神吉拓郎(かんき・たくろう、1928~1994)という作家がいた。1984年1月に「私生活」という作品で直木賞を受けた。僕は10年ぐらい前に直木賞作品を系統的に読もうかと思って探したことがあるけど、もう新刊文庫からは消えていた。図書館に行ったり古書を買ったりするほどでもないかと思って、一度も読んだことがない作家である。その神吉拓郎の「洋食セーヌ軒」(1987年)という作品が光文社文庫に入った。なんだか面白そうな感触がある。読んでみたら、やっぱり絶品の極上本だった。書かずに終わるのももったいないので、簡単に紹介。
「食」にまつわる小説は、今はいっぱいある。一種のブームと言ってもいい。映像化されることも多い。だけど、この作品が書かれたのは、30年ほども前。バブル時代に近いけど、そういう豪華な食ではなく、人生のさまざまな時点で親しみを持ったカキフライや天ぷら、うなぎや鮨、あるいは中華街の小さな店や鮎を食べさせる宿なんかである。そして、それにまつわる人生の記憶。1928年生まれというから、「国民学校」(1941年から小学校の事をこう言った)の思い出がよく出てくる。そんな世代の話。
それにしても、実に美味しそう。そして、名文。解説にもあるが、冒頭が素晴らしい。17の短編が収められているが、最初の話「それにしても、見事な虹鱒だった」から、もう話に捕らわれてしまう。「洋食セーヌ軒」という標題になっている短編は「駅前の眺めは、以前とはかなり変わっていた。」と始まる。昔住んでいた町である。そこにある「セーヌ軒」のカキフライが美味かったと思い出し、久しぶりに行こうかと思う。果たして、そもそもまだあるのか…。中央線沿いにある「欅の木」、羽田近くの天ぷら屋、懐石料理のようにできたてのデザートを届ける小さな店「プチ・シモーヌ」とは…。
思い出の逸品もあれば、本格派の料理もある。素材が上質だったり、凝ったつくりだったり。でも、すべて上品なもので、いわゆる「B級グルメ」的な食べ物でも、語りで上品になっている。出てくる人間関係も割合さらっとしていて、後腐れしない。そこが程よく味わえる極上感のもとだろう。多分、若い時に読んでも、そんなに面白くなかったかもしれない。どうも、年取ってから読んだ方が面白いかもしれない。そう思うと、年取るのも案外悪くないではないかという短編集である。
神吉拓郎は、永六輔、野坂昭如などと三木鶏郎のトリローグループにいた人で、俳人、ラグビーファン、食通として知られたという。僕は名前ぐらいは知っていたが、同時代には全く読まなかった。食にまつわる本もまだあるようである。これは珍しい本を発掘してくれたものだと感謝。スラスラ読めて、人生を感じて、美味しそう。お得な本だと思う。
「食」にまつわる小説は、今はいっぱいある。一種のブームと言ってもいい。映像化されることも多い。だけど、この作品が書かれたのは、30年ほども前。バブル時代に近いけど、そういう豪華な食ではなく、人生のさまざまな時点で親しみを持ったカキフライや天ぷら、うなぎや鮨、あるいは中華街の小さな店や鮎を食べさせる宿なんかである。そして、それにまつわる人生の記憶。1928年生まれというから、「国民学校」(1941年から小学校の事をこう言った)の思い出がよく出てくる。そんな世代の話。
それにしても、実に美味しそう。そして、名文。解説にもあるが、冒頭が素晴らしい。17の短編が収められているが、最初の話「それにしても、見事な虹鱒だった」から、もう話に捕らわれてしまう。「洋食セーヌ軒」という標題になっている短編は「駅前の眺めは、以前とはかなり変わっていた。」と始まる。昔住んでいた町である。そこにある「セーヌ軒」のカキフライが美味かったと思い出し、久しぶりに行こうかと思う。果たして、そもそもまだあるのか…。中央線沿いにある「欅の木」、羽田近くの天ぷら屋、懐石料理のようにできたてのデザートを届ける小さな店「プチ・シモーヌ」とは…。
思い出の逸品もあれば、本格派の料理もある。素材が上質だったり、凝ったつくりだったり。でも、すべて上品なもので、いわゆる「B級グルメ」的な食べ物でも、語りで上品になっている。出てくる人間関係も割合さらっとしていて、後腐れしない。そこが程よく味わえる極上感のもとだろう。多分、若い時に読んでも、そんなに面白くなかったかもしれない。どうも、年取ってから読んだ方が面白いかもしれない。そう思うと、年取るのも案外悪くないではないかという短編集である。
神吉拓郎は、永六輔、野坂昭如などと三木鶏郎のトリローグループにいた人で、俳人、ラグビーファン、食通として知られたという。僕は名前ぐらいは知っていたが、同時代には全く読まなかった。食にまつわる本もまだあるようである。これは珍しい本を発掘してくれたものだと感謝。スラスラ読めて、人生を感じて、美味しそう。お得な本だと思う。