「18歳選挙権」問題がまだ残っているので、簡単に。合わせて書こうかと思ったけど、分けた方がいい気がしてきたので、2回書くことにする。その後で「補論」を書く。「投票率」や「投票行動」の予測を書いたけど、それ以前に「投票基準」という問題がある。そして、マジメ主義の学校空間では、この「投票基準」を高くし過ぎてしまう可能性がある。マジメに勉強して、安保論争も理解し、経済や外交や社会保障などの争点も全部理解してないといけないかのように、キャンペーンしてはいけない。
そんな人は大人にもほとんどいないだろう。でも、日本では選挙の通知が送られてくるから、やっぱり行った方がいいだろうと思って、かなりの人が行くわけである。中には「見た目で入れる人」もいる。それはダメなんだろうか。知り合いから頼まれて、よく知らないけど入れる人に比べて、そんなに間違ったことなんだろうか。でも、「見た目」で入れてはいけないと指導しちゃう教師はいそうである。選挙後にそう公言する生徒がいたとして、厳しく叱ったりしたためにトラウマ化して以後選挙に行かないなんて…そんな人が出ないかと心配したりする。
「高校生が投票する」ことを過大に評価して、教育を変えるなどと意気込むのもどうかと僕は思っている。今までだって、定時制課程の高校では、成人生徒がいっぱいいた。僕が強調していたのは、「社会参加の一種」として行ってみたらということである。何党に入れるとか、政治的見解をしっかり持つということも大事だけど、それより「まず行く」ことが大事なんだと思う。それは社会的に孤立しがちな若者層が、社会と接点を持つということである。だから、定時制高校で生徒がようやく通えるようになって、そして選挙にも初めて行ったなんて聞くのは、社会科教師としてとてもうれしいことだった。
ところで、だから行けばいいと言っても、実際は大人の多くも「見た目で入れる」のである。特に参議院の比例区はいろんな人がいるから、「見た目」や「イメージ」が結構大きい。各党だって、それを意識して、人気があったり、知名度がなくても「若くて、見た目がいい」候補者を立てるではないか。でも、学校というところは、「見た目」ではなく、「実質を見極めて」という場所である。上級学校や会社選びなんかでも、「イメージ」や「見た目」、つまり「制服で私立高校を決める」とか「オシャレっぽい大学を受けてみる」などというのは、進路指導では受けが悪い。
だから、逆に言えば「見た目リテラシー」を育てる機会がない。これは実はとても大事なことではないか。もっとも、実際の選挙を題材に、各党の党首や学校のある場所の候補者の「見た目印象度」を語り合わせるという授業はできないだろう。でも、現実の人間関係では、「見た目」でダマされないように、「見た目リテラシー」を育てる必要もあると思う。その意味では「読書」も大事だけど、本の中の人物は容貌が判らないから、マンガや映画、テレビドラマなんかでいい教材がないか。特に思いつかないが、例えば「12人の怒れる男」。陪審制度や冤罪の危険性という観点で、授業でも使ったことがある。それをストーリイで見るというのではなく、被告少年や各陪審員を最初に「見た目」で判断してみる。その後、映画を最後まで見て、最初の印象をチェックするとか。
芸能人、俳優なんかだったら、見た目で判断するのも当然と思われている。だけど、「政治家は違う」。と言っても、見た目で判断する方法を教えられているわけではないから、「見た目」でごまかされてしまう。そういうことの繰り返し。昔、1986年に当時の中曽根首相が、衆参同日選を仕掛けて大勝利したことがあった。同日選は考えていないと言い続け、一時は諦めたといい、「死んだふり」解散と言われた。諦めたとされた時期には「私がウソをつく顔に見えますか」とまで言ったものである。だけど、結局解散に踏み切った。ウソだったのである。そして、「大型間接税は導入しない」と公約して大勝利し、次の竹下内閣が総選挙をせぬまま消費税を導入した。私がウソをつく顔に見えますかと言った時点で、僕にはウソをつく顔にしか見えないよと思ったけど、多くの国民はそう思わなかったのである。政治家の「見た目リテラシー」を有権者も鍛えていかないと、昨今の自民党議員の「暴言」「不祥事」を見抜けないということになるだろう。
