尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

外国映画-2015年キネマ旬報ベストテン③

2016年02月11日 22時59分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 キネ順ベストテンの外国映画部門の話。とりあえず順位を紹介。
マッドマックス 怒りのデスロードアメリカン・スナイパーアンジェリカの微笑みバードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)黒衣の刺客神々のたそがれセッション雪の轍インヒアレント・ヴァイスおみおくりの作法

 続いて、⑪イミテーション・ゲームさらば、愛の言葉よサンドラの週末パプーシャの黒い瞳フォックスキャッチャーナイト・クローラー黄金のアデーレ 名画の帰還独裁者と小さな孫ミッション・インポッシブル/ローグ・ネーションアリスのままで

 21位以下は、KANO、妻への旅路、裁かれるは善人のみ、キングスマン、涙するまで生きる、ターナー、アクトレス、ラブバトル、はじまりのうた、あの日の声を探して

 面倒だからこれ以上書かないけど、今年は例年以上に当たりが良くて、「おみおくりの作法」を除いて、20位まで全部見ている。20位以下でも、妻への旅路、ラブバトル、はじまりのうた以外は見ている。新作をそんなに見ている意識はないんだけど、まあ、選ばれそうな作品が大体判るということだろう。ここ10数年のベストテンと同じく、さまざまなタイプの批評家がそれぞれ投票することで、「誰もが納得できない結果」になっている。ベスト3を全部自分の10本に選んでいる人は3人しかいない。一方、3本とも選んでいない人は22人で、投票者の3人に1人にあたる。どっちかというと、自分もそっちの方。このように、映画を通して「評価の多様性」という現代社会が浮かび上がる。「多元主義」で、あれもこれも見て、それなりに良さを見つけていける人でないと、面白い映画を見逃してしまう。

 それにしても、またクリント・イーストウッドが2位になっている。毎年毎年、イーストウッド映画に高得点を与えて、日本の批評家もよく飽きないものだという感じもする。作品ごとの評価だと言えば、それまでだが。僕もここで書いたように、昨年1位の「ジャージー・ボーイズ」や「アメリカン・スナイパー」は名作で、見るべき映画だと思う。でも、1位とか2位とかに入れる気はしない。見る前から判っているような出来の良さを再確認するような鑑賞時間になっているから。それは実は1位の「マッドマックス 怒りのデスロード」も同じような感じで、公開当時から大評判になったから1位に入れる人がいるだろうなとは思って、予想外ではないが、僕には予想通り面白かったという感じの映画である。

 ホウ・シャオシェンの「黒衣の刺客」も、美しすぎる作家性の高い武侠映画で不満が残る。作家性は大切にしたいが、「神々のたそがれ」「雪の轍」「インヒアレント・ヴァイス」のような映画でこそ、僕は納得できる。これらの映画と「裁かれるは善人のみ」が、まあ自分では上の方に来ると思う。それと「バードマン」で、アカデミー賞作品賞にしては前衛っぽいが、非常に面白かった。一方、「セッション」は題材が好きではないので、ダメ。「フォックスキャッチャー」もさすがの僕にも暗すぎ。「黄金のアデーレ」は僕はあまり評価できなかった。あの絵はウィーンにあった方が良いのではないだろうか。「ナイト・クローラー」は題材が面白いが、好きになれない。そういうタイプの映画もある。

 「ミッション・インポッシブル」の新作はあまり面白くなく、それならナポレオン・ソロの新作「コードネームU.N.C.L.E」の方が面白く、「キングスマン」の方がもっと面白いと思う。「顔のないヒトラーたち」は38位に選ばれているが、もう一本の「ヒトラー暗殺、13分の誤算」がない。一生懸命探したら、116位に入っている。これは映画の完成度からすると、逆の評価だと思う。戦後になって、アウシュヴィッツ追及を始める若手検事を描く前者のウェルメイドに比べ、「早すぎた抵抗者」と言われ本国でも忘れられていた人物を厳しく描く後者の方が見て欲しい映画である。

 ここでも書いた「ジミー、野を駆ける伝説」や「わたしに会うまでの1600キロ」「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」、「薄氷の殺人」「マジック・イン・ムーンライト」などが、50位以下に続々と並んでいる。毎年のことだけど、「一部受け」する映画が上の方にランクインして、多くの人がいいとは思いつつ12位とか13位とかに評価するような映画が思った以上に下位に沈んでしまう。僕に言わせれば、「さらば、愛の言葉よ」や「ミッション・インポッシブル」よりも、ずっと見応えがあると思う。まあ、ベストテンに入るかというと、僕もそこまではいかないと思うけど。これで、簡単に外国映画を見たことにしてオシマイ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本映画と文化映画ー2015年キネマ旬報ベストテン②

2016年02月10日 23時46分45秒 | 映画 (新作日本映画)
 前回、今年のベストテンそのものに触れられなかったので、それを書いておきたい。まず、文化映画から。文化映画だけは、ベストワンしか報道発表されないから、他の作品も紹介。

沖縄 うりずんの雨(ジャン・ユンカーマン)②戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ、三上智恵)③瀬戸黒-加藤孝造のわざ-(村山正実)④“記憶”と生きる(土井敏那)⑤芭蕉布-平良敏子のわざ-(謝名元慶福)⑥福島 生き物の記録 シリーズ3~拡散~(岩崎雅美)⑦生命の誕生~絶滅危惧種メダカの発生~(豊岡定夫)⑧放射能を浴びたX年後2(伊藤英朗)⑨日本と原発(河合弘之)⑩みんなの学校(眞鍋俊永)

