豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ドナルド・キーンの軽井沢

2022年07月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 東京新聞朝刊には、ドナルド・キーンの養子が養父(キーン氏)の思い出をつづったエッセイが定期的に掲載されている。
 けさ(7月18日)のこの連載は「軽井沢の日々」と題して、キーンが愛したという軽井沢の思い出が記されていた。
 キーンの軽井沢の思い出は、彼の養子よりもぼくのほうがはるかに古いと思う。

 昭和40年頃、ぼくと従弟たちは、千ヶ滝中区の通称「文化村」から沢沿いのけもの道をテクテクと上流に向かって歩いて登った。ぼくたちの「スタンド・バイ・ミー」である。途中の崖の上にはNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮などが見えた。
 一時間以上歩いて、ぼくたちはグリーン・ホテルの道路を隔てた南側にあった展望台の真下の別荘地に至った。
 その中の一軒に、「D・キーン」という白い板の表札の立つ家があり(今日の記事を読むと10坪の建物で、キーンは「庵」と称していたという)、 平屋建てのその家のテラスで、キーン氏らしき人物がタイプライターを打っているのが見えた。
 「ドナルド・キーン」というと毛筆か万年筆で原稿を執筆しそうなイメージだが、彼(らしき人物)はタイプライターを打っていた。
 今朝の記事によると、彼はタイプライターで原稿を打っていたとあるから、おそらく昭和40年頃に中学生のぼくが見た「D・キーン」宅のテラスの人物はドナルド・キーンさんだったのだろう。

 この夏、軽井沢高原文庫で「ドナルド・キーン展」が開催されるというから、見に行ってキーン氏の昭和40年頃の別荘の所在地を確認してこようと思う。

 2022年7月18日 記

   
 今朝郵便受けを開けると、西武リアルティからの封書が届いていた。「重要」というハンコが押してある。
 締切り(7月10日)から日にちが経ったので落選したのだろうとあきらめていたが、ひょっとして! と思って開封すると、予想通り「千ヶ滝音楽祭」の当選案内だった。
 倍率がどのくらいだったのか分からないが、前にも書いたとおり、なぜか当選するという予感がしていたのである。
 10年ほど前に勤務先の労働組合の忘年会で一等賞(横浜ホテルニューグランドのペア宿泊券)が当たった際に、突然壇上で当選のスピーチを求められたので、つい「こんなことで “運” を使いたくない」などと言ってしまって顰蹙を買ったので、今回は素直に喜びたい。
 あの千ヶ滝プリンスホテルの中に入れるなど、昭和の時代には考えてもみなかったことである。しっかり見て来なくては。

 2022年7月20日 追記

千ヶ滝プリンスホテル

2022年07月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月28日付けの「きょうの軽井沢」で(旧)千ヶ滝プリンスホテルについて、以下のように書いた。

 「プリンス・ホテル」の本丸ともいうべき、本当の “プリンス” (皇太子)一家が毎年夏休みに滞在していた千ヶ滝プリンス・ホテルがなくなってしまったのは何年前のことだったか。秋篠宮が幼少の頃に、あのホテル前の道路を歩く姿を見かけたことがあったから、50年近く前のことになるのだろう。
 あの頃も道路から建物を見ることはできなかったが、建物は今でも残っているのだろうか。「千ヶ滝プリンスホテル」と手書きの書体で墨書(?)された門標、火山岩を積んだ低い門柱と木製の大きな門扉はしばらく残っていたが、それらも今はない。  

 と書き込んだ直後に、「千ヶ滝通信」45号(2022年夏号、西武リアルティソリュージョンズ発行)が送られてきたのだが、その中に「千ヶ滝音楽祭」というコンサートの案内が載っていた。
 8月1日に旧千ヶ滝プリンスホテルで「ロイヤルコンサート」というのが開催されるという。午前の部、午後の部それぞれ10組20名限定だという。なお、同日夕方には秋川雅史のリサイタルもあるらしいが、こちらは千ヶ滝プリンスホテルが会場ではないのでスルー。
 出演者は申し訳ないが全く知らない演奏家ばかりだが、千ヶ滝プリンスホテルに入場できるとあれば応募しない手はないので、さっそく申し込んだ。久しぶりにわが家のファックスで送ろうとしたが、ローラーがまわらないので送信できない。おそらくゴムが劣化してしまったのだろう。改めてメールで応募したが、メールの応募はどうやって抽選するのだろうか」?

 当たるかどうか楽しみである。
 ぼくは比較的くじ運は強い方だし、千ヶ滝プリンスホテルに対する思い入れの強さで行けば当選確実と自負するのだが、何せ当選者は10組(午前、午後合計で20組)なので、期待しないで結果を待とう。
 いずれにしても、こんど軽井沢に行ったときは、旧千ヶ滝プリンスホテルの前は徐行してじっくり観察してこよう。管理事務所に車をとめて歩いて見に行った方がよいかもしれない。

 ここまで 2022年7月8日 記

 この書き込みを見て応募する人が増えることを危惧して、締切り(7月10日午後4時)までは投稿を控えていた。抽選の結果は通常の連絡方法で通知すると書いてあるが、「通常の連絡方法」とはメールだったか、固定電話だったか、携帯だったか。固定は何時も留守電にしてあるので気をつけないと。
 今日あたり抽選ではないかと思うのだが。
 ※ 7月11日 追記

 さらに数日待ったが、今のところ連絡はない。「当選者には通常の連絡方法で連絡する」となっていたから、落選者には連絡は来ないのだろう。そして落選したのだろう。残念。
 ※ 7月13日 追々記

 実はその更に数日後にこのコンサートのペアチケットが郵送されてきて、夫婦で軽井沢プリンスホテルのコンサートを見物することができた。
 ※ 2024年4月28日 追々々記

きょうの軽井沢(2022年6月18日~19日)

2022年06月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月18日(土)はやや曇り空。
 この日は旧軽井沢(旧道)に出かけた。いつもの通り、神宮寺にとめる。
 今回は、堀辰雄の「美しい村」「ルウベンスの偽画」や、川端康成の『高原』などに出てきた光景を確認するのが目的に1つだった。堀や芥川が滞在したことがある「軽井沢ホテル」はこの辺りだろうか、川端が逗留した「藤屋旅館」はこの辺りだろうかなどと考えながら、聖パウロ・カトリック教会の周辺や神宮寺の境内を歩いた。
 コロナ禍の緊急事態が解除され、人出も少し回復してきた印象。みんなマスクはしているが、コロナ感染を心配する気配は感じられなかった。

       

 堀辰雄が芥川か川端かに送った葉書に「神宮寺の枝垂桜がいま満開です」と書いているが(堀辰雄『風立ちぬ』角川文庫、1950年! 262頁。軽井沢ホテルの位置もこの葉書に示してあった)、その枝垂桜(だと思う)が参道の脇に立っていた。立札に樹齢約400年とある。軽井沢には、浅間山以外にも変わらないものがもう一つあった。
 旧道入口わきの竹風堂に「今季は営業しません」という張り紙があった。ここではマロンソフトくらいしか食べなかったのだが、やはり寂しい。竹風堂の栗羊羹、栗鹿の子は時おり親戚に送るのだが、配送依頼が便利なのでツルヤで注文している。
 昔は町営駐車場からこの竹風堂に抜けることができたのだが、最近はどうなっていたのか。
 草軽電鉄の旧軽井沢駅と踏切際のあたりもずい分様変わりしてしまった。周辺の土産物屋も次々に淘汰されてしまって、健在なのは右手の八百屋さんくらいか。

   

 夕方、肩の脱臼でリハビリ中の家内は、湯治をかねて千ヶ滝温泉に出かける。

   
   

 以前松山で学会があった折、朝一番で道後温泉の本館に行った友人が、「芋の子を洗うような混雑で、温泉気分もあったものではなかった」と述懐していたので、家内にも星野は避けてスケートセンターくらいが空いているのではないかとアドバイスしたのだが、それでも結構混んでいたという。
 ぼくは温泉は嫌いなので、旧千ヶ滝スケートセンターのテニスコートや、旧西武百貨店軽井沢店跡、旧文化村の親戚の家の周辺を散策して時間をつぶした。

   
   

 今では雑草のおい繁っているテニスコートでは、その昔、皇太子時代の上皇がテニスをするのを眺めたこともあった。かつての観客席のはずれになぜか公衆電話ボックスがポツンとあった。森高千里の「渡良瀬橋」を思わせるけど、あの電話で恋を語る若者などいないだろう。

   

 待ち合わせまでなお時間があったので、いつもはクルマで通り過ぎるだけだった、堤康次郎の銅像を見物してきた。
 緑の木立の向うに銅像があって、右側には神社と鳥居が立っていた。
 わが家の軽井沢との縁は、彼の千ヶ滝開発の恩恵をこうむっている(remote causation)。わが家が土地を買ったのは国土計画からだったし、ぼくの軽井沢、千ヶ滝の思い出は、西武、国土計画(昔は別会社で、実業団アイスホッケーのチームも分かれていた)が経営したグリーン・ホテル、軽井沢スケートセンター、西武百貨店軽井沢店などとともにある。
 浅間山麓の米軍軍事演習場化反対運動の成功(基地化断念)の裏には、千ヶ滝に広大な土地を所有しており、衆議院議長でもあった堤の影響力もあったようだ(荒井輝允『軽井沢を青年が守った』ウイン鴨川、2014年、104頁)。同書には「康治朗」と表記してあるが、銅像の銘板は「康次郎」だった。
 