そんな人は大人にもほとんどいないだろう。でも、日本では選挙の通知が送られてくるから、やっぱり行った方がいいだろうと思って、かなりの人が行くわけである。中には「見た目で入れる人」もいる。それはダメなんだろうか。知り合いから頼まれて、よく知らないけど入れる人に比べて、そんなに間違ったことなんだろうか。でも、「見た目」で入れてはいけないと指導しちゃう教師はいそうである。選挙後にそう公言する生徒がいたとして、厳しく叱ったりしたためにトラウマ化して以後選挙に行かないなんて…そんな人が出ないかと心配したりする。
「高校生が投票する」ことを過大に評価して、教育を変えるなどと意気込むのもどうかと僕は思っている。今までだって、定時制課程の高校では、成人生徒がいっぱいいた。僕が強調していたのは、「社会参加の一種」として行ってみたらということである。何党に入れるとか、政治的見解をしっかり持つということも大事だけど、それより「まず行く」ことが大事なんだと思う。それは社会的に孤立しがちな若者層が、社会と接点を持つということである。だから、定時制高校で生徒がようやく通えるようになって、そして選挙にも初めて行ったなんて聞くのは、社会科教師としてとてもうれしいことだった。
ところで、だから行けばいいと言っても、実際は大人の多くも「見た目で入れる」のである。特に参議院の比例区はいろんな人がいるから、「見た目」や「イメージ」が結構大きい。各党だって、それを意識して、人気があったり、知名度がなくても「若くて、見た目がいい」候補者を立てるではないか。でも、学校というところは、「見た目」ではなく、「実質を見極めて」という場所である。上級学校や会社選びなんかでも、「イメージ」や「見た目」、つまり「制服で私立高校を決める」とか「オシャレっぽい大学を受けてみる」などというのは、進路指導では受けが悪い。
だから、逆に言えば「見た目リテラシー」を育てる機会がない。これは実はとても大事なことではないか。もっとも、実際の選挙を題材に、各党の党首や学校のある場所の候補者の「見た目印象度」を語り合わせるという授業はできないだろう。でも、現実の人間関係では、「見た目」でダマされないように、「見た目リテラシー」を育てる必要もあると思う。その意味では「読書」も大事だけど、本の中の人物は容貌が判らないから、マンガや映画、テレビドラマなんかでいい教材がないか。特に思いつかないが、例えば「12人の怒れる男」。陪審制度や冤罪の危険性という観点で、授業でも使ったことがある。それをストーリイで見るというのではなく、被告少年や各陪審員を最初に「見た目」で判断してみる。その後、映画を最後まで見て、最初の印象をチェックするとか。
芸能人、俳優なんかだったら、見た目で判断するのも当然と思われている。だけど、「政治家は違う」。と言っても、見た目で判断する方法を教えられているわけではないから、「見た目」でごまかされてしまう。そういうことの繰り返し。昔、1986年に当時の中曽根首相が、衆参同日選を仕掛けて大勝利したことがあった。同日選は考えていないと言い続け、一時は諦めたといい、「死んだふり」解散と言われた。諦めたとされた時期には「私がウソをつく顔に見えますか」とまで言ったものである。だけど、結局解散に踏み切った。ウソだったのである。そして、「大型間接税は導入しない」と公約して大勝利し、次の竹下内閣が総選挙をせぬまま消費税を導入した。私がウソをつく顔に見えますかと言った時点で、僕にはウソをつく顔にしか見えないよと思ったけど、多くの国民はそう思わなかったのである。政治家の「見た目リテラシー」を有権者も鍛えていかないと、昨今の自民党議員の「暴言」「不祥事」を見抜けないということになるだろう。