界映画史上に冠たる「糞尿映画」でもあった。まあホンモノじゃないと思うけど、これじゃあデートに使えないというリアルさである。
(おきくと出会う)
ある日雨が降ってきて、矢亮とその頃は紙くず拾いをしていた中次が雨宿りをしていると、そこへおきく(黒木華)も雨宿りに来る。武家の娘であるが、故あって今は長屋に落ちぶれている。父親松村源兵衛(佐藤浩市)は、勘定方として不正を見過ごせず上司に報告したところお役御免になってしまったのである。母も亡くなり、おきくは木挽町の貧乏長屋に住んで、寺子屋で読み書きを教えている。今では「屁」とか「糞」とか平気で言えるようになってしまったと父に当たる勝ち気ぶりは見応えがある。
(長屋のおきく)
その後、執念深い敵は長屋まで源兵衛を追ってきて、父は殺されてしまう。その時おきくも、首筋を切られて言葉を出せなくなってしまった。つまり、後半のおきくは全くの無言である。何とか命は助かったものの長屋の一室に引きこもったおきくだが、そんな時も「汚穢屋」の中次だけは親切にしてくれる。これは「身分違いの恋」なんだろうか。お互いに戸惑いながらも惹かれあっていく様子を、黒木華は実に繊細に演じている。長いコロナ禍の間にCM女優の印象が強くなった黒木華だけど、これは主演女優賞がやっと回ってくるかもしれない傑作だと思う。
(寺子屋に戻ったおきく)
長屋のセットも素晴らしい。近年の阪本作品をずっと担当している笠松則通の撮影も実に見事。だけど、リアルすぎてちょっと敬遠したくなる人もいるだろう。今の若い人は「肥溜め」(こえだめ)を知らないと思う。僕の子どもの頃は周りにいっぱいあって、落ちた子もいるという話だった。どんな田舎だよと思うかもしれないが、僕は東京生まれ、東京育ちである。妻は日本一の米どころ新潟県出身だが、市内中心部で育ったから稲作を全然知らない。逆に東京区部だけど、周りが田園地帯だった僕は毎日あぜ道を通って小学校に通っていたのである。
(おきくと中次)
この映画だけ見ると、集めた糞尿をそのまま畑にまくように思うかもしれない。しかし、それは間違いで、集めた糞尿は肥溜めで発酵させてから肥料にするのである。よく見ると、映画でも一度肥溜めに入れて、その肥をまいている。それはともかく、「汚穢」の世界に気高く生きる「おきく」と二人の青年は、表層の激動とは関わりなく必至に生きている。もうすぐ「ご一新」になるとはまだ誰も知らない。中次役の寛一郎は、佐藤浩市の息子で、親子共演。父が踏ん張って、早く汲み上げたい子が外で待つシーンがおかしい。阪本順治監督としてもデビュー作『どついたるねん』やベストワンになった『顔』レベルの忘れがたい名作である。まあ、頑張って是非見て下さい。
この映画のチラシを初めて見たときは、てっきり「世界の記憶」かと思った。そうしたら、よく見れば『世界のおきく』という題名だった。これは阪本順治監督初めての「時代劇」で、幕末期の気高い青春物語である。何と大部分が白黒で、ところどころパートカラーという映画だった。安政五年(1858年)から万延を経て、文久二年(1862年)までの江戸が舞台だが、安政の大獄も桜田門外の変も出て来ない。外国貿易も出て来ない。世は「尊皇攘夷」で騒がしくなりつつあるが、それも関係ない。
(池松壮亮と寛一郎)
矢亮(やすけ=池松壮亮)と中次(ちゅうじ=寛一郎)は、武家屋敷や長屋を回って人々の糞尿を集める「汚穢屋」(おわいや)である。江戸では肥料として糞尿を近隣の農家に売る「循環経済」が成立していたのである。その糞尿を集めるのが「汚穢屋」である。インドと違って被差別身分の人々が担当したわけではない。矢亮は郊外に住んでいるが、中次は江戸市中の長屋にいる。つまり「町人身分」なのだが、それでも周囲の人々からは見下されている。この映画は江戸時代の循環社会を描くと同時に、世界映画史上に冠たる「糞尿映画」でもあった。まあホンモノじゃないと思うけど、これじゃあデートに使えないというリアルさである。
(おきくと出会う)
ある日雨が降ってきて、矢亮とその頃は紙くず拾いをしていた中次が雨宿りをしていると、そこへおきく(黒木華)も雨宿りに来る。武家の娘であるが、故あって今は長屋に落ちぶれている。父親松村源兵衛(佐藤浩市)は、勘定方として不正を見過ごせず上司に報告したところお役御免になってしまったのである。母も亡くなり、おきくは木挽町の貧乏長屋に住んで、寺子屋で読み書きを教えている。今では「屁」とか「糞」とか平気で言えるようになってしまったと父に当たる勝ち気ぶりは見応えがある。
(長屋のおきく)
その後、執念深い敵は長屋まで源兵衛を追ってきて、父は殺されてしまう。その時おきくも、首筋を切られて言葉を出せなくなってしまった。つまり、後半のおきくは全くの無言である。何とか命は助かったものの長屋の一室に引きこもったおきくだが、そんな時も「汚穢屋」の中次だけは親切にしてくれる。これは「身分違いの恋」なんだろうか。お互いに戸惑いながらも惹かれあっていく様子を、黒木華は実に繊細に演じている。長いコロナ禍の間にCM女優の印象が強くなった黒木華だけど、これは主演女優賞がやっと回ってくるかもしれない傑作だと思う。
(寺子屋に戻ったおきく)
長屋のセットも素晴らしい。近年の阪本作品をずっと担当している笠松則通の撮影も実に見事。だけど、リアルすぎてちょっと敬遠したくなる人もいるだろう。今の若い人は「肥溜め」(こえだめ)を知らないと思う。僕の子どもの頃は周りにいっぱいあって、落ちた子もいるという話だった。どんな田舎だよと思うかもしれないが、僕は東京生まれ、東京育ちである。妻は日本一の米どころ新潟県出身だが、市内中心部で育ったから稲作を全然知らない。逆に東京区部だけど、周りが田園地帯だった僕は毎日あぜ道を通って小学校に通っていたのである。
(おきくと中次)
この映画だけ見ると、集めた糞尿をそのまま畑にまくように思うかもしれない。しかし、それは間違いで、集めた糞尿は肥溜めで発酵させてから肥料にするのである。よく見ると、映画でも一度肥溜めに入れて、その肥をまいている。それはともかく、「汚穢」の世界に気高く生きる「おきく」と二人の青年は、表層の激動とは関わりなく必至に生きている。もうすぐ「ご一新」になるとはまだ誰も知らない。中次役の寛一郎は、佐藤浩市の息子で、親子共演。父が踏ん張って、早く汲み上げたい子が外で待つシーンがおかしい。阪本順治監督としてもデビュー作『どついたるねん』やベストワンになった『顔』レベルの忘れがたい名作である。まあ、頑張って是非見て下さい。
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