   

 あまり手入れも行き届いてない様子で、枯れ枝が散らかっていた。奢れる者も久しからず、のあわれを感じた。
 そう言えば、西武があちこちのプリンス・ホテルを手放すという記事を読んだが、「プリンス・ホテル」の本丸とも言うべき、本当に “プリンス” が毎夏休みに滞在していた千ヶ滝プリンス・ホテルがなくなってしまったのは何年前のことだったか。秋篠宮が幼少の頃に、あのホテル前の道路を歩く姿を見かけたことがあったから、50年近く前のことになるのだろう。
 あの頃も道路から建物は見えなかったが、建物は今でも残っているのだろうか。「千ヶ滝プリンスホテル」と手書きの書体で墨書(?)された門標、火山岩を積んだ低い門柱と木製の大きな門扉はしばらく残っていたが、それらも今はない。  

 旧スケートセンター入り口から千ヶ滝温泉に下る坂道の中腹から眺めると、夕霞に煙った浅間山と前掛山(?)と石尊山が三つのこぶになって見える場所があった(冒頭の写真)。
 真中の山は、わが家では「前掛山」と言い慣わされてきたが、地図には載っていない。

   

 そして、きょう19日(日)はもう帰京の日。
 朝6時前から青空が広がり、木々の緑が朝日をあびて輝いている。帰るのがもったいない天気である。
 9時前に帰り支度を済ませて、出発。

   

 発地市場で、野菜を買って帰路についた。この時期、野菜は数も質もいまいち。細い薩摩芋くらいの玉蜀黍が2本で450円だった。この時期どこで玉蜀黍を作っているのだろう。家内によれば値段も東京とそれほど違いはない、ただ東京に比べて新鮮なので買って帰るとのこと。
 昨日立ち寄った地元のオバさんも、まだ野菜ができてなくて差し上げるものが何もなくて、と申し訳ながっていた。
 峠を下り、藤岡に近づくと気温は30℃を越えていた。

 2022年6月19日 記

きょうの軽井沢(2022年6月16日~17日)

2022年06月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 木曜日(16日)から日曜日(19日)にかけて、天気予報では梅雨の中休みで好天が続くとのことだったので、思い立って軽井沢に出かけてきた。
 めずらしく天気予報が見事に当たって、4日間とも軽井沢は好天に恵まれた。昨土曜日(18日)だけは、やや曇り空だったが雨はまったく降らなかった。おかげで室内にしっかり風を通すことができた。

 16日(木)の昼過ぎに到着。南軽井沢交差点の道路気象情報では気温は22℃だった。
 ツルヤで食料品を買い込む。ツルヤは今年で創業130周年とのことで、「ツルの恩返し」セール(笑)をやっていた。
 前にも書いたが、軽井沢の食料品店の栄枯盛衰をたどると、昭和30年代に(それ以前のことはぼくは知らない)明治屋、小松ストア、紀ノ国屋、ジャスコが相次いで進出しては、やがて消えていってしまったが、ツルヤはこれらの店舗にうちかって生き延びてきた。
 調べてみたら、明治屋だけはツルヤよりも創業が少しだけ古いが、他の店はすべてツルヤよりも後発の会社だった。ツルヤはもとは確か肥料問屋だった。

   

 17日(金)は、プリンス・ショッピングモール(現在の正式名称は知らない)に、孫のスニーカーを探しに行った。
 子供向けのアパレルメーカーに就職したゼミ卒業生から、「洋服は何でもいいけど、靴だけはいい物を買ってあげてください」とアドバイスされたので、足が大きくなって靴のサイズが小さくなるたびに、奮発してナイキのスニーカーを買っている。
 残念ながら、今回はナイキショップにサイズがなかったので、後日、旧軽の靴屋で買った。
   

 ショッピング・モールを歩いていると、離山の頂きごしに、浅間山の山頂と石尊山がわずかに見えるのを発見した。

   

 昼食は、毎度のことで能がないが、国道18号沿いの追分そば茶家で。この店ももう20年以上になるだろうか。最初は「かぎもとや追分店」と称していたように記憶するが。
 先日何かのテレビ番組で、地元のタクシー運転手がすすめるおいしい店というコーナーに、追分そば茶家が出てきた。店主の話では、現在の天皇が皇太孫だったころ、この店に来て店内を走り回っていたという。この店の店内には毎年皇室アルバム風のカレンダーが飾ってある。
 夫婦で天ぷらを二人前食べられなくなったので、最近は2人でシェアしている。

  

 昼食後、天気がよく青空がきれいなので、浅間山を眺めに行くことにした。
 散歩で通りかかったぼくと同年代の老人と、しばし言葉を交わす。ぼくは、軽井沢の散歩の途中で人と会話することはない。先方が気さくな人で、人懐っこく話しかけてきた。
 当然浅間山が話題になる。
 子どもの頃に、峰の茶屋から浅間山に登ったことや、石尊山に登ったが途中で挫折したこと、赤滝、血の池などという名前にもかかわらず、赤い水ではなかったことなどを話した。
 彼によれば、今では石尊山(かれは「せきぞん」と発音していたが、ぼくは「せきそんさん」である)の登山道が整備されて、自転車で登る若者までいるとのことである。南側の噴火口に「ゴリラの顔」ともう一つ何とかというあだ名をつけたとも言っていたが、忘れてしまった。
 赤い水が湧いているところもあるとのことだったが、もう浅間山や石尊山に登る元気はないので確認はできない。
 
   

 浅間山は、遠くから眺めることができれば十分である。映画『カルメン故郷に帰る』を撮影したときの笠智衆よりも年寄りになってしまったのではないか(上の写真、冒頭の写真はその時のもの)。

 2022年6月19日 記

きょうの軽井沢(2022年4月1日)

2022年04月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 今朝、NHKラジオ(R1)の天気予報を聞いていたら、「軽井沢は積雪が6センチ」と言っていた。
 東京もやや寒かったが、さすが軽井沢は雪まで積もっているのか。

 現在の軽井沢の雪景色を見たくなって、軽井沢町役場、長野国道事務所、気象庁などのHPに載っている定点カメラの映像を眺めた。
 冒頭の写真は、気象庁監視カメラの「浅間山(鬼押)」に見る浅間山の雪化粧。
 下の写真は、長野国道事務所のHPから、順に、長倉(南軽井沢交差点西)、鳥井原、追分の画像。

   

   

   

 そして最後は、軽井沢町役場前の国道18号の現在。
 道路の雪はとけているが、役場内の植え込みには雪が積もっている。

   

 どの写真も、曇り空で、寒々としている。やっぱりぼくには永住は無理だっただろう。

   *   *   *

 ところで、きょう8時少し前のNHKラジオで(番組の名前は忘れた)、山本コータロー “岬めぐり” が流れていた。“岬めぐり” はぼくの好きな曲の1つである。26歳のころ、同僚とドライブに行った伊豆西海岸の大瀬崎を思い出す。
 なんで “岬めぐり” かと思ったら、司会の三宅民夫さんのリクエストだという。
 今日の放送は彼の最終回だという。“岬めぐり” は、彼が大学を卒業した年に流行していた曲で、友と別れて一人旅をする気持を歌ったこの曲が心にしみたと語っていた。

 正直なところ、ぼくは彼の語り口が苦手だった。
 ぼくは教員になった最初の新任研修で、NHK元アナウンサー室長(?)の大沢さんという方から「口語によるコミニュケーション」の講義を受けた。話し言葉によるコミュニケーションがいかに難しいかということを実例から学ぶことができた。
 彼はわれわれ新米教員に向かって、「もし学生の答案の出来が悪かったときは、学生の頭が悪いと思う前に、皆さんの話し方が悪かったのではないか、講義がきちんと学生に届くように話していたかを反省して下さい」と言われた。出来の悪い答案に出会うたびに、あの大沢さんの言葉を思い出して「伝わらなかったのかな」と反省した。
 元NHKアナウンサーから語り方を学んだ一人として、ぼくは正統派NHKアナウンサー的なしゃべり方が耳に心地よい。 

 しかし別れと出会いの日である4月1日に、“岬めぐり” をリクエストする三宅さんには若干の共感を覚えた。少し歳は若いけれど、同時代の人だったのだ。
 
 ぼくのゼミの卒業生たちも、みんなそれぞれの思いを抱いて何年目かの4月1日を迎えていることだろう。

 2022年4月1日 記

きょうの浅間山(2022年3月24日)

2022年03月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
 3月24日の朝、テレビにまだ雪をかぶっている浅間山のすがたが映っていた(上の写真)。咄嗟だったので、どこのチャンネルだったかは分からない。

 中学3年か高校1年生の夏休みに、叔父に連れられて、従弟と一緒にあの頂上に登った。
 峰の茶屋から登った。
 頂上から見下ろすと、嬬恋方面に向かう道路を走る車がミニカーよりも小さく、蝸牛のあゆみよりもゆっくり走っているように見えていた。

 東京は春めいてきたが、軽井沢はまだまだ冬模様なのだ。

 2022年3月28日 記

きょうの浅間山(2022年1月29日)