 次点には「首相官邸の前で」が入っている。投票者は16人で、過半数を獲得しているのは2位だけ(9人)。そういう点は劇映画と同じである。僕は最近これらの映画をきちんと見ていなくて、見ているのはベストワン作品だけである。でも岩波ホールで公開された時に、この映画の記事は書かなかった。既視感を否めなかったからである。これらをみると、「沖縄」と「原発」が大きなテーマだと判る。また、長編記録映画ばかりでなく、③⑤⑦のような30分程度の伝統工芸や科学をテーマとする短編も選ばれている。これらの映画ももっと一般的に見る機会があればと思う。

 次に日本映画。劇映画の監督は簡単に調べられるから省略する。
恋人たち野火ハッピーアワー海街diary岸辺の旅GONINサーガこの国の空ソロモンの偽証 前編偽証/後編裁判母と暮らせばきみはいい子ローリング

 次点以下は、⑫駆け込み女と駆け出し男バクマン。FOUJITAさようならさよなら歌舞伎町あん百日紅~Miss.HOKUSAI~トイレのピエタ木屋町DARUMA
 続いて、お盆の弟、映画「深夜食堂」、バケモノの子、味園ユニバース、映画「ビリギャル」、正しく生きる、天空の蜂、心が叫びたがっているんだ、龍三の七人の子分たち、私たちのハァハァ…が30位までである。以下、注目作を挙げておくと、「海難1890」が34位、「くちびるに歌を」が40位、「杉原千畝」「幕が上がる」が48位、「日本のいちばん長い日」が54位…といった具合になっている。

 僕は「母と暮らせば」をまだ見てなくて、「ソロモンの偽証」を見逃している。次点以下では⑬⑮⑲⑳を見てない。でも上位の①②③④⑤⑦⑩(きみはいい子)などは、ここでも記事を書いて紹介したから、まああたりはよかった方だろう。というか、日本映画で高く評価されそうな作品は、長いこと見てれば大体判ると言ってもいいだろう。「恋人たち」は悪くはないけど、エピソードが分裂している感じがする。それを考えると、「ハッピーアワー」が、あれだけ長いのに一気に見られる凄さを1位にしたい。(19日までシアター・イメージフォーラムで再上映中。)
 
 もう一つは「この国の空」で、非常に優れた達成だと思うが、その割に評価が低いと思う。僕は「野火」よりずっと良かった。「野火」はちょっと前に市川崑版を再見したけど、やはり市川版の方が良くて、塚本晋也監督のリメイクより良いように感じた。続いて「海街diary」がいいと思っていて、この3本がベスト3。次が「恋人たち」や「きみはいい子」「岸辺の旅」「FOUJITA」「さよなら歌舞伎町」と続く。

 「GONINサーガ」は最近キネカ大森で、20年前の「GONIN」と続けて見たのだが、前作の方が良かったのではないだろうか。癖アリの俳優がそろって、大活劇が石井隆ワールドで展開される。今回はその時の子どもたちによる復讐戦だけど、どうも設定がリアルではないなあと思う。まあ、そこまで世の中が壊れたのかもしれないが。土屋アンナはとても良かったが。「ローリング」はとても面白いシナリオで、昔盗撮でクビになった高校教師とその時の教え子の何年か後の物語。水戸で撮影されているが、「東京に近い地方都市」以上の扱いではない。主人公のナレーションで進行する面白さはあるが、もっと突き放した方が良かったのではないか。設定にも疑問が多い。公立高校で盗撮したら確実に刑事裁判になり、盗撮ビデオは没収されるはずだと思う。が、それでは話が進行しないことになる。

 かつて問題作を連発した園子音監督は、なんと一年の4本も作ったけど、「ラブ&ピース」「新宿スワン」「リアル鬼ごっこ」「映画 みんなエスパーだよ!」の中で、「ラブ&ピース」の53位が最高。これは見ているが、あまりのくだらなさに絶句した。北野武の「龍三の七人の子分たち」も、まあその程度だろう。未見作品もあるので、ベストテンは決めないことにする。
 
 個人賞は、特に楕男優部門など票がばらつき過ぎで、これで決めていいのかという感じ。主演は二宮和也だが、58人が投票して、たった6票で決定である。5票獲得が永瀬正敏、4票が浅野忠信、オダギリジョー、塚本晋也、大泉洋で、これで決めていいのかという気がする。助演の本木雅弘も7票で、光石研の6票と一票差。あの昭和天皇で助演賞というのも、納得できない気がする。女優は主演が深津絵里、助演が黒木華で、票差は男優より付いている。監督、脚本はどちらも「恋人たち」の橋口亮輔が獲得した。続いて外国映画だけど、長くなってしまったので、別にする。一回だけのつもりがこうして延びて行ってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年キネマ旬報ベストテン①

2016年02月09日 23時38分13秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画雑誌キネマ旬報ベストテン発表号は、毎年2月5日に発売される。中学時代は「SCREEN」を読んでいて、高校に入ってから「キネマ旬報」になった。学生時代はずっと読んでいたのだが、その後とにかくたまってしまうのに困って止めてしまった。だけど、ベストテン号は毎年買っている。

 何しろ1924年からやっているのだから、このキネ旬ベストテンというのも年季が入っている。他にも毎日映画コンクールや日本アカデミー賞など様々な映画賞がいっぱいあるが、歴史性もあってキネ旬の結果は重視されている。(一般紙でも報道される。)話し合いではなく、執筆者の投票オンリーで選んでいるのだから、そこに映画雑誌キネマ旬報(あるいは個々の映画批評家、映画業界など)の意思を読み取ることはできない。1位に10点、以下点を減らして10位に1点を与えて、総計を得票順に並べる。アクション映画部門、恋愛映画部門などの「小選挙区」はない。一年間に公開されたすべての映画を対象にする。(一般公開されてないとダメ。)つまり、「順位付け10本連記制大選挙区制度」である。

