尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「見た目」で入れてはダメなのか-18歳選挙権⑥

2016年02月27日 21時54分23秒 |  〃  (選挙)
 「18歳選挙権」問題がまだ残っているので、簡単に。合わせて書こうかと思ったけど、分けた方がいい気がしてきたので、2回書くことにする。その後で「補論」を書く。「投票率」や「投票行動」の予測を書いたけど、それ以前に「投票基準」という問題がある。そして、マジメ主義の学校空間では、この「投票基準」を高くし過ぎてしまう可能性がある。マジメに勉強して、安保論争も理解し、経済や外交や社会保障などの争点も全部理解してないといけないかのように、キャンペーンしてはいけない。

 そんな人は大人にもほとんどいないだろう。でも、日本では選挙の通知が送られてくるから、やっぱり行った方がいいだろうと思って、かなりの人が行くわけである。中には「見た目で入れる人」もいる。それはダメなんだろうか。知り合いから頼まれて、よく知らないけど入れる人に比べて、そんなに間違ったことなんだろうか。でも、「見た目」で入れてはいけないと指導しちゃう教師はいそうである。選挙後にそう公言する生徒がいたとして、厳しく叱ったりしたためにトラウマ化して以後選挙に行かないなんて…そんな人が出ないかと心配したりする。

 「高校生が投票する」ことを過大に評価して、教育を変えるなどと意気込むのもどうかと僕は思っている。今までだって、定時制課程の高校では、成人生徒がいっぱいいた。僕が強調していたのは、「社会参加の一種」として行ってみたらということである。何党に入れるとか、政治的見解をしっかり持つということも大事だけど、それより「まず行く」ことが大事なんだと思う。それは社会的に孤立しがちな若者層が、社会と接点を持つということである。だから、定時制高校で生徒がようやく通えるようになって、そして選挙にも初めて行ったなんて聞くのは、社会科教師としてとてもうれしいことだった。

 ところで、だから行けばいいと言っても、実際は大人の多くも「見た目で入れる」のである。特に参議院の比例区はいろんな人がいるから、「見た目」や「イメージ」が結構大きい。各党だって、それを意識して、人気があったり、知名度がなくても「若くて、見た目がいい」候補者を立てるではないか。でも、学校というところは、「見た目」ではなく、「実質を見極めて」という場所である。上級学校や会社選びなんかでも、「イメージ」や「見た目」、つまり「制服で私立高校を決める」とか「オシャレっぽい大学を受けてみる」などというのは、進路指導では受けが悪い。

 だから、逆に言えば「見た目リテラシー」を育てる機会がない。これは実はとても大事なことではないか。もっとも、実際の選挙を題材に、各党の党首や学校のある場所の候補者の「見た目印象度」を語り合わせるという授業はできないだろう。でも、現実の人間関係では、「見た目」でダマされないように、「見た目リテラシー」を育てる必要もあると思う。その意味では「読書」も大事だけど、本の中の人物は容貌が判らないから、マンガや映画、テレビドラマなんかでいい教材がないか。特に思いつかないが、例えば「12人の怒れる男」。陪審制度や冤罪の危険性という観点で、授業でも使ったことがある。それをストーリイで見るというのではなく、被告少年や各陪審員を最初に「見た目」で判断してみる。その後、映画を最後まで見て、最初の印象をチェックするとか。

 芸能人、俳優なんかだったら、見た目で判断するのも当然と思われている。だけど、「政治家は違う」。と言っても、見た目で判断する方法を教えられているわけではないから、「見た目」でごまかされてしまう。そういうことの繰り返し。昔、1986年に当時の中曽根首相が、衆参同日選を仕掛けて大勝利したことがあった。同日選は考えていないと言い続け、一時は諦めたといい、「死んだふり」解散と言われた。諦めたとされた時期には「私がウソをつく顔に見えますか」とまで言ったものである。だけど、結局解散に踏み切った。ウソだったのである。そして、「大型間接税は導入しない」と公約して大勝利し、次の竹下内閣が総選挙をせぬまま消費税を導入した。私がウソをつく顔に見えますかと言った時点で、僕にはウソをつく顔にしか見えないよと思ったけど、多くの国民はそう思わなかったのである。政治家の「見た目リテラシー」を有権者も鍛えていかないと、昨今の自民党議員の「暴言」「不祥事」を見抜けないということになるだろう。
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恩地孝四郎展と「ようこそ日本へ」展