2022年01月29日 | 軽井沢・千ヶ滝

 ネタがないので(いまだにバーク『フランス革命の省察』が終わらない)、またしても気象庁のHPの監視カメラ画像(浅間山・鬼押)から現在の浅間山のすがたを借用。

 東京も朝起きたころより日ざしが出てきたので、軽井沢はどうだろう?と思って見てみると、青空と白雲を背景にして、冬の日ざしを浴びた浅間山の冠雪が輝いていた。

 穏やかな風景だが、先日トンガの大噴火を特集した番組で、富士山、箱根山などと並んで、浅間山もいつ噴火してもおかしくない火山として紹介されていた。
 ぼくの生きているうちはそんなことがないことを祈る。

 2022年1月29日 記

きょうの浅間山(2022年1月10日)

2022年01月10日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 気象庁の監視カメラ画像(浅間山)から借用した画像。

 浅間山(鬼押)となっているが、鬼押出しのどの辺に気象庁の定点カメラは設置されているのだろうか。浅間山の形から見て、鬼押出し園に向かう有料道路のドライブイン(現在は閉店してしまった)のあたりか・・・。
 現在の東京はどんよりと曇っているが、浅間山は冬の日差しを浴びて輝いている。

 なぜか、長野県道路事務所の画像が昨年の末頃から閲覧できなくなってしまった。
 南軽井沢交差点、鳥井原東交差点(消防署やしまむらの所)、軽井沢町役場前、追分(場所は不明)、そして馬瀬口の現在の写真を見ることができたのだが。

 2022年1月10日 記

堀辰雄『美しい村』(角川文庫)

2021年10月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 堀辰雄『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』(角川文庫、2021年改版50版)から「美しい村」を読んだ。

 「美しい村」と「風立ちぬ」は手元にある新潮文庫に収録されているのだが、新字体(新漢字)、新かな遣いであることと、柴田翔、矢内原伊作、堀多恵子らの解説がついていたので、角川文庫を買ってしまった。断捨離しなければならないのに。

 「美しい村」(昭和9年、1934年)と「風立ちぬ」(同12年)は、「新潮文庫の100冊」(1988年)によれば、「著者中期の傑作2編」ということになる。
 処女作「ルウベンスの偽画」(昭和2年、1927年)から、「聖家族」(同5年)、「恢復期」「燃ゆる頬」(同6年)、「麦藁帽子」(同7年)、「旅の絵」(同8年)あたりまでが前期の作品、「晩夏」、「菜穂子」(昭和16年)、「花を持てる女」「幼年時代」(同17年)、「ふるさとびと」(同18年)などが後期の作品にあたる。「かげろうの日記」(同14年)も後期か。
 河上徹太郎の解説によれば、堀自身が「美しい村」によって「ルウベンスの偽画」以来の自分の青春文学には区切りをつけ、これから自分の本当の文学が始まると宣言しているそうだ(269頁)。
 ※ 下の写真は、人影もほとんどない梅雨時の軽井沢旧道(本通り。2017年7月)。あまり「美しい村」にふさわしい軽井沢の写真がなかったので・・・。
    

 もともとは、軽井沢ないし追分の「ある秋の出来事」を求めて、この9月末から堀辰雄を読み始めたのだが、最後のつもりの「美しい村」は、舞台は軽井沢だが、6月から梅雨を経て夏の始まり頃で終わってしまている。
 軽井沢の秋を訪ねるだけなら「菜穂子」でやめておけばよかったかもしれないが、堀自身とその周辺の人物に興味が湧いてしまったので、もうしばらく付き合うことにした。 

 丸岡明の解説によれば、「ルウベンスの偽画」「聖家族」のモデルは片山広子母娘であり、「聖家族」によって堀は文壇に確固たる地位を得たが、同時に現実社会では娘片山総子との間に軋轢を生むことになてしまったという(259~60頁)。堀は芥川の遺品を整理する作業の中で、片山から芥川にあてた手紙を発見したのではないかと丸岡は推測している。
 「美しい村」で、主人公がその近辺を徘徊しながら近づくことを避ける別荘の主、細木夫人は、庭に羊歯を植えさせたりしているから、「聖家族」の細木夫人で(「ルウベンスの偽画」でグリーン・ホテルにドライブした母娘には名前があったか?)、「恢復期」の「叔母」もその別荘を「羊歯山荘」と称していたことから、「美しい村」の細木夫人すなわち片山広子なのだろう。
 そして、つるや旅館に滞在しながら、毎日大きなキャンバスを抱えて写生に出かける少女は「風立ちぬ」のモデル矢野綾子である。こうして、「美しい村」の堀作品全体のなかでの位置が明らかになる。

 しかし、ぼくはそれらの人物よりも、細木夫人の別荘の庭に羊歯を植える宿屋(つるや)の爺や、スイス風のバンガロウに昨夏まで住んでいた2人の外国人の老婆、水車の道に面して2軒並んだ花屋の主人同士の兄弟げんか、サナトリウム院長の不機嫌なスイス人老医師レイノルズ博士、足の不自由な花売り、力餅を出す峠の茶屋の子どもたちのほうに興味が湧いた。
 ちなみに、水車の道を「本通りの南側」と書いているが(56頁。新潮文庫『美しい村・風立ちぬ』59頁でも「南側」)、堀の手書きの軽井沢地図をみても明らかなように、水車の道(聖パウロ教会前の道)は本通りの「北側」である(丸岡明解説262頁、下の写真)。
 この地図によって「軽井沢ホテル」の位置も知ることができる。郵便局(現在は観光会館)から本通りを挟んだ北西方向斜め向かい、聖パウロ教会の水車の道を挟んだ北東方向斜め向かいにあったらしい。現在は何になっていただろう。
 誰にあてたのか分からないが、この葉書には「神宮寺の枝垂桜がいま満開です」と書き添えてある。神宮寺には今でも枝垂桜があるのだろうか。あるとしたら、何時ごろ満開になるのだろうか。

   

 ぼくが若い頃に読んだ「美しい村」は昭和39年11月発行の新潮文庫40刷である(定価は90円!)。ぼくが中学3年、東京オリンピックの終了直後の出版である。受験を控えたこの時期にこんな本を読んでいたとは思えないから、高校に入ってから読んだと思う。
 あんな面倒くさい主人公の心の動きを当時の(今でも)ぼくが理解できたとは思えない。戦前の旧軽井沢を舞台とした風俗小説くらいに読んだのだろう。
 今回は、小川和佑『“美しい村”を求めて』や丸岡明の解説などを読んで、堀にまつわるあれこれの知識を得ているので、モデル小説として読んだ。 
 主人公は、まだ主人が来軽しない別荘の敷地内に勝手に入りこんでベランダで煙草をふかしたりしている。今だったら警備会社が飛んでくるだろう。のどかな時代だったのだ。

 「美しい村」で、秋の軽井沢を訪ねる心の旅は終わりにしようと思っていた。
 ところが、ぼくは、「菜穂子」に出てくる追分の老舗旅館牡丹屋の「おようさん」の曰くありげな書かれ方が気になっていたところ、「花を持てる女」ではもう一人の「おようさん」が向島に実在したことを知った。この二人の「おようさん」について、もう少し知りたくて「幼年時代」も読んでみることにした。
 堀が目ざした「ロマン」(=虚構)ではなく、現実の「おようさん」を知りたいのだが、「おようさん」は結局は「お杳さん」で終わるかもしれない・・・。                                                                                                                                                                                                                                     

 2021年10月22日 記


川端康成『高原』

2021年10月16日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 川端康成『高原』(中公文庫、1982年)を読んだ。
 この本は、軽井沢に題材をとった川端の昭和11年から13年頃の短編と随筆を収めた短編集であるという、小川和佑『“美しい村”を求めて』(読売新聞社、1982年)の紹介で読んでみたくなった。
 「軽井沢だより」(昭和11年)という随筆を最初に読んで、その後、短編小説「父母」「百日堂先生」「高原」ほかを読んだ。

 「軽井沢だより」は「文學界」を支援する明治製菓に対して、小説を書くことができないでいた川端が穴埋めとして執筆した、神津牧場(明治製菓が経営する牧場だそうだ!)から軽井沢までハイキングした折の旅行記である。
 旅姿(の汚さ?)からつるや旅館で宿泊を断られ、おなじ通り沿いの藤屋旅館に投宿することになる。
 藤屋がどの辺にあったのかをぼくは知らないが、その宿の窓から神宮寺の庭が見え、その庭を通りかかった河上徹太郎の奥さんに声をかけて、河上に会いに行くエピソードが語られている。

 軽井沢における風紀のやかましさなど、河上と軽井沢談義をする。軽井沢に到着した当初は、「かねて想像する、夏の軽井沢は虫が好かぬところ」だと言っていた川端だが、やがてこの地を気に入って別荘まで建てて、仕事をすることになる。
 堀の小説には(ぼくが読んだ限りでは)登場しない旧軽井沢の神宮寺が出てきたり、千ヶ滝の観翠楼や塩壺温泉が出てきたり、戦前昭和の千ヶ滝が出てくるだけでも興味深く読むことができた。
 ※ 下の写真は、本通りに面した神宮寺の入り口。右側にはかつて三陽商会のバーバリー売店がありその裏は同商会の夏季寮だったが、この辺りに藤屋旅館があったのだろうか。
      
      
 短編集全体の表題にもなった「高原」は昭和14年(1939年)に発表された作品である。
 この小説は、日本と中国との間の戦争がはげしくなりつつあった昭和14年当時の軽井沢の風俗を知ることができる点で、興味深く読んだ。ちょうど小津安二郎の映画によって昭和35年(1960年)までの東京の風俗や雰囲気を知ることができるのと同じである。

