地元の図書館で開かれた、詩人の長田弘氏の講演会に行きました。
会議室にて、定員40名の、ちょうどいい感じの会でした。
すこし迷いましたが、期待をこめて『森の絵本』を持っていきました。
長田弘さんはいったいどんなお顔をしているのだろう?
谷川俊太郎さんのお顔は、写真やテレビで見たことがあるけれど、
思えば他の詩人の方のお顔は、見たことがありません‥
背広にネクタイ、短く刈った髪に手さげタイプの革のカバン。
館長に紹介され、席に着いて、カバンから取り出したのは
薄い本が2冊に、(たぶん)時計でした。
セッティングを済ませると、季節の挨拶も、初めて訪れたという川口の
印象の話も何もなく、すっと本題に入られました。
もしも、詩を書いている人だとしらなければ、話はじめの時は
役所関係か、郵便局の人(簡易保険担当)?と思ったかもしれません。
話の最初はこうでした。
本という不思議、ということでお話しますが、
みなさんは、本というと、書かれている中味が大切とお思いになるでしょう。
けれど、本にとって大切なのは、中味ではなく、「器」が何より大切なのです。
本の器。
本という器。
これがこの日のキーワードでした。
入れ物があるからこそ、中味を入れることができる。
入れ物がなければ、水をすくうことも、食べものを入れることもできない。
本にとってもそれは同じことで、本という2500年の歴史を持つその体裁が
あってこそ、中味を維持できるということです。
形あるものが、その形をとり続けることの大切さに、話は展開していきました。
それは日常わたしたちが使っている日本語も、形があるものは
それが言葉として残っているけれど、使われなくなり、ものとしての形が
なくなると、いつしかそれを表していた言葉がなくなり、言葉がなくなると
いうことは、文化がなくなることだと、おっしゃっていました。
具体例として、写真アルバム。
誰もがパソコンで写真を管理して見るようになると、いつしか「アルバム」が
どういうものだったのか忘れられていき、すると、「思い出のアルバム」などという
日本語の比喩もなくなってくる‥
その昔、本を綴じる技術がなかった日本の書物は、巻物に記していた。
だから今でも、本のことを一巻、二巻と数えるし、「本を紐解く」という言い方も
残っている。それは巻物が紐で結わかれていたときの言葉が今も生きている
ということです‥
日本語が崩れていくスピードがどんどん早くなっていくことを
憂いている気持ちが、じわじわと伝わってきましたし、それと同時に、
本を心から愛していることが、よーくわかりました。
お話の終盤、「本は自分がお金を出して買ったものであっても、
わたしは預かりものだと思っています。こういう機会を通してみなさんに
お願いするのは、本を、器としての本を汚さないでほしいということです。
書き込む時は、ぜひ鉛筆でお願いします」とおっしゃいました。
この日、持ってきていた(話の中でも度々紹介してくれました)薄い本は、
古本屋で見つけたという明治時代の小学生高学年向きの辞書でした。
「大切にされていた本は、こうやって今でも手に取ることができるのです。
本の器を、自分の生活の中に置いておくための本をどうぞお持ちに
なってください。」
‥本は、そこにあるだけで、毎日の暮らしが潤います。
長田さんの言葉はカッコの中で終わっていましたが、私は心の中であとを
続けました。‥からあとは私の気持ちです。
本は、本という形を持っているだけで美しく、本であるというだけで
いいものなのです、やっぱり。
すっかり長田弘さんに共感した私は、『森の絵本』とサインペンを持って
いそいそと、長田さんに近づいて行きました。
サインしていただけますでしょうか、と申し出ると、
優しい笑顔で、快く引き受けてくださいました。
「この本は、最初に詩があって、それに絵がつけられたのですか?」と私。
「そうですね。わたしは、たいていの場合、最初は会わないのですよ。
ただ、書いたものを渡すだけで。このときも、一度も荒井君には会いませんでした。
その後は、たびたび会いますがね、荒井君とは」
「荒井さんの描いた絵はすぐに気に入りましたか?」
「ええ。それはもちろん、気に入りました」
「すごく好きな本なんです」と、再度、私。
「そうですか、この本、好きですか」
とても嬉しそうにそうおっしゃってくださいました。
サインは写真に撮って、手帳のその日の欄に貼ることにしました。