 前に一度書いた年(2012年)もあるが、他の年はこの話題はスルーしてきた。実は昔はずっと自分のベストテンを作って公開もしていたのだが、最近は自分なりのベストワンがない年がある。見逃し作品も多いので、誰が見るか判らないブログでは書きにくいし、後追いして見た時には時期を逸している。だから書かないのだが、今回はベストテン投票というものを、現代社会における「選挙の一種」だと思ったので書いてみたいと思ったのである。

 先に書いた投票方法から、例えば投票者が10人だとして、「1人だけが1位に推して他の人は選外の映画と10人が10位に推す映画は等価値である」「10人がみな次点にした映画は無価値である」という原理で選定されている。しかし、それは正しいのだろうか。まあ、投票者が多ければ、それなりの映画は誰かが点を入れて、ある程度の票が入ると考えられる。だから、すべての人が次点にして投票しないという映画は恐らくない。何故かといえば、ベストテン入選映画と言っても、すべての人が高く評価しているわけではないからである。映画的完成度は高くても、感性や思想の違いから選ばれない映画もある。そうすると、次点以下が繰り上がってくるから、結果的にさまざまな映画にばらけてくる。

 実際の投票結果を見てみると、日本映画は59人が投票して123本の映画に点が入っている。外国映画は61人が投票して169本の映画に点が入っている。(編集部の投票も入っているが、これも一人と見なす。)合わせて292本だから、全部見てる人は批評家にもいないだろう。そして、日本映画1位の「恋人たち」には、38人が投票している。1位は16人である。302点を獲得して、2位の「野火」191点に100点以上の差が付いた。「野火」と3位の「ハッピーアワー」、4位の「海街diary」は余り差がなかった。「恋人たち」がベストテン上位に入選するのは不思議ではないが、ここまで「ぶっちぎり」でトップになるとは思わなかった。そう思う人も多いだろう。

 外国映画を見てみれば、1位の「マッドマックス 怒りのデスロード」は18人、2位の「アメリカン・スナイパー」は20人、3位の「アンジェリカの微笑み」は21人と、投票者の過半数の支持が得られていない。というか、3人に一人ぐらいしか入れてない。10位に入れてる人の数だけ見れば、むしろ順位が変わってしまう。日本映画は作られたら一応大体公開されるわけだが、外国映画は評判が高くて輸入してもペイするだろう映画が公開される。だから「粒より度」が日本映画より高いので、票が分散するということが判る。それにしても、日本映画の場合でも「ほとんどの批評家が支持する映画」というのがないのは同じである。日本社会全体と同じく、感性の「多様化」が出来上がっている。

 外国映画の場合で言えば、1位の映画でも批評家の3分の1しか入れてないのだから、このベストテン自体にどのくらい信憑性があるのだろうか。そう思う人も多いだろう。僕も長年見てきて、こういうベストテンは「一応見ておくべき作品」を選ぶ意味ぐらいしかないように思う。誰が選んでも、3本に一本ぐらいしか共通しないのが当然だろう。まあ、映画ファンとして映画について語りたいなら、上位25本程度は押さえておくべきだろうという基準である。当たり前だが、10本しか見てない人はベストテンを選べない。そういう人もベスト3ぐらいは選べるかもしれないが。つまり、10本を選ぶというのは、逆に10本以外を落とすということだから、「落とす作品」が多くなければ選定に有効性がない。

 中には、一部の投票者が高く評価したために、10位には入らなかったけどかなりの高得点になる作品というものもある。例えば、今年で言えばゴダールの「さらば愛の言葉よ」は、1位に入れた人が3人いて、12位になっている。だけど、一般的に言えばこの映画より見た方がいい映画が下位にいっぱいある。そういう問題が毎年あって、自分が高く評価する映画は10位以内に半分ぐらい、他はむしろ20位以下に多いということが多い。だから、キネ旬ベストテンを参考に映画を見てもいいけど、同じ順位になるわけではない。むしろなってはおかしい。ベストテンでは高く評価されているけど、僕ならこの映画に入れないという風に、自分なりの映画の見方、さらには世界観に気づいて行く参考である。

 もちろん、昔は違っていた。今ほど価値観が多様化していなかった。それに娯楽映画はベストテン選定外という暗黙のルールがあった。また、世界的に多くの人が名前を知る巨匠がいっぱいいて、監督の名前だけで高く評価された作品も、今となって見れば多かったように思う。半世紀前の1965年のベストテンを見てみる。日本映画のベストワンは「赤ひげ」だが、39人の投票中、入れてないのは白井佳夫1人だけである。(まあ、好き嫌いは別にして、10位以内には入れてもいい映画ではないかと思う。)2位の「東京オリンピック」は4人が入れていない。双葉十三郎、清水晶、井沢淳という古い映画ファンなら名前を知ってる批評家に加え、司馬遼太郎が投票に参加していて、この大ヒット作品を入れてない。ところが、3位の「日本列島」は満票だった。黒澤明、市川崑と違い、監督2作目の熊井啓作品で、反米愛国のバリバリ旧左翼映画だが、淀川長治先生も双葉十三郎先生も、司馬遼太郎先生も…皆入れている。このように70年代頃までは、大多数の批評家が一致して高く評価する映画というものがあった。

 1965年の外国映画は、39人投票で何と20人が1位に推すフェリーニの「8 1/2」が1位で、今考えてもそれ以外の結果は考えられない。だけど、結構イタリア映画「明日に生きる」(マリオ・モニチェリ監督)という作品が迫っている。7人が1位にしているが、その後忘れられてしまい、僕も見ていない。

 さらにさかのぼって1955年を見てみると、日本映画は「浮雲」が1位である。29人中で、一人入れてない人がいるが、それは何と作家の武田泰淳である。見てなかったのだろうか。それとも何かあったのか。この大傑作が入らないとは普通考えられないが。2位は「夫婦善哉」で、2人が入れていない。1位の数は「浮雲」が8人、「夫婦善哉」が11人と逆転している。半数の14人がこの2本を1位と2位にしていて、これは今でも納得できる選定だろう。3位以下の「野菊の如き君なりき」「生きものの記録」「ここに泉あり」「警察日記」と名作が並んでいることは確かだが、先の2本には及ばない。