 懐かしい風物がたくさん登場する。
 「軽井沢たより」にも登場した藤屋旅館(この本(中公文庫版)が刊行された昭和57年当時は現存していたと水上勉の解説に書いてある)、藤屋旅館の窓越しに眺める神宮寺の庭が出てくる。カトリック教会(聖パウロ教会)が出てきて、キリスト教書店が2軒もあったことが出てくる。
 ※ 下の写真は神宮寺の本堂。新しそうに見えるから、川端が河上徹太郎夫人を見かけたころの建物とは違うだろう。この本に収められた「信濃の話」という講演録によれば、当時の神宮寺は「萱の屋根」で「黒ずんだ本堂の板壁」だったようだ(207頁)。
        

 軽井沢駅から白樺電車(草軽電鉄のあのカブト虫だろう)に乗って旧軽井沢に向かう外国人家族、旧ゴルフ場や、雲場の池の近くにあったというプール(軽井沢で泳ぐ人がいたとは!)が出てくる。貸馬屋が出てきて、貸自転車屋も出てくる。
 たしかに昭和30年代(40年代も?)までは貸馬屋というのが何軒かあり、貸し馬が町中を歩き、あちこちに馬糞が転がっていた。当時の軽井沢はほとんどが土道だったから、誰が片づけるでもなく放置されたままになっていたが、やがて土に還っていたのだろう。

 外国人の別荘に雇われた日本人の「アマ」の軽井沢での生活も描かれている(61頁)。「アマ」(阿媽)というのは、広辞苑によれば「東アジア諸国に住む外国人の家庭に雇われた現地の女中または乳母の総称」だそうだ。
 この人たちの中には、いかにも日本女性的な献身で主人の気に入られ、養女となったり遺産を贈与された者もあったが、中にはたちが悪いのもいたらしい。
 彼女らの給料は月30~40円だが、中には一夏70円で請け負って、月20円で下請け女を雇って働かせる強かなアマもいた。女中としての一日の仕事を終えた夜になると、三人五人と集まって軽井沢の町中にくり出し、中華料理屋などで騒ぐ者などもあったという。
 この手のアマや、コック、別荘管理人らの小ずるさをなじる言葉が須田の姉の口によって語られている(121頁)。
 昭和14年頃の旧道は、外国人宣教師やキリスト教信者、富裕な外国人や、堀、川端のような文士だけでなく、そのような連中も歩きまわっていたようだ。来夏、旧道を歩いたら彼女らの亡霊も感じられるかも知れない。
 
 昭和14年は日中間の戦争が激化しつつある時代であった。以前の書き込みで(『“美しい村”を求めて』を読んで)、戦争に対する川端の「傍観者的態度」と書いた。同書の引用からそのように感じたのだが適切ではなかった。
 「高原」のなかには、暢気な軽井沢での避暑生活を送る人たちの背後に、戦争の激しくなる気配がひたひたと忍び寄っていることを感じる川端の姿が透けて見える。
 「高原」は、その冒頭から、軽井沢に向かう主人公(須田)が、軍事路線であった信越線に乗り合わせた陸軍中佐の態度を、スパイでも探っているのではないかと気にかける描写があり、途中停車した駅の車窓から見かけた出征軍人を見送る妻や、その妻に対する須田の感懐が記されていたりする。
 話の終わりのほうでも、上海爆撃で亡くなったライシャワアさんの慰霊祭が36か国の参列のもとに開かれ、軽井沢滞在を切り上げる直前の須田もそこに出席する場面が出てくる。

 軽井沢の道端にまで上海での戦況を知らせるニュースが貼り出され、本通り(旧道)に千人針の娘たちが立つ姿が描かれる。中国人が軽井沢を訪れることを禁止したり、中国人の洋裁屋が鋏を使うことを禁止する(その一方で中国人コックが包丁を使うのは自由だという)珍妙な布告と、主人公らがそれを揶揄する場面などもある(61頁)。
 貸馬屋の馬まで徴発されて、駄馬しか残っていないなどといった会話も出てくる。
 
 しかしこの小説のメインテーマは、軽井沢という外国人と日本人が混住する特殊な地域における外国人と日本人、外国文化と日本文化の接触と、それに対する須田(川端自身)の見方であろう。
 当時の軽井沢は、宣教師ら外国人によって厳しく風紀が守られていた。娯楽施設やバーなどは一切禁止されていただけでなく、当初は日曜日には店が閉められ、飲食店では15歳から35歳までの女性の就業が禁止されていたという。
 
          
 ※ 上の写真は、旧軽井沢の観光会館前の旧道(長野県道路管理事務所のHPから)。観光会館はかつては郵便局だった。

 旧道の郵便局前の路上で、外国人の飼い犬が車に轢かれると、たちまち警官がやって来て検分が始まり、犬は獣医のもとに運ばれる。当時の軽井沢には獣医が3軒も出張していたという。
 面白いのは、犬の話から、川端が日本の雑種文化論を展開していることである。
 須田は、日本の犬のほとんどが雑種であることから話をはじめて、日本の文化も中国、朝鮮、西洋文化を摂取した雑種文化であると断ずる(120~1頁)。 

 当時の軽井沢には外国人が2、3千人、日本人が1万人滞在していたらしい。
 外国人が山小屋を建てて滞在していた軽井沢に、日本人がわんさと押し寄せて来たために外国人が野尻湖に避難するという状況は、外国人から見れば「うるさい蠅の繁殖力を見るようかもしれない」とも書いている(78~9頁)。
 軽井沢に実現しているような諸国民の雑居が国際的に広がれば、世界も平和になるのではないかといった川端の希望も語られている(79頁)。
 外国人が集まる教会で腋臭の匂いを感じたり、まじかに見た外国人の美少女の肌のそばかすに幻滅したり、川端らしい観察もある。美しいフランス人の少女を見たとたんに、それまで結婚を考えながら軽井沢でデートを重ねてきた日本人の「令嬢」が「急にみすぼらしく見えた」というのも正直な感想である(130頁)。 

 ほとんどの別荘が引きあげてしまい人気がなくなった初秋の寂しい別荘地で、ひとりで平然と遊ぶ外国人の子どもを見て、「初秋など白人種の身にはしみぬらしかった」(104頁)という述懐は川端自身の思いだろう。 
 川端康成という作家はあまり得意な作家ではなかったのだが、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」という32歳の川端には共感を覚えた(80頁)。
 「高原」は、戦前の昭和の軽井沢を描いた風俗小説として面白く読んだ。

 2021年10月16日 記


堀辰雄『風立ちぬ』

2021年10月11日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 堀辰雄『風立ちぬ』(新潮文庫、1964年。講談社文芸文庫、2011年。小学館文庫、2013年)を読んだ。

 最初は、家にあった新潮文庫で読み始めた。手元にある新潮文庫は、丸岡明の解説が付いた昭和26年初版のもので、原文に最も忠実なのはこの新潮文庫版だが、その後改版されたらしい。
 この新潮文庫の旧版は、旧字体、旧かな遣いはまだ良いとして、活字が小さいため老眼には厳しいうえに、時おりぼくには読めない漢字が出てくる。最近では「漢和辞典」も使いこなせなくなったので、ワード文書にIMEパッドで手書き入力して読み方を調べながら読み進めることになる。

 新潮文庫旧版の『風立ちぬ』で、ぼくが調べなければならなかった漢字は以下のようなものである(もう少しあったかもしれない)。
 莟(つぼみ)、生墻(いけがき)、顫え(ふるえ)、徐かに(しずかに)、竝み立つ(なみたつ)など。
 前後の文脈や送り仮名から意味や読み方が推測できるので読み飛ばしてもよかったものもあったけれど、ボケ防止、脳活?のために逐一調べながら読んだ。
 しかし主人公である「私」の婚約者が、八ヶ岳高原にあるサナトリウムに入ったところで出てきた「病竈」(「びょうそう」と読むらしいが、病巣ではいけないのか)で、このまま新潮文庫で読んでいて大丈夫か、心配になった。
 読めない漢字に出会うたびに調べる煩わしさと、活字の小ささ(古い本なので印刷も薄くなっている)に耐えながら読むのも限界に近づいた。最近のルビの多い文庫本に悪態をついた手前、ルビ付き文庫本の軍門に下るのは男が?廃るーーというやせ我慢にも限界が来た。※

 そこで、図書館から借りてきた『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』(講談社文芸文庫、2011年)と『風立ちぬ/菜穂子』(小学館文庫、2013年)を見比べてみた。
 両方とも、新字体(新漢字)、新かな遣いに改められており、手持ちの新潮文庫に比べてかなり読みやすそうである。
 誌面(字づら)が一番すっきりしていたのは、講談社文芸文庫だったが、ルビは少ない。それでいて、「睡眠剤」にわざわざ「くすり」などと振ってあったりもする(190頁)。「すいみんざい」では不可なのか、原文で堀自身がそう振り仮名を振ったのだろうか。「作用」に「はたらき」、「禍害」に「わざはひ」と振ってあるのもあった。
 小学館文庫は、新字体で新仮名遣い、活字も大きく、ルビもたくさん振ってあるが、のど一杯にまで印刷があって誌面が立て込んだ感じがする。

