『ライオンと魔女』を去年の7月に初めて読み(※)、続いて『カスピアン王子のつのぶえ』も読み(※)、いっきにナル二ア読破!!を目指していたのですが、娘が第3巻の『朝びらき丸東の海へ』で止まってしまったため、私もそこから後を読み進めることができませんでした。元々、彼女のためと思い買った本なので。
でも、11月頃に、「どんなお話だったかを絶対に言わない」という条件付きで、『朝びらき丸~』以降を娘よりも先に、全部読んでもよいということになりました。
第3巻でナル二アへ行かれたのは、エドマンドとルーシィとそしていとこのユースチス。3人が、カスピアン王の船「朝びらき丸」に乗って、東へ東へと航海していく話です。ストーリーに伴う冒険と、ダメダメ君だったユースチスが、航海の終わりに見違えるような少年に成長していく様が読みどころかなと、思いました。
続く第4巻『銀のいす』、とても楽しみにしていました。というのは、blog「ゆきてかえりしひび」のjesterさんが、ご自身のブログか、あるいは他の方のコメント欄で「銀のいすが一番好き」と書いてらしたからです。
jesterさんは子どもの頃より、ナル二アにとても親しんでいて、『ライオンと魔女』の映画も、映画館で2回観て、2回とも涙が止まらなかったそうなんです。それほど、思い入れている方が『銀のいす』を一番に推しているのですから、私の期待も高まりました。
そしてそして、期待を裏切らず、『銀のいす』は、私にとってもナル二アクロニクルの中で、一番おもしろくて、一番好きな話になりました。
ルーシィたち兄弟は誰も登場せず、すっかり成長したユースチスと彼の同級生ジルが、この話の主役です。それと、沼人の泥足にがえもん。この3人が、カスピアン王の息子の、リリアン王子を捜しに旅をするのが、第4巻なんです。
泥足にがえもんって、おもしろい名前ですよね。背が高くて痩せていて、性格はペシミスト。なんとなくカエル人間?って、登場シーンでは思ってしまったのですが、それは大変失礼な誤解でした。
フォーンのタムナスさんが、あくまでもフォーン(決して山羊人間でなかったように)の、タムナスさんであったように、泥足にがえもんは、沼人の、泥足にがえもん以外の何者でもないのです。
アスランが、リリアン王子を見つけだすために、ジルに4つのヒントをあらかじめ与えてくれたのですが、なかなかその通りには行かず、何度も危ない目に合う3人‥。地底に住む魔女の力の前に屈してしまいそうになるのですが、そこで泥足にがえもんが、最高に素晴らしいことを言うのです。
「よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみなーつまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭の中につくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。」
地底の魔女は、繰り返します。地下にあるこの世界こそ唯一絶対であって、空があり太陽が輝いている外の世界なんてまやかしに過ぎない、見たような、そこに居たような気がしているだけだって。アスランなんて存在していない、存在していたようにみんなが思っているだけだって。
そう言われても、泥足にがえもんは言い切ります。
「たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、ナル二アがどこにもないということになっても、やっぱりナル二ア人として生きていくつもりでさ」
この「アスラン」や「ナル二ア」を、ほかの人の名前や、ほかのものに置き換えてもおんなじですね。
本当に、自分が心から愛している人や、とても大切に思っているものだったら、たとえ目には見えなくても、すぐに会うことができなくても、もしかしたら生きている間にはもう二度とその手に触れることさえできなくても、でも、愛する気持ちをなくしたり、なかったことにはできないのです。その人や、そのものが「好きで好きでしかたなかった自分」として、生きていくしかないのです。
大人になってから、泥足にがえもんのこの言葉を読んだ私は、こんなふうに思ったのでした。
第4巻を熱く語ってしまったので、第5巻以降は、「その2」に続きます。
でも、11月頃に、「どんなお話だったかを絶対に言わない」という条件付きで、『朝びらき丸~』以降を娘よりも先に、全部読んでもよいということになりました。
第3巻でナル二アへ行かれたのは、エドマンドとルーシィとそしていとこのユースチス。3人が、カスピアン王の船「朝びらき丸」に乗って、東へ東へと航海していく話です。ストーリーに伴う冒険と、ダメダメ君だったユースチスが、航海の終わりに見違えるような少年に成長していく様が読みどころかなと、思いました。
続く第4巻『銀のいす』、とても楽しみにしていました。というのは、blog「ゆきてかえりしひび」のjesterさんが、ご自身のブログか、あるいは他の方のコメント欄で「銀のいすが一番好き」と書いてらしたからです。
jesterさんは子どもの頃より、ナル二アにとても親しんでいて、『ライオンと魔女』の映画も、映画館で2回観て、2回とも涙が止まらなかったそうなんです。それほど、思い入れている方が『銀のいす』を一番に推しているのですから、私の期待も高まりました。
そしてそして、期待を裏切らず、『銀のいす』は、私にとってもナル二アクロニクルの中で、一番おもしろくて、一番好きな話になりました。
ルーシィたち兄弟は誰も登場せず、すっかり成長したユースチスと彼の同級生ジルが、この話の主役です。それと、沼人の泥足にがえもん。この3人が、カスピアン王の息子の、リリアン王子を捜しに旅をするのが、第4巻なんです。
泥足にがえもんって、おもしろい名前ですよね。背が高くて痩せていて、性格はペシミスト。なんとなくカエル人間?って、登場シーンでは思ってしまったのですが、それは大変失礼な誤解でした。
フォーンのタムナスさんが、あくまでもフォーン(決して山羊人間でなかったように)の、タムナスさんであったように、泥足にがえもんは、沼人の、泥足にがえもん以外の何者でもないのです。
アスランが、リリアン王子を見つけだすために、ジルに4つのヒントをあらかじめ与えてくれたのですが、なかなかその通りには行かず、何度も危ない目に合う3人‥。地底に住む魔女の力の前に屈してしまいそうになるのですが、そこで泥足にがえもんが、最高に素晴らしいことを言うのです。
「よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみなーつまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭の中につくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。」
地底の魔女は、繰り返します。地下にあるこの世界こそ唯一絶対であって、空があり太陽が輝いている外の世界なんてまやかしに過ぎない、見たような、そこに居たような気がしているだけだって。アスランなんて存在していない、存在していたようにみんなが思っているだけだって。
そう言われても、泥足にがえもんは言い切ります。
「たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、ナル二アがどこにもないということになっても、やっぱりナル二ア人として生きていくつもりでさ」
この「アスラン」や「ナル二ア」を、ほかの人の名前や、ほかのものに置き換えてもおんなじですね。
本当に、自分が心から愛している人や、とても大切に思っているものだったら、たとえ目には見えなくても、すぐに会うことができなくても、もしかしたら生きている間にはもう二度とその手に触れることさえできなくても、でも、愛する気持ちをなくしたり、なかったことにはできないのです。その人や、そのものが「好きで好きでしかたなかった自分」として、生きていくしかないのです。
大人になってから、泥足にがえもんのこの言葉を読んだ私は、こんなふうに思ったのでした。
第4巻を熱く語ってしまったので、第5巻以降は、「その2」に続きます。