 外国映画では、1位が「エデンの東」だが、十返肇、徳川無声など4人が入れてない。しかし、2位の「洪水の前」(カイヤット)や4位の「埋もれた青春」(デュヴィヴィエ)など、今はほとんど見られていない映画が上位にある。今も忘れられていないのは、同点4位の「旅情」(リーン監督、キャサリン・ヘプバーンのヴェネツィアが舞台のラブロマンス)や、7位のルノワール監督「フレンチ・カンカン」、11位のヒッチコック「裏窓」なんかだろう。マジメ系の方が時代のコードが変わると忘れられ、娯楽映画の名品の方が時代を超えて見られるのかもしれない。ベストテンに見る「価値感の多様化」を書いていたら、今年のベストテンそのものに触れられなかったので、それは次回に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あじさいの歌」-芦川いづみの映画再び②

2016年02月09日 00時03分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 芦川いづみ映画の第2弾。前回の特集では中平康監督作品が多かったが、今回は滝沢英輔監督作品と西河克己監督作品が3本選ばれている。第1回で西河克己監督作品を書いたので、今回は滝沢作品について。ただし、「祈るひと」(1959)という映画は来週上映で、また見ていない。この映画は僕の大好きな田宮虎彦の原作なので楽しみ。そこで「佳人」(1958)と「あじさいの歌」(1960)。

 「佳人」は上映が終了してしまったので、今週やっている「あじさいの歌」から。この映画は石坂洋次郎原作で、石原裕次郎主演で作られた何本もの映画の一つ。それまでの「乳母車」「陽のあたる坂道」「若い川の流れ」は田坂具隆監督だった。(芦川いづみは全作に出ているが、後者2作の女優トップは北原三枝。)しかし、「あじさいの歌」は滝沢英輔監督(1902~1965)である。田坂監督は東映に移り、この年は中村錦之介主演で「親鸞」「続親鸞」を作っているのだからやむを得ない。

 「あじさいの歌」は散歩しながらデッサンしている建築デザイナーの青年(石原裕次郎)が、偶然お寺の階段で捻挫している老人(東野英治郎)を助けるところから始まる。おぶって帰ると、このヘンクツな老人が実は大富豪で、豪華な洋館に住んでいる。そして、そこに美しい一人娘がいる。女性不信から離婚して女を近づけない老人は、娘にも学校教育を受けさせず、中学からは家に家庭教師を呼んで教育している。テニスコートまである大邸宅なんだけど、この家では時間が死んでいて、娘は「囚われの美女」なのである。そして、もちろん青年は美女に恋するようになる。
(あじさいの歌)
 僕が初めて見た芦川いづみの映画は、多分この「あじさいの歌」である。見たのは40年以上前の文芸坐オールナイトで「あじさいの歌」「陽のあたる坂道」「あいつと私」の3本だった。順番は覚えていないが、多分今書いた通り。この洋館と芦川いづみの魅力にはまってしまった。これほどロマネスクな設定が日本で可能なのか。まるでフランス文学の「グラン・モーヌ」(アラン・フルニエ)を思わせる。映画の中の洋館は明らかにロケだが、見たことがないところである。検索してみたら、横浜市の野毛山公園近くの旧横浜銀行頭取邸だと出ていた。この邸宅はどうなっているのだろうか。

 さて、もう細かく筋書きを書くこともないだろう。どこにいるともしれない母親、そして裕次郎をめぐる恋のさや当て。父が心配して、大きくなった娘が世に出るための「お友達」を選ぶ。選ばれた中原早苗は、実は偶然にも裕次郎とも知り合いなのであった。そして、中原早苗の兄、小高雄二は芦川いづみを好きになる。大体、この時期の日活ラブロマンスでは中原早苗と小高雄二が、恋敵的な役柄を割り振られている。けっして絶世の美人とは言えない、後の深作欣二夫人の中原早苗が僕は大好きだ。それはともかく、ロングヘアの芦川いづみが、初めて(?)美容院に行って、バッサリ切ってしまってショートにする場面の、「ローマの休日」のような極上シーンは見逃せない。まあ、これが初めて街に出る女の子なのかなどと言うのはヤボで、芦川いづみの魅力に浸るしかない。

 監督が変わったからというより、原作そのものの違いが大きいと思うが、「あじさいの歌」はそれまでの洋次郎+裕次郎映画の中では異色である。他の映画は「もつれた人間関係」が、関係者の「言語による討論」により理性的な解決が図られる。日本ではありえないような「理想」だが、ブルジョワ家庭という設定と裕次郎の肉体によって、むりやり見る者を説得してしまう。その「戦後民主主義」的な言語感覚とそれを具現化するような映画空間(美術など)の魅力が忘れがたい。

 「あじさいの歌」も、関係者の凍結された時間が解凍される設定は共通している。だけど、「言語」へのこだわりが少ない。物語としての魅力と登場人物によって見せる、普通のラブロマンスに近い。「洋館」の魅力という「建物映画」の系譜に位置づけることもできる。また、母親が大阪に行って赤線経営をしていたとされたり、裕次郎と中原早苗が性的に関係したかのようなシーンがある。石坂洋次郎は一貫して、恋愛やセックスを明るく健全なものとして語った作家である。だけど、これまでは不倫や芸者などが出て来ても、ドロドロした感じは少なく、さらっと描かれていた。もう時代も変わってきて、次の「あいつと私」ではもっと正面から性の問題が扱われる。この映画は芦川いづみと洋館の魅力で、清潔な感じに仕上がっていて、実に魅惑的だと思う。