 「序曲」「春」「風立ちぬ」までは新潮文庫で読んできたが、残りの「冬」と「死のかげの谷」は、小学館文庫で読むことにした。
 読みやすいし、読めない漢字を調べる手間は省けるが、何故か、あまり堀辰雄を読んでいるという感じはしなくなってしまった。そもそもこの文庫が、宮崎アニメの「風立ちぬ」に便乗した出版だったらしく、表紙の挿絵も堀の世界ではない。
 しかし、ぼくの国語力では読めなかった次のような漢字にルビがふってある便利さにはかなわない。

 IMEパッドのお世話にならずにすんだ漢字は以下のごとし(ただし、マウスでなぞる手間を除けば、IMEパッドはきわめて有能である。IMEで分からない漢字、読み方は今のところ皆無である)。
 微睡んで(まどろんで。当て字か? 小学館文庫版、以下同じ)55頁、橅(ぶな)61頁、言い畢える(いいおえる)64頁ほか、歇んだ(やんだ)90頁ほか、「瞠り」(みはり)95頁、隙々(すきすき)93頁、屡々(しばしば)106頁などなど。
 「歇んだ」の「歇」は、間歇泉の「歇」だから、断続的に降ったりやんだりする雪がやんだ時を表現するにはふさわしい。「止んだ」では永久に雪がやんだようにも思えてしまう。
 「橅」などは、木であれば名まえなど読めなくてもぼくはかまわない。「瞠り」や「屡々」などは、文脈や送り仮名から読み方も意味も想像できるが、ルビがあればなおよい。堀は「屡々」と書いているが、広辞苑では「屡」一文字で「しばしば」となっていた。

 足袋跣し(たびはだし)92頁には、ルビは振ってあるが意味は分からない。広辞苑で引いてみると、「(足袋跣足) 足袋をはいたままで、下駄や草履をはかずに地面を歩くこと」とある。
 12月の軽井沢で、山の中腹に小屋を借りて一人で生活することになった主人公の「私」を、ふもとの町から雪のなかを道案内し、毎日夕刻になると彼のために夕食の支度をしにやって来る地元の娘の足元が「足袋跣し」なのである。
 当然草履くらいは履いているものと勝手に思い込んでいただけに、草履もはかずに足袋だけで雪道を歩いて通ってきたとなると、この無口な村の娘がいっそういじらしく思えてくる。そしてその娘に対する主人公「私」のぞんざいな人あしらいに腹立たしさすら覚えた。少しくらい津村信夫を見ならえ!
 ※ 下の写真は冬の旧軽井沢の古い別荘(旧菊池山荘という表札が立っていた)。
       

 1934年の夏、主人公の「私」とヒロイン節子は追分で出会う。草むらに画架を立てて絵を描く節子を、私は白樺の木陰に身を横たえて眺めている。
 肺結核の病状が悪化した節子のサナトリウムでの療養生活は、「私」の1935年10月20日からの日記の形式で綴られる。日記は11月28日で終わっているが、堀の年譜(講談社文芸文庫所収、大橋千明作成)を見ると、節子のモデルとなった矢野綾子はその年の12月6日に亡くなっている。
 つづく「死のかげの谷」の章は、翌「1936年12月1日 K・・村にて」で始まる。年譜では、堀はこの年の冬は軽井沢に滞在していないが、1937年はほぼ1年間を追分で過ごしたと年譜にある。『風立ちぬ』の発表は1938年だから、1937年に経験した軽井沢の冬景色を1936年の日記として描いたのだろう。
 「死のかげの谷」は、節子の死から1年以上にわたって書き継いできたものだった。

 堀辰雄『風立ちぬ』の感想文としては、あまりに散文的なものになってしまった。

 罪滅ぼしに、2、3年前の初秋に碓氷峠の見晴台で撮った写真を。
     
 
 散文ついでに、ぼくの結核物語を。
 1968年の冬、大学受験のための健康診断のX線検査で引っかかり、「要精密検査」となってしまった。水道橋にあった結核予防会付属の診療所で再検査を受けたところ、現在は治癒しているが、左鎖骨のあたりにかつて肺結核に罹った痕跡があると言われた。診断書には「左鎖骨下陳旧性肺結核痕」とか書いてあった。
 昭和31年、ぼくが小学1年生の時に母親の肺結核がわかった。閉鎖性だったので、自宅の一室にベッドを入れてそこで療養生活を送っていた。感染しないはずの閉鎖性だったが、安静のため外を出歩くことはできず、子どもとの接触も制限されていたので、PTAなどは叔母が代わりに来てくれた。母が専用で使った部屋の本箱には壷井栄の小説などと並んで、松田道雄の『療養の設計』(岩波新書)が置いてあった。
 おそらくその頃に、ぼくも母親からか、母に感染させた誰かから感染したのだろう。
 それから10年以上たって、高校生も終わろうというときになって要精密検査を言い渡されたぼくは、「もし結核だったら、作家にでもなるしかない」と思った。堀辰雄の小説の影響だったのではないか。結局ぼくは結核にもならなかったかわりに、作家にもなれなかった。
 その時の医師からは「毎年検査のたびに引っかかりますよ」と宣告されたが、その後50年の間、レントゲン検査で結核痕の所見を指摘されたのは、せいぜい5~6年に1回程度である。一昨年の検査でも指摘されたから、痕跡が消えたわけではない。わが国の健康診断、読影の精度はその程度のものである。

 2021年10月11日 記  
 --2021年10月11日の東京は『風立ちぬ』を読むにはいささか暑すぎた。風は多少あったけれど、風立ちぬという感じではなかった。

 ※ 何年か前に、モームの『英国秘密諜報員 アシェンデン』(新潮文庫)の新版を見て、誌面がスカスカ(隙々?)で、ルビの多いことに唖然としたと書きこんだが、悲しいことに、数年を経ずしてぼく自身が大きな活字とルビのご厄介にならなければならない状態に陥ってしまった。
 

堀辰雄『大和路・信濃路』

2021年10月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月以来、ホッブズの翻訳書を難渋しながら読んできたが、先月の『リヴァイアサン』第3部、第4部でいちおう主要な著作を読み終えた。さすがに疲れ気味なので、ここ数日は軽い “軽井沢もの” を読んでいる。
 軽井沢町編『軽井沢文学散歩』、小川和佑『“美しい村” を求めて』を読んでいるうちに、その中に登場する作家たちの小説かエッセイを読んでみたくなった。

 堀辰雄は何冊か家にあるはずだが、物置を探すのは暑いし億劫である。そこで書店に行って探したが、なんと堀の作品は1冊もなかった。つづいて古書店に行ってみたが、ここにもない。文庫本の棚の著者名<ほ>を探すと、ぼくの知らない「ほ」で始まる作家(?)の次は「堀江貴文」の刑務所体験ものだった!
 何という時代になったのか。

 仕方なく家に戻って、物置をあさって『大和路・信濃路』(新潮文庫、昭和52年10月33刷、160円)と『風立ちぬ・美しい村』(新潮文庫、昭和39年11月40刷、90円)の2冊を探し出した。
 堀はもう少し読んだ記憶があるが、どうやら軽井沢においてある「少年少女現代日本文学全集」(偕成社)の「堀辰雄名作集」で読んだようだ。ぼくは中学生時代まで、この「少年少女全集」のお世話になっていた。
 印刷年月からみて、『風立ちぬ』は中学3年の頃、『信濃路』は20歳代後半のサラリーマン時代に読んだようだ。

 きょうは『信濃路』から、「雪の上の足跡」「雉子日記」「信濃路」「木の十字架」を読んだ。
 この本の最終ページには、青インクの万年筆で「1978.8.2.(水)am 3:05 FM 東京/法セミ8月号の出張校正から帰宅/2階の座敷、クーラアで涼しい。“雑記帳の表紙の絵” はいい!」と書き込みがしてあった。
 “雑記帳の表紙の絵” は、「雪の上の足跡」の最後の方に出てくる。
 村(追分)の雑貨屋で10銭くらいで買ってきた雑記帳の表紙の絵のことである。雪の中に半ば埋もれている1軒の山小屋と、向うの夕焼けした森と、家路につく主人と犬という絵はがきのような紋切り型の絵を、堀は「スウィスあたりの冬景色」だと思っていたが、のぞき込んだ宿の主人が「それは軽井沢の絵ですね」と言う。
 そう言われると、堀も、冬になって雪に埋もれると、軽井沢にもこんな風景ができるのかもしれない、そして「絵はがきのような山小屋で、一冬、犬でも飼って、暮らしたくなった」というのである。
 水道管も凍る冬の軽井沢での越冬など、今では真っ平だが、20歳代の頃のぼくは、こんな軽井沢での冬の生活に憧れていたのだろうか。そんな状況になれば、苦手な犬でも好きになれるかもしれない。

 当時のぼくは、今よりはるかに<赤ままの花を歌うな>派だったようで、「木の十字架」のなかで「その夏(1939年と朱で書きこんである)、軽井沢では、急に切迫しだしたように見える欧羅巴の危機のために、こんな山中に避暑に来ている外人たちの上にも何かただならぬ気配が感ぜられ出していた」、津村信夫に誘われて、旧軽井沢の聖パウロ教会のミサに出かけた折も、「その(教会の)柵のそとには伊太利大使館や、諾威(ノルウェイ)公使館の立派な自動車などが横づけになり」、その日は丁度「ドイツがポオランドに対して宣戦を布告した、その翌日だった」という個所に朱線が引いてあった。
 ※ 下の写真は、旧軽井沢三笠にある旧スイス公使館の建物。
     