2016年02月27日 00時24分55秒 | アート
 東京国立近代美術館で、近代の抽象版画の大家、恩地孝四郎の本格的な展覧会が開かれている。28日までなので、今日行ってきた。ところで、同じ28日まで「ちょっと建築目線で見た美術」という展覧会と「ようこそ日本へ」という展覧会も開かれている。時間がなくて「建築目線」の方を見る時間がなかったのだが、「ようこそ日本へ」展が面白かったので、そっちから紹介。
 
 これは副題を「1920-1930年代のツーリズムとデザイン」と言い、大正から昭和戦前期の日本観光のポスターを中心にした展示である。そんな時代に国際観光があったのか。第一次大戦後の国際協調時代ならともかく、1929年の世界恐慌以後は世界は戦争の時代へと傾斜していく。日本も満州事変をきっかけに国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩む。という視角だけで見ると、当時の日本政府が国際観光を呼びかけているのが不思議に思えるが、実際は連盟脱退で円安が進行し、観光客が訪れやすくなっていたという。そして、1936年にはベルリンで五輪が開催され、1940年には東京で五輪が開催される予定だった。円安と五輪、今と同じではないか。

 違うのは、当時の日本イメージはもっと広かったということである。つまり「大日本帝国観光」である。「帝都東京」と「古都京都」、「霊峰富士」などと並び、朝鮮半島の金剛山、台湾の新高山(玉山、富士山より高い当時の「日本一の山」)、そして大連ヤマトホテルに泊って翌日から「特急あじあ号」で「満州国」の観光へ。それもまた日本観光の目玉だった時代なのである。だから「日本海時代」などというポスターまで作られた。いやあ、時代に先駆けているではないか。そのポスター。
 
 現在のJTBである「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」ができたのもこの頃。国立公園制度だって、この国際観光振興のために作られたのである。もちろん、飛行機で来る時代ではない。大型商船で来るのである。だから、商船のポスターが多い。実に魅力的である。そういう「忘れていた」、あるいは「忘れたかった」日本観光のイメージを再確認できる。なお、この前「春の夜の出来事」という映画について書いた時に触れたけど、赤倉観光ホテルや蒲郡ホテルなど、今も残る国際観光ホテルがいっぱい作られたのもこの頃。そういうクラシックホテルに泊まってみれば、少し時代の追憶に浸ることができる。

 恩地孝四郎(1891~1955)の方は、いっぱい版画(だけではないが)が並んで、満腹。僕にはうまく表現できないんだけど、この世界的な版画家の全貌が展示されている。萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀を担当したことでも知られる。北原白秋や室生犀星など多くの作家・詩人の本を装幀した。それらも大量に展示されている。戦中にはやはり「戦争版画」を作っていた。「大東亜会議」に来たビルマのバー・モウの肖像版画もあった。戦後になると、抽象が温かい感じになっていき、見ていて飽きないし、癒されるような作品が多かったので、ホントはもっとゆっくり見たかった。ちょっと体調がいま一つで、若い時期はなんだかじっくり見る気になれなかったのが残念。そこから、今度は同じ国立近代美術館でもフィルムセンターへ回って「尻啖え孫市」を見て帰るが、映画を見ているうちにだんだん体調が戻ってきた。(美術館のある竹橋のあたりも、80年前の「2・26事件」の舞台だったが、美術館で使ったコインロッカーの番号が「226番」だったことに開けるときに気づいた。
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