 滝沢英輔は、戦前に京都で若い映画人の集まり「鳴滝組」に参加していた。日中戦争で戦病死した伝説の天才・山中貞雄、「無法松の一生」を監督した稲垣浩などが参加していたことで有名な集団である。滝沢はそれ以前にマキノ雅弘(当時は正博)監督のもとで「浪人街」の助監督だった。監督としても「パイプの三吉」という映画が1929年のキネマ旬報ベストテン7位に入っている。その後東宝に移り、1937年に「戦国群盗伝」前後編を完成させた。これが有名だが、その後も戦中戦後の東宝で時代劇を作り、製作を再開した日活に移っても、時代劇やメロドラマをたくさん残している。戦後の作品はほとんど忘れられた感じだが、さすがに演出力は確かである。他にも面白い映画があるのかもしれない。職人的娯楽映画の作り手として、再評価が必要か。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイスランドのミステリー「声」

2016年02月07日 23時03分48秒 | 〃 (ミステリー)
 アイスランドアーナルデュル・インドリダソン(1961~)という作家がいる。近年北欧ミステリーが世界的に評判になってきたが、アイスランドの作家はこの人だけである。日本でも「湿地」「緑衣の女」という作品が翻訳され、高く評価された。「湿地」は映画化され、日本でも映画祭で上映され、僕も見に行ってブログでも書いた。2015年7月に3冊目(作家にとっては5作目)の「」(2002、柳沢由美子訳、東京創元社)が刊行され、年末のミステリー番付でも高順位を獲得している。(「このミス」5位、週刊文春4位)前の2冊は地元の図書館にあったので読んだが、最近行ったら「声」も入っていたので、さっそく借りてきて読むことにした。僕がリクエストしたわけじゃないんだけど。

 最近ここでも書いた映画「ひつじ村の兄弟」を見て、年末には村上春樹の紀行文集でアイスランドの旅の話を読んだ。ちょっとアイスランドづいていると思い、「声」も読んでみようと思ったのだが、これは今までの本よりもさらに面白い傑作だった。「犯人あて」の作品ではないが、犯行トリックや叙述トリックではないのに、犯人探しから気持ちが離れているすきに、真犯人が指摘される。だけど、「何だ」という気持ちが起こらず、人間と社会への思いを深めさせられるのは作者の手腕である。

 クリスマスも近いある日、アイスランドで2番目のホテルの地下で、中年のドアマンの刺殺死体が発見される。その男は長年ドアマンをしていただけではなく、ホテルのクリスマスパーティでは毎年サンタクロースをしていた。そして、長くホテルの地下室に住みついていた。ほんのちょっとというつもりで部屋を貸して、そのまま十何年も居付いてしまったらしい。だけど、ホテルでも修理や警備など便利屋的に使っていたらしい。しかし、そんなに長くいるのに私生活は誰も詳しく知らない。しかも最近、ドアマンをクビになったという。家族として姉と車いすの父が来るが、ほとんど悲しがっている様子がない。

 そんな謎めいた死者の過去を警察は探り始める。例によって、捜査の中心はエーレンデュルで、他の二人も前作と共通。問題を抱えたエーレンデュルの娘エヴァ=リンドの動向も要注意。さらにサイドストーリイとして虐待が疑われる父親と子どもの話が出てくる。人口30万ほどのアイスランドで、大々的な銀行強盗やカーチェイスは起きないと作者自ら語っている。だけど、人が住む以上、「家族」が抱える問題は世界中どこでも同じで、だから家族関係をめぐるミステリーを書くというのは、ここでも同じ。

 犠牲者グドロイグルの部屋にあった「ヘンリー」という書き付けから、ホテルの客のヘンリーを一応調べてみると、二人いるうちの一人のヘンリーが、まさに求めていた人物だった。そして彼の話から、驚くべき事実が明らかになる。グドロイグルはほんのちょっとした子供時代の一時期、非常に注目されたスターだったのである。天使の歌声を持つボーイ・ソプラノで、父が厳しくしつけていた。レコードも出し北欧ツァーが企画された、その直前の地元の公演会のまさにその日、12歳の彼は早すぎる声変わりに見舞われ、運命は変転し、彼の人生は失墜する。

 本当はそのことも書かない方がいいんだけど、そのぐらい書かないと何も書けない。このような彼の人生はその後どうなって、ホテルの地下にたどり着くのか。彼を取り巻く家族やレコード収集家の世界。そして謎めいたホテルの腐敗(?)やホテルで働くさまざまな人々の実情。そして、捜査官エーレンデュルの過去の傷が語られていく。アイスランドは犯罪が少ない国だが、それでも麻薬も暴力集団も児童虐待もある。当たり前といえば当たり前だが。こういう風に捜査官が一人で聞きまわるのは、どうも日本からすると違和感があるが、きっとアイスランドではそういう捜査が普通なんだろう。

 アイスランドは小国とはいえ、北海道より大きい。(面積は約102,828㎢で、世界18位。ちょうどフィリピンのルソン島とミンダナオ島の間である。北海道は78,073㎢で世界21位。)日本人の感覚だと、世界の北の果てみたいな感じを受けてしまうが、頭の中を地球儀にすると(地図で言えば「正距方位図法」にすると)、ちょうどアメリカとロシアの間。ワシントンとモスクワを結ぶと、大体アイスランドの上である。イギリスも近いから、第二次世界大戦中は、対独戦争中の英米ソど真ん中にあったわけ。デンマークの下で立憲君主国だったアイスランドはデンマークをドイツが占領した後で、英米軍が駐留した。戦後は「米ソ冷戦の最前線」になり、米軍が駐留した。冷戦を終結させたレーガン、ゴルバチョフの会談は、1986年に首都レイキャビクで行われた。