 ぼくは第2次大戦中の軽井沢に興味を持ち続けてきたが、堀が時局についてこのように書いていたことが印象的だったのだろう。ただし堀は教会内で、彼らを追い越して教会に入って行ったポーランド少女の姿を目で探したりもしている。
 最近読んだ「軽井沢文学」ものは、いずれも戦争中の軽井沢文人のことをあまり語っていない。小川の本に、日中戦争に対する川端の傍観者的な発言と、戦時中ナチス礼賛者になった芳賀檀のエピソードが出てきたくらいである(『“美しい村” を求めて』168~170頁)。

 ※ 「木の十字架」のなかの、ぼくが朱線を引いた個所は、戦争中の作品で「戦争」ということばを一言も発しなかった堀の数少ない戦争への言及だったようだ。
 堀をめぐる座談会で、佐多稲子は「戦争が始まった初期の時分に、軽井沢の教会で各国の外国人が集まって、たいへん緊迫した微妙な雰囲気だったということを書いてますでしょう。あのくらいで、あとは書いてないのですよ」と発言している(「昭和の文学 堀辰雄」堀辰雄『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』講談社文芸文庫(2011年)298頁)。
 佐多が言っているのは「木の十字架」のぼくが朱線を引いた個所だろう。佐多は、戦争にふれないことが堀さんの強いところだと言うが、そうだとしたら、「木の十字架」のあの部分はなんだったのだろう。いずれにせよ、1978年、28歳だったぼくはそこに朱線を引いた。

   *     *     *

       
  
 そういえば、数日前に、安西二郎『軽井沢心理学散歩ーー別荘族からアンノン族までーーこの不思議な町を知的に解読する』(PHP研究所、1985年)という本も読んだのだった。
 ぼくには苦手な “軽井沢もの” だった。
 あえて収穫といえば、あの懐かしい「ペールグリーンの屋根の」<グリーン・ホテル>が、堀の「ルウベンスの偽画」に出てくること、本書が出た1985年当時はまだこのホテルが現存していたこと(194頁)、千ヶ滝には戦前には音楽堂があり、それが1985年当時は<西武ショッピング・センター>になっていたらしいこと(234頁。千ヶ滝にある<西武ショッピング・センター>はおそらく西武百貨店軽井沢店>のことだろう)、ぼくが中学生だった頃に、祖父と一緒に買い物に出かけた旧軽通りの、看板の店名がドイツ語で書いてあったドイツ食材屋<デリカテッセン>が、茜屋珈琲店の隣りにあったことを確認できたこと(77頁)くらいか。
 
 2021年10月5日 記 (2021年10月10日 ※部分を追記)


『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』

2021年10月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 小川和佑『美しい村を求めてーー新・軽井沢文学散歩』(読売新聞社、1978年)を読んだ。

 著者の「あとがき」によれば、「軽井沢という特異な風土を枠組みに、その(軽井沢の?)文学と文人を書こうとした」のであって、「文学散歩」と副題がついているが、「文学散歩・・・といった案内書としては書こうと思わなかった」という。
 ぼくにとっては「失われた時を求める」nostalgic journey の良い道案内になった。
 著者は「軽井沢にまだ昔日の自然とそこに生きた文人たちの面影の残っているうちにこれを書いておきたかった」と書いているが、この本が書かれた1978年(昭和53年)の夏はぎりぎりのところだったかも知れない。

 著者は、主軸を置いたのは、有島武郎、芥川龍之介、室生犀星、川端康成、堀辰雄、中村真一郎だというが、ぼくには、有島の心中(大正12年)を起点にして、犀星の周辺に集った芥川、堀、立原道造、津村信夫、川端らの軽井沢における女性との出会い、恋と別れの物語として読めた。犀星だけは、娘朝子がテニスをすることを不愉快に思うなど、妙に家庭的でわきまえた「お父さん」だったが。
 東京下町育ちの芥川、堀は、「万平ホテルに集約される軽井沢を克服して、同化することで、この特異な風土を文学化したが」、犀星は軽井沢を愛しながらも強烈に自己を持続させたと著者は書いている(96頁)。

 有島が軽井沢の別荘で情死した大正12年の事件が、世間の人たちが軽井沢と文士を結びつける端緒となったが、有島が情死したのは資産家だった父親が所有する別荘であり、文士と軽井沢の結びつきとしては例外的だった。
 著者は、大正10年頃から避暑のために軽井沢に滞在するようになった犀星から、軽井沢と文士の結びつきが始まったとみている。犀星は当初はつるや旅館に滞在し、その後は別荘を何度か移転しているが、細部は忘れてしまった。 
 その犀星のもとを学生だった堀が訪ね、犀星を介して堀と芥川の交流が始まる。

 芥川は、大正13年7月に軽井沢を訪れた。
 「古い宿場の風趣にいきなり西洋を継木したこの軽井沢の風景」に、芥川は日本文明そのものの姿を暗示しているように思ったという(47頁)。
 この地で芥川は、資産家の未亡人だった片山広子と出会い、彼女に恋をする(51頁)。この年、芥川は「美しい村」の未定稿を書いており、芥川の死後に、堀は師の作品名を冠した小説を書いている。
 当時の万平ホテルは室料だけで1日12円だったので文士には手が届かず、彼らは2食ついて1日7円だったつるや旅館に滞在し、万平ホテルには散歩で立ち寄ってお茶だけを飲んだという。犬嫌いだった芥川は(!)、西洋人が連れ歩く犬が多いことに辟易したという(48頁)。
 芥川は、大正14年には軽井沢ホテルに滞在した。
 軽井沢ホテルは西洋式ホテルとしては安価なホテルだった。本通り(旧軽銀座)から水車の道(北裏通り)まで敷地があったようだが、昭和19年に取り壊されてしまい、その跡地には小松ストアが建っているとある。本書が出版された1978年には、まだ小松ストアが残っていたのだ(62~3頁)。
 
 同じ夏、萩原朔太郎が美人の妹幸子(既婚である)を伴って軽井沢の犀星を訪れた。彼女を気に入った芥川は、堀を伴って幸子とドライブに出かけたりする。初対面の芥川が幸子と親しげに交際することに犀星は嫉妬した(66頁)。
 同じ夏、芥川は片山広子とも追分にドライブに出かける。この時も堀が同乗している。雨上がりの追分に虹が出たが、虹は西洋では不吉の前兆だという。芥川は昭和2年に自殺する。
 芥川の死から15年後に書かれた、堀の「菜穂子」はこの時の芥川と広子がモデルだという(74頁)。
      
 ※ 上の写真は、本書『美しい村を求めて』にかかっていたブック・カバー。旧道の軽井沢物産館で買ったものだと思う。白樺も最近はあまり見かけなくなってしまった。

 犀星の「信濃」という作品には、立原道造、堀、津村信夫たちが登場する(書かれたのは、立原が夭折した翌年の昭和15年である)。
 堀は、万平ホテルのテラスで犀星にお時宜をして通り過ぎる少女たちを見て、自分もそのような少女を恋人にするという「夢を実現させるためには、私も早く有名な詩人になるより他はない」と思ったりする(86頁)。堀は、片山広子の娘総子に恋をし、その思いを「聖家族」に描くが、母広子は、堀を娘の結婚相手(候補)とは見ていなかった(90頁)。
 昭和8年、「美しい村」を執筆した堀は、追分油屋に滞在していたが、療養に来た矢野綾子と出会い、翌年に婚約する。しかし、綾子は翌10年に亡くなってしまう。「風立ちぬ」はその翌年に発表されている(99頁、111頁)。

 立原は昭和9年に、追分で、本陣永楽屋の孫娘、関鮎子と出会い、最初の14行詩に彼女への思いをうたう(102頁、144頁)。松竹歌劇団の北麗子との出会いと別れもあった(~148頁)。
 恋多き人たちである。
 立原の散歩道は、追分油屋から1000メートル林道を歩き、泉洞寺の墓地裏に至る落葉松の林の中のコースだったという(149頁~)。
 昭和12年に油屋は火災によって焼失してしまうが、この時、立原は同旅館に滞在中で、地元の消防団員に辛うじて救出された。堀は原稿を送るために軽井沢郵便局に出かけていて難を免れた(173頁)。

 東京の中産階級ないし上流階級の出である丸岡明、津村信夫の軽井沢体験は、堀らとは違っていた。親が別荘を持っていたり、家族で万平ホテルに滞在したのが最初の軽井沢だった(114頁~)。堀や川端らと交流のあった中里恒子もこの階級に属する一人で、昭和13年に芥川賞を受賞した彼女の初期の作品の舞台も軽井沢らしい(162頁)。
 彼らのなかでぼくの心に残ったのは、津村の結婚である。
 昭和10年、津村は、千ヶ滝の観翠楼で卒業論文を執筆中に、同旅館のお手伝いだった小山昌子に魅かれる。家柄の違いを慮った恩師は、ひとまず昌子を自分の養女としたうえで、翌年、犀星夫妻の媒酌で東京会館で結婚式を挙げた(157頁)。しかし昭和19年に津村は難病のため亡くなってしまう。
 ぼくは、小津の「父ありき」に出てくる女中役の文谷千代子のような女性を想像した。結婚に際して家格をそろえるための仮親養子という慣行があったことは家族法で学んだが、その一事例を見い出した。

 川端康成も軽井沢文人の1人だったと知って意外の感を受けた。幾夏かを過ごした軽井沢での(西洋)体験が彼の後半期の伝統との関わり合いをいっそう強めることなったと著者はいう(166頁)。
 昭和11年に旅行の途中で軽井沢を訪れた川端は、つるや旅館に宿を求めたが、その風体から番頭が断ってしまう。藤屋では彼を知っていた主人から手厚い接待を受けたため、後に桜沢に別荘を構えるまで、彼は藤屋に好意を寄せ続けたという(165頁)。
 川端には、軽井沢体験を活写した「高原」という短編集があるという。川端は、その主人公に、「軽井沢へ来て不意に強く自分の青春を感じた」と語らせている。ショート・パンツに白いソックスを素足に履いて自転車に乗る女性やフランス人の少女も登場する(167~8頁)。川端らしい。
 中年の男が軽井沢で「青春」を感じたという「感じ」は、ぼくにも分かる気がした。
 ちなみに、この本には少女の肢体やショートパンツへの言及が何か所か見られる(123、145頁、そして167頁)。
        
 ※ 上の写真には旧軽通りを闊歩するショート・パンツ姿の若い女性の後ろ姿が映っている。左側の写真には軽井沢ホテル跡地に建ったという小松ストアの看板が映っている(『軽井沢 その周辺 1964年版』三笠書房より)。
 
 中村真一郎は著者の(明治大学の)恩師らしい。
 中村の軽井沢でのエピソードは、旧軽銀座の<カフェ水野>のオープン・テラスに座る彼から始まる。その昔、ぼくも<水野>に所在なさ気に座る中村を見かけたことがあった。
 彼は、ぼくが生まれた豪徳寺に住んでいたことがあったらしい(184頁。「渋谷の」豪徳寺とあるが世田谷だろう)。戦時中は岩村田に疎開していたというが、ぼくは高校時代の夏休みに岩村田の学生村で過ごしたことがある。わずかな接点(?)である。

 本書を読むことで、ありし日の軽井沢をタイムマシンで旅行することができた。著者が嫌った「文学散歩」以上の旅だった。
 この本で紹介された堀、川端、中里らの本も読んでみたくなった。
 つぎに軽井沢を散歩するときは、彼らの恋と別れの遺跡を感じながら歩いてみよう。

 2021年10月4日 記


『軽井沢文学散歩』

2021年10月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢町編『軽井沢文学散歩』(軽井沢町、改訂新版(第6版)、1975年)を読んだ。

 軽井沢を旧軽井沢方面、中軽井沢方面、追分方面、南軽井沢方面に分けて、各地域の地理、歴史を概観した後に、その地にゆかりの文学者や、その地域を描いた小説や短歌、その地域に存在する文学碑や由来を紹介する。巻末に「軽井沢のあゆみ」という略史が付録についている。
 1953年(昭和28年)の項には、ちゃんと「浅間山、軽井沢周辺米軍演習地設置の勧告に対して反対運動を起してその貫徹をみる」と記載されている。エピソード的に挿入された軽井沢の歴史も役に立つ。

 「旧軽井沢方面」は、正岡子規が、明治20年に鉄道馬車で碓氷嶺を越えて軽井沢にやってきたことから始まる(「かけはしの記」)。次は菊池寛が大正13年に発表した小説のなかの軽井沢駅近辺の描写に移る。当時は、確かに離れ山のふもとの大隈重信の別荘が見えたようだ。
 さらに、大正時代の芥川龍之介、萩原朔太郎、有島武郎、昭和に入ってからの堀辰雄、川端康成らの小説や随筆に現われた旧軽井沢の紹介がつづく。
 しかし、碓氷峠が日本の文学に最初に登場したのは、実は日本書紀のほうがはるかに早かった。大和武尊が碓日坂(碓氷峠)に至って弟橘姫を懐かしんで詠んだ「吾嬬はや・・・」という句に因んで、「東国」を「あずま」と呼ぶようになったという。
 万葉集にも碓氷峠(万葉集では「宇須比」と表記)を詠んだ防人の句が2首ある。下野から筑紫にむかう防人が妻への思いを詠んだ歌である。当時の防人は碓氷峠を経由して筑紫に向かっていたことに驚く。
 松尾芭蕉の句碑と室生犀星の句碑が旧軽井沢の旧道(旧中山道)沿いにあることは見て知っていた。

 「中軽井沢方面」は長倉の歴史から始まる。長倉は、延喜時代(いつ頃?)には、東端は湯川、西端は古宿、南端は馬越という広大な官牧地(「長倉の牧」)だった。そのためこの辺には「馬」のついた地名が多いらしい。富が丘から古宿にむかっては当時の土堤跡が残っていると書いてあるが、1975年に出版された本の記述なので、2021年の現在でも残っているかどうかは分からない。
 湯川沿いの長倉神社の境内には、わが長谷川伸(といってもぼくが読んだのは『印度洋の常陸丸』と『日本俘虜誌』(ともに中公文庫)だけだが)の「沓掛時次郎」碑があるそうだ。沓掛駅前は昭和26年に大火があり、宿場町の面影はその時に消滅してしまったという。
 「野鳥の森」は星野温泉の所有地だとばかり思っていたが、実際は国有林で、昭和47年に環境庁と林野庁が開設した国営のものだと知った。遠慮がちに歩いて損をした。
 星野の別荘地の一角(塩壺温泉に近かったように記憶するが)に弘田龍太郎の歌碑がある。その近くに「受験観音」だったか「合格地蔵」だったかが建っていて、叔父に連れて行ってもらったことがあった。ぼくに関しては、ご利益はなかった。

 北原白秋の「落葉松」(からまつ)と若山牧水も中軽井沢(千ヶ滝)で紹介されている。牧水は中学の国語教科書に載っていた「信濃路はいつ春にならむ・・・」、「湖の氷はとけてなお寒し・・・」という歌以来好きな歌人だが、「秋晴れのふもとをしろき雲ゆけり 風の浅間の寂しくあるかな」など浅間山を詠んだ歌が5首載っている。軽井沢で読んだのかどうかは分からない。
 上皇ご夫妻が軽井沢で出会ったことは有名だが、上皇(当時は皇太子)は昭和28年にエリザベス女王の戴冠式から帰国後に軽井沢で静養され、翌年の歌会始で「旅路より帰りて宿る軽井沢 色づく林は母国の香にみつ」という歌を詠まれたという。当時は千ヶ滝にあったプリンス・ホテルで毎夏を過ごされた。
 
 大日向村の開拓の歴史も語られている。かれらは南佐久郡大日向村から満州にわたり、敗戦後の昭和20年に帰国、翌年からこの地(北佐久郡!)に移住して開墾を開始した。昭和22年に昭和天皇が巡幸した折の記念碑には散歩で訪れたことがある。
 「追分方面」は、堀辰雄と立原道造、それに芭蕉が中心(というより、ほとんど)。「ふきとばす 石も浅間の 野分かな」という芭蕉の句が刻まれた句碑があるそうだ。
 その他、中村真一郎、福永武彦、加藤周一ら追分ゆかりの文人は『軽井沢を青年が守った』の方が詳しい。彼らは1975年頃はまだ現役だった。
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」の中村草田男さんも、千ヶ滝中区の叔父の家のご近所さんだったが、登場しないのは同じ理由からだろう。

 「南軽井沢」には、文学散歩としてはあまり見るべきものはない。
 茂沢遺跡にのこる環状墓地群(ストーンサークル)はシベリアに由来する遺跡の最南端と誇っているが、野尻湖のナウマン象に比べると弱いし、そもそも茂沢は「南軽井沢」だろうか。
 軽井沢はイタリア、スイスの観光地より「田舎くさいが、樹木が茂り、土を踏む散歩道も多く・・・」有難いという石坂洋次郎の文章が引用されているが(41頁)、最近では土の散歩道はどんどん舗装されてしまった。

 2021年10月2日 記


『軽井沢を青年が守った』

2021年09月30日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 荒井輝允『軽井沢を青年が守ったーー浅間山米軍演習地反対闘争1953』(ウインかもがわ、2014年)を読んだ。
 買った店は、国道18号沿い、マツヤの隣りにあった平安堂軽井沢店で、2014年8月19日11時09分のレシートが挟んであった。
 出版された直後に購入したようだが、パラパラ眺めただけでちゃんと読んでなかった。昨日、眼科の定期検査があり、何か待合室で読む本を持って行こうと思い、カバーのかかったままの本を何だろうと思って本棚から取り出したところ、この本だった(下の写真は平安堂のブックカバー)。
 分量、文字の大きさ共に待ち時間に読むのに程よく、知っている人や場所(追分公民館、西部小学校、軽井沢中学校など)も登場する面白い本だった。  

 敗戦後の1953年に、軽井沢にアメリカ占領軍が演習場を作ろうとしたこと、それに対して、地元の大日向、三石(ともに満蒙開拓団の帰村者が開拓した地域である)や、追分、借宿の青年団が中心になって、さらに千ヶ滝西区!、中軽井沢、発地などの青年らも参加して反対運動が起こったことは、今となっては軽井沢が好きな人の中でも知らない人の方が多いのではないだろうか。
 最終的には軽井沢町、長野県全県をあげての反対運動によって、計画発表から3か月後に米軍およおび外務省が設置を断念したという事件である。
 著者は、追分で農業を営んでいた青年団員で、この反対運動の中心メンバーの一人だった。

     