 日本では火山と温泉の国というイメージだが、実は世界的な戦略的重要性を持つ国だったわけである。冷戦後、米軍が撤退したが、ロンドンにもニューヨークにも近い特性を生かし、金融立国をめざし、1998年の金融危機で破たんした。今はまた経済が立ち直っているとのことだが、なかなか複雑な歴史を持っている。また、「姓を持たない」ことでも有名。「名前+父の名」で表す。エネルギーも7割強を水力、2割強を地熱でまかなうなど、とにかく興味深い国である。1955年にノーベル文学賞を受けたラクスネスという作家もいるが、読んだことがある人は普通いないだろう。アイスランドという興味深い社会を反映したアーナルデュルのミステリーは、読み応え十分。特にこの「声」は傑作だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芦川いづみの映画再び①

2016年02月07日 00時01分00秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、「恋する女優 芦川いづみ アンコール」を上映中。性懲りもなく再び通って見ているが、そうすると他の新作映画や演劇、美術などのヒマが取れない。のみならず、市川崑監督や田中登監督などの特集も行われていて、そっちも行くつもりが時間が取れない。まあ、家から近い神保町シアターを優先させるが、ボケッと芦川いづみを眺めているのもいい。

 あまり書くつもりもなく、趣味で見ているだけでいいと思ったのだが、いろいろ見ていると書きたくなってくる。第2週の6日には「春の夜の出来事」など3本見てしまった。その映画の事をちょっと書きたくなった。まあ、映画としてはちょっとしゃれた小品というだけで、それほど大した映画ではない。1955年の西河克己監督作品。西河監督は後に吉永小百合主演で「伊豆の踊子」「絶唱」などをいっぱい作ったが、さらに70年代になると、百恵・友和主演で「伊豆の踊子」「絶唱」をまた作った。僕が同時代で知っているのはそっちの方だが、日本を代表する職人監督の一人。

 「春の夜の出来事」は大富豪の財閥当主が偽名で自分の会社の懸賞に応募したら当たってしまい、身分を隠して雪の赤倉観光ホテルに出かけていく。家族は心配して、執事の吉岡(伊藤雄之助)が社長と偽って付いていくことになる。まだ心配なので、身分を偽っていく客がいるから配慮して欲しいとホテルに電話してしまう。ところで、もう一人懸賞の当選者がいて、そっちは若い失業青年なんだけど、ホテルはこっちの青年を富豪と勘違いし、本当の富豪には粗雑な扱いをしてしまう。そこでドタバタがいろいろあり、吉岡が家族を呼んでしまう。そこで娘の芦川いづみが女中頭の東山千栄子と赤倉にやってくるが、娘と青年が運命的に出会ってしまい…という軽いコメディである。

 脚本は中平康河夢吉とクレジットされていて、河夢吉はペンネームだろうが、このソフィスティケート感覚は中平の持ち味だろう。西河監督のごく初期作品で、富豪は若原雅夫、青年は三島耕だから、それほど重視された作品ではないだろう。だから赤倉観光ホテルとタイアップして作っているのかと思うが、この実在ホテルがよく名前を使わせてくれたような設定。でも、あの特徴的な建物が出てくるからロケしている。パーティ場面などはセットだろうが。当時は妙高高原駅が「田口」と言ったが、その駅も出ている。だけど、この日本を代表する名ホテルをチラシは「山間のリゾートホテル」、某サイトは「赤倉グランドホテル」と表記している。
(赤倉観光ホテル)
 1930年代、日本政府は1940年東京五輪に向けて国際観光立国を目指してもいた。日本各地に外国人も宿泊できるような本格的な国際観光ホテルを相次いで作るというのも、その国策による。そこでできたのが、赤倉観光ホテル、琵琶湖ホテル、蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)、雲仙観光ホテル、川奈ホテル、日光観光ホテル(現・中禅寺金谷ホテル)などである。それ以前からある、日光金谷ホテル、箱根宮ノ下の富士屋ホテル、軽井沢万平ホテル、奈良ホテルは有名だけど、1930年代に作られたホテルを知らない人が結構いる。その中でも赤倉観光ホテルは温泉と展望の素晴らしさは日本有数。ちょっと高いけど、ここに泊らないで日本の温泉は語れない。泊らないでも、夏にカフェテラスで日本一おいしいフルーツケーキを食べるのは最高。

 ホテルの話が長くなってしまったが、仮装パーティが開かれるという、日本ではありえないような設定で、芦川いづみがピーターパンの扮装で出てくるという、とびきりキュートな場面が見逃せない。でも、ニセ富豪の青年に言い寄るご婦人連が多く、芦川いづみはホテルを飛び出し、ゲレンデに青年が追っていく。東山千栄子もコメディエンヌの才能を発揮していて楽しい。俳優座の大女優にして、小津の「東京物語」の母という印象が強すぎるんだけど、木下恵介作品ではコミカルな役柄が多い。また、ホテルの客として、作曲家黛敏郎がニセの黛敏郎役で出ているのもご愛嬌。即興で作ってと言われ、不思議な現代音楽を作ってしまう。小品ならでは楽しさである。

 もう一本、同じ西河監督の1958年作品、「美しい庵主さん」は、芦川いづみが尼さん姿で出てくるファン必見の作品。ペ・ドゥナが警官姿出てくる(「私の少女」)も良かったが、その不可思議な魅力において、芦川いづみの尼僧こそ忘れがたい。

 有吉佐和子原作の映画化で、小林旭と浅丘ルリ子が夏休みに、ルリ子が昔疎開していた地方の尼寺に卒論の勉強と称して転がり込む。そこに芦川などがいる。東山千栄子はこっちでも出ていて、受け入れる寺の尼僧。旭・ルリ子の初めての本格共演だというが、後々の運命を思わせるような、親しくもあり、溝もあるような役柄。そこに清涼剤のように芦川いづみが出てくるが、まあ映画としてはまとまりがない。お寺は伊豆でロケされたらしい。伊豆大仁の随昌院というところだとある。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デヴィッド・ボウイ、ブーレーズ、ジャック・リヴェット等ー2016年1月の訃報

2016年02月04日 21時33分10秒 | 追悼
 2016年も毎月の訃報をまとめていきたい。これは個人的な関心領域である。1月はまず世界から。
 デヴィッド・ボウイ(1.10没、69歳)の訃報は世界を驚かせた。もっとも18カ月の間、闘病中だったというから、関係者やファンには周知のことだったのか。今、「デビッド・ボウイ」と表記したが、これは当日の新聞表記による。原語ではDavid Bowie で、本名はDavid Robert Haywood Jones。名前は僕の世代では誰でも知ってるだろうが、ではよく聞いたかといえば聞いてない。だから音楽に関しては書くことができない。映画にも何本も出ているが、一番思い出すのは「地球に落ちてきた男」。ニコラス・ローグのこのフィルムほど、ボウイの本質を象徴するものはないように思う。

 フランスの作曲家、指揮者のピエール・ブーレーズ(1.5没、90歳、下の写真)は、現代音楽を代表する作曲家。そういうことぐらいは知っているが、思想や文学など周辺領域にも大きな影響を与えたというけど、僕にはよく判らない。「ホテル・カリフォルニア」のイーグルスの創設メンバー、グレン・フライ(1.18没、67歳)。もちろんイーグルスは知ってるが、メンバーまではよく知らない。

 日本以外の人物は、文化関係で書くことが多い。政治家は重要な人はその人だけで書くし、他の分野は外国の場合はもともと知らないし、あまり載らない。映画監督として、一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、僕にとっては思い出がある訃報が二人。イタリアのエットーレ・スコラ(1.19没、84歳)は、カンヌで監督賞を取ったこともあるけれど、まあ巨匠というほどでもなかっただろう。でもイタリアの庶民の様子を生き生きと描く作品は80年代頃に時々公開されて、結構好きだった。ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニの「特別な一日」などファシズム下の庶民の生きざまが忘れがたい。「あんなに愛しあったのに」という映画は、フェリーニの「甘い生活」撮影風景が再現されていて、面白かった。「ル・バル」「BARに灯ともる頃」「星降る夜のリストランテ」など、もう見ることもないのかな。

 ジャック・リヴェット(1.29没、87歳)はフランスのヌーヴェル・ヴァーグの代表的な監督だった。日本ではシャブロル、ゴダール、トリュフォーがすぐに公開されたが、エリック・ロメールやリヴェットの紹介が遅れた。特にリヴェットは91年の「美しき諍い女」(いさかいめ)まで正式公開作品がなかった。これはバルザックの「知られざる傑作」を映画化した4時間にも及ぶ映画で、それもほとんど絵を描いているシーンだけんだけど、それでも全篇に緊迫感の漂う大傑作だった。その年のベストワンを獲得している。続いて作られた「ジャンヌ・ダルク」2部作も長い作品だったが、これはちょっと期待外れ。「セリーヌとジュリーは舟でゆく」「彼女たちの舞台」など、旧作がその頃続々と見られるようになったが、その自由な映画作りが魅惑的だった。デヴュー作の「パリはわれらのもの」(1960)は正式公開されていない。

 日本では、中村梅之助(1.18没、85歳)が亡くなった。テレビの「遠山の金さん」である。前進座という存在が僕にはよく判らないので、ほとんど「金さん」で知っていると言っていい。3代目中村翫右衛門の長男に生まれ、1938年が初舞台だから8歳の時。調べてみると、大河ドラマにもずいぶん出ていた。

 上方落語の「四天王」最期の一人、桂春団治(1.9没、85歳)も亡くなった。いや、上方落語のことはほとんど知らないので、自分の感想が書けない。

 文芸評論家で比較文学の佐伯彰一(1.1没、93歳)がなくなった。英米文学の翻訳も多かったし、一般向け著書も多かったと思うが、元旦に亡くなったからか、ほとんど追悼記事がなかった。日本人の自伝の研究を行ったことが一番重要な仕事ではないか。アメリカ文学も、フィリップ・ロス、カーソン・マッカラーズ、ソウル・ベローなど、この人の翻訳で読んだ本がずいぶんある。

 他にも、村山内閣の経企庁長官を務めたエコノミスト、宮崎勇(1.3没、93歳)、「怪談牡丹灯籠」などの劇作家大西信行(1.10没、86歳)はテレビの「水戸黄門」「大岡越前」などで多もくの脚本を書いた。世界的な服飾デザイナー、アンドレ・クレージュ(1.7没、92歳)は知らないので、書くことがない。サラリーマン新党を作った青木茂(1.27没、93歳)は1983年の参院選で2人当選を果たした。しかし、サラリーマンは源泉徴収で損をしているという主張は、結局は一定の広がりしかもたなかったというべきだろう。86年参院選も一人当選したが、89年には青木本人も含めて落選した。そういう「参院比例区用の小党」というのがあったが、あまり意味はなかったということになるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SMAPと甘利、軽井沢バス事故-1月のニッポン

2016年02月01日 23時35分30秒 | 社会(世の中の出来事)
 本格的にきちんと書こうと思うと、結構調べる必要が出て来て大変、そんなに関心もない話題はスルーしてしまいがち。自分の趣味や関心の範囲内だけで書いていると、書かないで終わる問題が多い。そういうことが多いので、今年から「社会時評」「国際時評」を書くことにしようと思う。毎月書きたいと思うんだけど、無理して書くこともないので、書かない月もあるかもしれない。