 米軍の計画は、実は軽井沢町長らが、町議会や町民に秘密のまま、独断で外務省に誘致を申し入れたのが契機だった。
 1953年4月2日に、突如、占領軍と外務省の担当者が軽井沢町にやって来て、計画を発表した。その夜にはグリーン・ホテルで(!)歓迎パーティーまで催されている。
 翌日このことが信濃毎日新聞で報じられると、翌4月4日には三石、追分、大日向、借宿の4集落が反対を決議し、またたく間に反対の動きは(軽井沢町)西部区長会、軽井沢町全域、さらに長野県全県、国会への陳情へと拡大して行く。
 満蒙開拓で辛酸をなめさせられ、敗戦後に引き揚げてきて帰住した浅間山麓でようやく開墾が軌道に乗ったところで、演習地のためにその土地を接収され三たび離村を強いられることは到底認められないという青年たちの強い思いが出発点にあった。
 町の調査団による富士山ろくの米軍演習場の調査(調査委員に星野嘉助の名前もある)により、周辺の環境破壊や、いわゆる“パンパン”が町中を歩きまわる姿などの映像が紹介されると、反対運動は勢いを強めた。

 追分という土地柄もあって、文化人の支援の輪も広がった。
 たまたま堀辰雄の葬儀に参列した橋本福夫が支援に加わった。橋本は戦後数年間追分に移住して翻訳の傍ら農業を営み、追分の区長を務めたこともあった。橋本は戦前から島崎藤村の小諸学舎に参加しており、その閉鎖後は、教え子である油屋主人(の息子)小川貢に請われ、追分に開講された「高原学舎」で無償で講義を行なうなど、著者も含めた地元の青年たちと交流があった。
 橋本は、後に青山学院の英文科の教授になった英文学者で、翻訳家でもあったが、ぼくは、その名前をサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を日本で最初に翻訳した人として知った(彼は「危険な年齢」という邦題で出版した)。橋本は、後に堀辰雄宅の敷地の一角を譲受けて追分に永住し、没後はご夫妻とも追分泉洞寺の墓所に眠っているという。

 この反対運動は、当初から東大地震研究所の反対が援軍になっていた。地震研の観測所が浅間山麓、峰の茶屋にあった。それもあってか、反対運動の支持者の中には、当時東大総長だった矢内原忠雄や息子の矢内原伊作の名前も登場する。ぼくは何かの記事で、矢内原らの文化人が主導した基地反対運動のように思っていたが、これは誤解だった。
 著者らは、橋本の助言もあって、むしろ文化人の間の意見の対立に巻きこまれないように注意していた様子がうかがえる。著名な追分、軽井沢文化人でこの運動にかかわらなかった人もいるが、著者らは、青年団や婦人会、在住の文化人、労働組合、教員組合だけでなく、当初は誘致推進派だった町長らをも反対運動に寝返らせ、町内に広い人脈をもつ中軽井沢地区のボス的人物をも反対派に巻き込むなど、人間関係を軸にして幅広い反対運動を繰り広げている。
 反対派の事務局は、何と町役場の中に設けられたという!
 
 演習地反対全町協議会の委員長になったのは田部井健次だった。
 彼は戦前に、大山郁夫の日本労農党の書記長や総評書記長などを務めた人物で、治安維持法による弾圧も受けたが、戦後は画家として千ヶ滝西区(!)に住み、西区長を務めていた。演説や交渉はお手の物だったようで、アメリカ軍との交渉での発言はなかなかのものである。
 「日本はアメリカ軍のおかげで民主主義の国になった、民主主義のアメリカが日本の民衆の意思を無視して演習場を設けるようなことはしないことを確認せよ」、「軽井沢は国立公園の中にある、アメリカ本国で国立公園の中に軍の演習場は1か所でもあるか」、「地震研究所の観測に影響することが明らかになったら演習地計画を撤回せよ」といった趣旨を穏やな口調で発言し、アメリカ側から言質を取ったという。
 ※ 田部井には『軽井沢を守った人々』という著書があるが、残念ながらぼくは持っていない。その本の紹介が朝日新聞1987年4月10日付に載っている(下の写真)。版元の「三芳屋」は、あの中軽井沢駅北口や旧軽井沢テニスコート通りにあった書店だろう。確か、信濃ものの本の出版も手掛けていた。

     

 それに引きかえ、日本政府側の岡崎外務大臣や井関アジア局長は、「日本はアメリカに守ってもらっている」、だから浅間山麓の演習地化に反対するな、という情けないアメリカ追随に終始した。橋本の手紙には、長野県選出の国会議員が役に立たないことへの不満も書かれている。
 しかし、反対運動から3か月後の7月16日に、その外務省から計画撤回が発表された。もちろん背後にあるアメリカ側の意向だろう。外務省は、表向きは、浅間山にある東大地震研究所の地震観測への影響を中止の理由にあげたが、本書を読めば、演習地建設の中止が反対運動の成果であることは明らかである。
 当時の衆議院議長が千ヶ滝開発に利害関係のある堤康次郎だったことも幸いしたようだ。ーー西武(国土計画)の社史や堤の伝記などにはこの運動に関する記述はあるのだろうか。

    

 江戸時代の軽井沢、沓掛、追分は中山道の宿場町(浅間三宿)として栄えたが、いわゆる「めしもり女」(娼婦。吉原から流れてきた娼婦もいたという)が2~300人もいるような宿場だった(上の写真は明治末期の追分、分去れを撮った写真の絵葉書。今も残る常夜灯が見える)。
 それが、信越線が開業して以来は衰退の一途をたどり、1953年頃になると追分の旅籠も廃墟と化するものが少なくなかった。国際観光都市に指定されていたものの、万平ホテル、三笠ホテルは米軍に接収されており、観光業も振るわなかった。そのため、町の有力者の中には、軽井沢を赤線地帯に指定してもらおうという意見や、米軍演習場を誘致しようという意見が起こったという。
 
 ーー軽井沢が現在も、曲がりなりにも軽井沢らしさを保つことができているのは、偏えに彼らの運動のおかげである。米軍は石尊山で(北朝鮮との山岳戦を想定した)軍事訓練を実施しようとしていたというのだから、もし実現していたら、夏の夕刻の石尊山のすそ野は悲惨な光景になっていただろう。
 近年の商業施設の乱立と別荘地の乱開発は、米軍の演習場建設に劣らぬ惨禍を軽井沢にもたらしているが、もはや反対運動の気運さえ見られない。沖縄でも米軍基地反対の民意を無視した基地建設がすすめられるなど、1953年の軽井沢以上にアメリカへの従属化が進行している。
 浅間山に心があれば、何を思っていることだろう。

 その他、本書で印象に残ったことをいくつか。
 反対運動には、東大をはじめ東京の大学生たちが支援に駆けつけたという。彼らは、ビラ作成、ガリ版印刷、ビラ配りや、人手の足りない農家での援農なども行なった。時には地元の人たちとフォークダンスをすることもあり、異性と手をつなぐという日常ではない機会をあたえられ、連帯感も強まるとともに、恋が芽生えることもあったという。
 --1950年生れのぼくでも、この気持ちは分かる。高校の文化祭の後夜祭のフォークダンス、マイムマイムやオクラホマ・ミキサーなどは、近所の女子高生と手をつなぐ唯一の機会だった。そして1969年の新宿西口広場のべ平連のデモでは、腕を組んだ女子大生との間に連帯感も恋心も芽生えた。

 追分「すみや」は、橋本が推進した消費者組合、生活協同組合運動から生まれたとある。もともと旅籠だった「すみや」の土間を借りて始めた購買所が、後の「スーパーすみや」になったという。ぼくが毎夏の終わりにシャインマスカットなどを買いに行っていた追分の、あの「すみや」だろうか。
 著者の実家は、高等文官試験受験生のための民宿をやっていたという。ぼくの叔父が学生時代に追分学生村に滞在して地元のMさんと知り合ったことが、わが家族と軽井沢との関係の始まりだった。
 発地の青年団との会議の際にはドジョウが跳ねる泥湿地の道路を自転車で行った話、恩賀や妙義での反対運動では計画撤回まで数年を要したこと、米軍基地周辺での売春の実態を暴いた『日本の貞操』の読書会をやったことなどなど。--中学か高校生の頃に、父親の書庫にあったこの本をエロ本かと思って中を見たところ、真面目な告発本で驚いた(がっかりした)思い出がある。

 そして何より、わが千ヶ滝の家を建ててくれた大工さんと思われる方も、反対運動の活動家の1人として登場する(本当はお名前を書きたいのだが、確認できたわけではないし、ご了解も得ていないので書かない)。
 わが家は1968年の建築だから、反対闘争から15年しかたっていなかったのだ。それからすでに50年以上が経過し、わが家もあちこちガタがきているが、基本的なところはいまだしっかりしている。
 この方とはぼくも何度かお会いしたことがあるが、演習場反対運動に加わったことはまったく話題に出なかったと思う。穏やかで大へんに誠実な大工さんだった。こんな経歴のある大工さんに作ってもらった思い出の家となると、表札に彼の名前を刻んでおきたいくらいで、戦後民主主義世代のぼくの目が黒いうちは壊すことはできない。祖父母や両親の思い出もこもっている。雨露をしのげるうちは、修繕でしのいでいこう。

 2021年9月30日 記

 ※ 『橋本福夫著作集Ⅰ』を読んで、橋本氏に関する記述を若干訂正した。2021年11月9日 追記