 さて、1月の「巷の話題」の第一は、「SMAP解散騒動」ではないか。これは週刊新潮が特ダネとして大々的に打ち出して、大騒動になった。週刊新潮週刊文春は、毎週木曜日に発売されるが、水曜日に早刷りが出回り始め、「明日発売の週刊○○が報じるところによれば…」と大騒ぎになってしまう。その前に週刊文春が「ベッキー問題」というのを特ダネ報道していて、その後「甘利大臣疑惑」という大問題の特ダネを放った。これで安倍内閣発足以来、第一次安倍政権の時も含めて、常に大臣の地位にあった大物側近議員が大臣を辞職するに至った。(「ベッキー騒動」の時に、「私以外私じゃないの」を歌ってマイナンバーカードを紹介する甘利大臣の映像が流されていたものだが…。)

 ちょっと前までは、芸能界ネタは女性週刊誌、政界疑惑は社会党や共産党…に持ち込むことが多かったと思う。甘利氏を告発した人は、もともと右翼活動家だったということで、共産党や民主党に持ち込まなかったのかもしれないが、僕にはよく判らない。女性週刊誌は業界誌みたいなもんだから、業界の思惑を超えるスキャンダルは今は「出版社系」と言われる方が強いのだろう。新聞社系は「週刊読売」は廃刊したが、「週刊朝日」と「サンデー毎日」はあるけど存在感が薄いのではないか。

 新潮と文春は、どっちも「反人権的」な論調が多い。気を付けて読まないといけないが(週刊誌そのものが新聞以上に気を付けて読まないといけないが)、それぞれライバルとされていてスキャンダル報道では違う相手の立場を代弁することが多い。読む側にも「週刊誌リテラシー」が必要。世の中には、新聞はテレビ欄と週刊誌の広告しか読まない、それどころか電車の中づり広告で世の中を判断するというような人もいる。本格的な「週刊誌リテラシー」学が必要だろう。

 ところで、SMAP問題そのものにはほとんど関心がないし知識もない。まあ、メンバーの名前を全員知っている数少ないグループではあるけど。僕が驚いたのは、「解散しないで署名運動」が起きたことである。僕のアドレスにも送られてきた。(僕は原則的にはアムネスティなどいくつか以外の電子署名はしないんだけど。)解散しないでというのは、全員で事務所を脱退してもいいわけだが、そういう意味ではないようだった。「どんな決断をしても尊重します」というのが「ファン道」だと思うのだが、違うのだろうか。「アイドル」をめぐる裁判も報道された。「恋愛禁止」は「憲法の幸福追求権違反」だという判断である。反対の判断も昨年東京地裁で示されている。判断は難しいが、やがては「契約そのものが民法の公序良俗違反」とされていく可能性があるだろう。(女性の早期退職制度のように。)

 大きく報道されたのは、「軽井沢スキーバス事故」である。連日の大報道も、一段落した感じだが、報道される被害者学生の「立派さ」にも驚いた。写真の多くはFacebookから取られているが、まあ、自分なりの自信作を載せているわけでもあるだろう。卒業、就職が決まってない人は、皆で旅行に行けるわけないから、そういう意味では初めから「リア充」学生が多いはずではある。でも、「イマドキ」の学生は皆ウックツを抱えず頑張っているのかなあなどとも思ったものである。

 僕は「運転手」の側が抱えていたさまざまの問題も、身にせまってくる気がする。ある新聞に「長距離バス運転手は60歳定年に」という投書が載っていて、ビックリした。この年代は年金支給が60歳ではない。どうしろというんだろうか。会社は事務職で雇えというんだろうか。それともトラックやタクシーの運転手になればいいのか。第一、年金も出ないのに定年になってしまうというのなら、誰も長距離バス運転手にならないだろう。65歳で深夜バスの運転手をしたくてしてたわけではないだろう、その運転手のライフヒストリーの中に、日本社会が見えてくるはずだと思う。

 「coco壱番屋」のビーフカツ横流し問題というのもあった。調べてみれば、出るわ出るわ、他にもっと横流しがいっぱいあった。この問題の全容はなかなか見えていない。しかし、この産廃業者は、壱番屋から廃棄料を取っていて、その上で廃棄せずに他へ売っていた。これは「詐欺」ではないか。「食の安全」を論じる前に、どっちからも金を取っていたら詐欺だと思う。しかし、その業者が横流しを始めたのは、原発事故の「風評被害」からだという話。ここに、「日本社会」が見たくないものを「洗浄」してしまう「闇のシステム」があるということが可視化された。

 これらのニュースを見聞きして、日本社会は「命を大切にしているのだろうか」とか、「日本はどうなってしまったのだろう」などという人がいる。いやあ、ずっと前からそうじゃないか、知らなかったのかいと言いたくもなってしまう。どの問題を見ても、日本社会には「個人が幸せになりにくい」という側面があることが見える。それは見えないシステムだから、見たくない人には見えない。しかし、時々大事故などを通して見えてくるわけである。

 さて、甘利大臣スキャンダル。これで安倍内閣支持率は下がらない。下がるはずだ、下がって欲しいと思う人には残念だが、最近出てきた調査ではむしろ上がっている。甘利氏の出処進退に対してもも、「秘書の問題の責任を取って潔く辞めた」と思っている人が多いのである。この問題は、贈収賄にはならない。「内閣府特命相」の職務権限に入らないからである。秘書の刑事責任は逃れようがないが、小渕優子の時と同じように、秘書が責任を取らされてオシマイと思われる。しかし、日本という国は(他の世界の多くの国と同じく)、有力者の口利きが有効な国だということである。そう思ってなければ、誰も頼まないし、皆も不思議に思わない。こうして、SMAPも解散しなそうだし、安倍首相の支持率も上がってるし、まあ、こだわっても仕方ないよなあというムードの新年明けである。これで参院選だったら、結果は見えているかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする