豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの浅間山(2021年8月27日)

2021年08月29日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月27日(金曜)、この日も好天。
 借宿の交差点から眺めた浅間山がきれいだったので、遠回りをして浅間テラスに向かう。
 ここから眺める浅間山は、ぼくの個人的な<浅間百景>のベスト・ファイブに入る。
 真正面に浅間山、向かって左側に石尊山、右側に小浅間山を眺めることができたのだが、木立が茂ったため残念ながら右側の小浅間山は見えなくなってしまった。左右のすそ野がのびやかに伸びている全景を眺めることができるところがよかったのだが。
 ちなみに<浅間百景>のベストワンは、御代田の旧メルシャン美術館の裏庭から眺めた浅間山である。

       
 
 そして『カルメン、故郷に帰る』(1950年!)のなかで笠智衆が唸った(詩吟を「うなる」のはこの漢字でよいのか?)とおり、「変わらないのは浅間山だけである」ことを今年も確認した。
 ここのレタス畑の永遠なることを願うばかりである。

 2021年8月29日 記

きょうの軽井沢(2021年8月27日)

2021年08月29日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょう(8月27日)、久しぶりに旧軽井沢に出かけた。2年ぶりか3年ぶりのように思う。

 いつものように神宮寺の駐車場にクルマを止めて、旧道(旧軽銀座?)に出る。
 下の写真は、神宮寺入口の石碑(?)。昭和30年代から40年にかけて、毎夏この寺を定宿にしていた友人の美術史家を訪ねる父のお供をして訪れた寺である。

       

 コロナ禍とはいえ、人通りの少ないことに驚かされる。たしかに数十年前も、8月20日の諏訪神社の花火大会が終わると旧軽井沢は急に寂しくなってしまったが、それでも今日のようなことはなかった。
 人通りが少ないだけでなく、閉店してしまった店舗が多いのにも驚かされた。
 路地裏に比較的新しくできたような店だけでなく、表通りに面した店でもシャッターを下ろした店舗が何軒も目についた。
 神宮寺の石碑のとなりにあった三陽商会の店舗も、三笠会館の後に入った喫茶店か何かも撤退してしまったらしく、テナント募集の広告が掲げられていた。

         

 一番驚いたのは、大城レース店が閉店していたことだった。
 もう何年も前に閉店してしまったのか、閉店の貼り紙さえなく、シャッターにも汚れが目立ち始めていた。
 この店は亡くなった母のお気に入りの店で、わが家の枕カバーやレースのカーテンは大体この店のものだった。
 亡くなる何年か前、最後に軽井沢に行った時も、買い物用バギー(?)をひきながら、あの狭い店内を歩きまわっていた。その後、すたこらと道を横切って、向かいの蜂蜜屋の店先に座って蜂蜜ソフトを食べていた。

 表通りを一歩入った路地に面した店舗はさらにひどい状態で、シャッターを閉じた店舗が何軒も並んでいた。テナントビル1棟すべて閉店したところもあった。
 そんな路地に面した万喜で天丼を食べた。
 これまた、亡くなった祖母がごひいきの店だった。97歳で亡くなった祖母は健啖家で、旧軽井沢に来ると、たいていはここで天丼を食べた。

       

 柏倉製菓、鳥勝、藤田肉店、浅野屋そして土屋写真館、軽井沢物産館など、残っている店のほうがわずかになってしまった。この日は通らなかったが、テニスコート通り沿いの中山農園はどうだろうか。
 軽井沢物産館の店頭に<軽井沢遺産>だったかのプレートが飾ってあった。
 1893年建築とある。日清戦争の1年前である。入口の脇に大きな牛のフィギュア(?)が立っていたが、神津牧場のコーヒー牛乳は今もあるのだろうか。
 隣の明治牛乳(販売店)、明治屋、小松ストア、三笠書房、デリカテッセンなどはとうの昔になくなってしまった。
 かつては郵便局だった観光会館、移転した郵便局は健在だったが、以前には局舎の前で売られていた軽井沢ご当地限定の切手や絵葉書はなかった。白樺の幹を薄く輪切りにしたバームクーヘンのような変形はがきなども昔はあったけれど。

       

 最後にもう一度、神宮寺の本堂に参拝して帰宅した。

       

 

 2021年8月29日 記
 

きょうの軽井沢(2021年8月10日ころ)

2021年08月12日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 最近の軽井沢の風景を何点かアップします。
 最初は7月30日の発地市場。

       

 つぎは8月1日の軽井沢駅前。
       

 むかし小林麻美のポスターが交差点に面したショー・ウィンドウに貼ってあった中軽井沢駅前交差点の桐万薬局。
       

 8月4日に、ケーヨー・デイツーの駐車場から、軽井沢消防署ごしに眺めた浅間山。入道雲に隠れていて見えない。
       


 つづいて8月6日の中軽井沢駅、沓掛テラス前、図書館から眺めた浅間山。
       

 冒頭の写真は8月10日の発地市庭から眺めた浅間山。
 この日は浅間山の全景を見ることができた。すそ野、とくに石尊山側の長く伸びたすそ野が好きだ。

 2021年8月12日 記


軽井沢にやって来た(2021年7月28日)

2021年08月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 7月28日。朝10時すぎに出発して、正午すぎに軽井沢に到着。
コロナ自粛の影響か、オリンピック観戦の影響か、関越道、上信道ともにすいていた。

 軽井沢に近づくと、高速沿いの山の木々の明るい緑が青い夏空に映えていた。その夏空には真っ白な入道雲が湧いている。絵に描いたような夏もようである。
 井上陽水「少年時代」を思う。あの歌は夏の終わりを歌っているけれど・・・。

         

「パンデミック下でのオリンピックは、普通は無しである」という専門家の助言を無視してオリンピックが強行開催されている。
 IOC貴族をはじめオリンピック関係者ばかりを特別扱いしておきながら、なんでわれわれが県境を超えての移動を自粛しなければならないのかという怒りを抑えられないのだが、内心どこか後ろめたい気持ちを感じつつのドライブであった。

       

 来てみれば、軽井沢は、例年に比べればやや人出は少ないようだが、ツルヤも、星のやも、峠のそば茶屋も、かぎもとやも盛況であった。プリンス・ショッピング・モールの人出はやや少なかったか。
 ここ軽井沢では、コロナの脅威はあまり感じられない。

2021年8月4日 記

軽井沢に行ってきた(2021年6月2日~5日)

2021年06月11日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月2日から4日間、軽井沢に行ってきた。
 予約してあったトイレのリフォームの日が近づいたため。
 1週間前の話だが、コロナに感染していないことを確認するため、一応1週間様子を見たが大丈夫そうなので今日になって書き込みをしている。

 緊急事態宣言下でもあり、県境を超えた移動は自粛を要請されているのだが、オリンピックは強行実施するらしい(観客も入れるらしい)、選手村は「自宅」とみなせるから選手村での飲酒は自由だという(それなら行きつけの居酒屋だって「自宅」の延長だろう)、各国関係者は1か国40名もやってきて高級ホテルに宿泊し飲食や外出も自由(携帯を置いて出かければよい)、14日間の隔離期間も設けないでその辺の一般ホテルに宿泊する(らしい)、都立大学では学生にはリモート授業で入構を制限しておきながら、パブリックビューイングで外部の人間は学内に集って盛り上がってよい・・・などなど「石流れ、木沈む」報道に毎日接しているうちに、「正直言って」もう自粛などバカらしくなってしまった。
 それでも、万が一、感染でもしてしまったら医療従事者の方々には申し訳ないという思いから、(本当は強制接種には反対なのだが)予防接種も受けたし、なるべく控え目に行動してきた。

 2日は午前9時過ぎに家を出たが、川越で事故があり藤岡まで100分近くかかったため、昼過ぎに到着した。
 天気は良く、窓を開けて空気を入れる。気温は20度と道路表示には出ていたが、風が冷たくて体感温度はもっと低く、ダウンのコートを羽織って過ごす。
 昼食、夕食ともに、持参の食材で家ですませた。

 3日は、「浅間のかおり」という地元農家がやっている売店が、ネット上の口コミの評価が4・3と発地市場より高いので行ってみようと家内がいうので、ナビを頼りに行くことにした。
                
 国道18号を馬瀬口で左折して、長野自動車道の下をくぐったり、小さな川に沿った水田わきの道路を10分ほど行くと看板を見つけた。
 11時ころに到着したせいか、品数も少なく、4・3という評価は「?」だった。ネットの口コミもあてにならない。道すがらの水田と遠くの小山の眺めがよかったのがせめてもの救い。東側に500mくらい?のそこそこの山が1つだけあったのだが、何山だろう。
 ※地図で調べると、平尾富士というらしい。もしそうだとすると、標高1155mという結構な高さの山である。離山か小浅間山くらいにしか見えなかったけど、違う山だろうか。

               
 
 <しまむら>で孫のためにベッドカバーを買い(上の写真はしまむらの駐車場から軽井沢消防署ごしに眺めた浅間山だが、雲に隠れて見えない)、<ケーヨーD2>で高枝切りばさみを買う。ショッピング・モールを眺め、峠のそば茶屋で温かい天ぷらそばを食べる(下の写真)。
               

 ツルヤで買ってきた義姉への贈り物を追分の郵便局からレターパックで送る。宛先は四国だったが翌日には義姉からもう届いたという連絡が入った。日本郵便にしては上出来。コロナで配送品が少なかったり、深夜の国道が混雑していなかったりするのだろうか?

 4日はトイレの工事。あいにく朝から雨が降っていたが、9時から3時間ほどで終了。
 見積もりのための下見なしでの注文だったので若干心配だったが、無事に終わった。従来のトイレの便器や水道管(止水栓)や排水管の位置などの写真と寸法、段差の有無を知らせるだけで、下見が不要というシステムだった。依頼する側も業者も助かる。

 雨なので、終日家で本を読んで過ごす。
 ぼくはホッブズの『哲学者と法学徒との対話ーーイングランドのコモン・ローをめぐる』(岩波文庫)を読んでいる。 

               

 5日はもう帰京する日である。
 朝から晴れていて、帰るのがもったいない。
 発地市場で野菜を買い込んで帰途に(上の写真は発地市場)。ただし前日が雨だったので、野菜はいまいちだった。

 2021年6月11日 記

 ※ 冒頭の写真は、プリンス・ショッピング・モールから眺めた離れ山と、その向こうにわずかに見えている浅間山(石尊山)。


きょうの軽井沢

2021年05月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 緊急事態宣言が出ていたのだが、4月27日から29日まで軽井沢に行ってきた。
 下は、4月27日、上信自動車道の碓氷峠手前(松井田あたりか)の吊り橋。
            

 昨年の終わりにトイレの交換を業者に依頼したところ、水を止めている冬場には工事はできないので来年(2021年)の春になったら改めて注文してほしい、ただし夏前に工事をするためには5月の連休前に正式に注文してほしい、連休が明けてからの発注になると夏休み前までに工事ができないかもしれないと言われていたため、連休前に出かけた。
 と言い訳をしたものの、「不要不急」じゃないかと言われたら、「不要」ではないけど「不急」でないとは言えない。
 到着した4月27日正午すぎの軽井沢の気温は、南軽井沢交差点の道路標示によれば10℃。東京に比べるとかなり肌寒かったので終日ダウンのコートを着て過ごした。
 同日の夜は満月。黄色い月が落葉松の葉を照らしていた。
            

 下は、軽井沢消防署の火の見やぐら越しに眺めた浅間山。
            
 
 次は、プリンス・ショッピング モールから眺めた離山、その背後にわずかに浅間山。手前の池のほとりに枝垂れ桜が咲いている。山桜も各所で咲いていた。
            

 4月28日午後2時過ぎ、昼食時を避けて追分そば茶屋に行った。いつもは午後4時閉店なのだが、コロナのせいか午後2時半で閉店だった。
 危うく閉店前に滑り込めた。先客が2組いたがいずれもほどなく帰って行ったので、幸運にも店内は私たち2人と店員さんだけとなった。
            
            
 用事を済ませて、4月29日午前には発地市場経由で帰宅の途に。
 途中、上里SAで小休止。連休中とは思えないほど閑散としていて気の毒だったので、入口に看板が出ていたヒレカツ弁当を買って帰る。
 家に帰って開けてみると、従業員の手書きのメッセージが入っていた。厳しい状況なのだろう。
 以前は、上里の下りのSAにカツサンドを売るコーナーがあったが、そこのカツサンドは亡母の好物だった。
            

 帰京後、きょうまで1週間様子を見たが、幸いコロナには感染していなかったようだ。

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 実は、きょう2021年5月4日は、この「豆豆先生の研究室」を開設して5555日目だった(らしい)。
 自分で計算したのではないが、goo blog の my page に「開設から5555日」と掲示が出ていた。
 もともと「ブログ」などというものの何たるかも知らなかったのだが、息子に勧められ、息子が開設の作業をし、「豆豆先生の研究室」なる名前も、当時ぼくがミスター・ビーンのコントが好きだったので、息子が勝手につけたものである。
 ぼくがやったことといえば、「ぼくの気ままなnostalgic journeyです」というサブタイトルを決めたくらいである。

 本業が多忙のために途切れがちだったり、中断した時期もあったが、よくぞ15年以上も続いたものだと、我ながら感心する。
 この間、176万人をこえる方々が立ち寄ってくれたことも想定外であった。
 自分の書いたものが176万人もの人に読んでもらえるなど、紙媒体の世界では直木賞作家の随筆でもなければ考えられないことである。

 ちなみに、NHKラジオ第1放送の今朝の番組によれば、5月4日の「きょうの花」はハナミズキだそうだ。
 なぜ5月4日の花なのかは紹介していなかったが、1910年代に東京市からアメリカ、ワシントンに桜を贈った返礼にアメリカから贈られたという由来は紹介していた。
 花言葉は「公平」だそうで、日米で交換したという来歴から「公平」になったという。日米関係が公平かどうかは疑わしいが、ハナミズキは初夏の日本になじんでいる。
 この時期に開花するから「きょうの花」なのだろう。今年の東京は異常気象のせいですでに「花」は落ちてしまった。ハナミズキの花ビラのように見えるのが、実は葉っぱであることも紹介していた。

 2021年5月4日 記
 
 

「軽井沢」を名乗るな ! ?

2021年04月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 3月31日の朝、「羽鳥慎一のモーニング・ショー」で、軽井沢ネタをやっていた。その内容に驚いた。
 軽井沢町の町長が記者会見を開いて、周辺の安中市、長野原町、嬬恋村、御代田町、佐久市などに対して、その地の観光施設、不動産や商品に「軽井沢」という名をつけないでほしいと要望したというのである。

 軽井沢町側の言い分では、これらの地域にあるペンションなどの施設が「軽井沢」を名乗ることで、誤解した観光客が「タクシー代が1万円以上かかった」などというクレームを町役場に言ってくるので迷惑しているということのようだ。移住ブームで軽井沢の地価が上昇していることとも関係があるらしい(お前たちは軽井沢移住ブームに便乗するな、ということか)。
    

 たしかに、軽井沢駅からタクシーで行ったら1万円はするような、鬼押し出しのさらに北にある施設で「軽井沢」を名乗っているところはある。
 しかし、テレビでもコメンテーターが言っていたように、昔から「北軽井沢」は行政上は軽井沢町ではないが(群馬県!長野原町)、北軽井沢を名乗り、独自の文化をもっていたし(法政大学村)、かつての草軽電鉄の駅名だって「北軽井沢」駅だった。軽井沢の北側にあるのだから北軽井沢でいいだろう。下の写真は「カルメン、故郷に帰る」に出てくる北軽井沢駅。
             

 これが駄目だとしたら、東横線沿線を「城南」地区と呼ぶこともできなくなってしまう。江戸城の南側ではあるが、江戸城内ではない。将軍が鷹狩りをするただの田舎だった場所である。

 番組の中でコメンテーターも言っていたが、詐欺的な「軽井沢」の表示でだまされたと思う人は、当該施設や不動産屋に対してクレームをつけるべきで、軽井沢町の問題ではないと思う。町にクレームが来たら、「そんなことはあなたが利用した施設、業者、あるいは国民生活センターに言って下さい」と答えれば済む話ではないか。
 同じくコメンテーターが(NGトークで)言っていたように、「東京」ディズニーランドが千葉県の浦安にあったから怪しからんといって、東京都にクレームをつけるようなものである。
    

 それにしても、どうして軽井沢の一部の(多数か?)住人たちはこうも狭量なのか。軽井沢の西側の地区が「西軽井沢」と自称するなら、むしろ軽井沢が道標になったことを誇ればよいではないか。さすがに、安中、佐久市となると、どうかとは思うけれど。

 柳田國男によれば、もともと「軽井沢」は碓氷峠あたりの地名だった。「かろふ」(=背負う)「さわ」というのが語源で、馬にひかせて運んできた荷物を、人間が背負って渡らなければならないほどに急峻な峠を流れる沢という意味だと何かの本に書いてあった。
 だとすると、碓氷峠の沢側ではなく頂の側にある旧軽井沢だって僭称といえば僭称である。厳密に地理的にいえば、「軽井沢」と称することが許されるのは、せいぜい熊ノ平か見晴台までだろう。現在の軽井沢駅だって、以前の草軽電鉄では「新軽井沢」駅と称していた。
 前にも書いたが、旧軽井沢の住人の中には、中軽井沢が「軽井沢」を称することさえ不愉快に感じている人がいるらしい。
 今回の軽井沢町長の記者会見の真意は那辺にあったのだろうか。
      

 そもそも、現在の「軽井沢」にどれほどのブランド力があるか、ぼくには疑問である。
 ショッピング・モールや大衆的なゴルフ場を訪れる人たちにとって、現在の軽井沢は、コストコのある入間や三郷程度の記号性しかないのではないか。かつてはあったかもしれない「軽井沢」のブランド価値は、この20~30年間で費消されつくしてしまったように思われる。
 ぼくは、三浦展に着想を得て、現在の軽井沢という地域の性格を、東京の「第三郊外」と考えている(『郊外はこれからどうなる?』中公新書クラレによれば、田園調布、成城学園、吉祥寺が「第一郊外」、多摩ニュータウンが「第二郊外」とされる)。ツルヤの食品売り場を行きかう中高年夫婦を眺めるたびにそう思う(ぼくも当事者の一人である)。
 軽井沢町は、長野原町や御代田町にいちゃもんをつける時間があったら、軽井沢の「多摩ニュータウン化」をどのように防ぐかを考えた方がよいのではないか。

 すでに何度も書き込んだけれど、ぼくにとっての「軽井沢」は、とっくの昔に「幻の軽井沢」となってしまっていて、現在の俗化して高齢化した軽井沢は「ぼくの軽井沢」ではない。
 しかも、ぼくにとっての「軽井沢」は、むしろ「千ヶ滝」の思い出であって、旧軽族が中軽井沢を「軽井沢」と呼ぶなというなら、あえて「軽井沢」と呼ばなくても構わない。
 ただ、ぼくがはじめて千ヶ滝を訪れた昭和31年には、下車した信越本線の最寄駅は「沓掛」駅と名乗っていたのだが、その翌年には「中軽井沢」駅に改称されてしまったし、行政上の地番は初めから軽井沢町長倉だし、郵便局がつけたハウスナンバーも軽井沢町千ヶ滝だったので、「軽井沢」と言い習わしてきただけである。
               

 ぼくの思い出の中にある「軽井沢」は「千ヶ滝文化村」の周辺の木々や山道や山荘であり、そこを行き来していた人々の姿である。
 こけもも山荘、培風館山本山荘(上の写真)、東京女学館軽井沢寮、観翠楼、グリーン・ホテルなどの建物の佇まい、そして、テラスでタイプライターを打っていたドナルド・キーンさん、散歩する中村草田男さん、与謝野馨さん、波多野勤子さん、叔父叔母、従弟、祖父母たち、「小松さん」や「島村さん」の娘さん・・・。
 西武プロパティの広報誌が「千ヶ滝通信」と銘うっているのを、ぼくは見識だと思っている。

 ただ、正直に言えば、同時にぼくは千ヶ滝にあった「軽井沢スケートセンター」にも、「西武百貨店軽井沢店」にも多くの思い出があり、今でも懐かしく思っている。考えてみれば、これらの施設は、ひょっとするとぼくが忌み嫌う、その後の軽井沢の俗化の出発点になってしまったかもしれない。
 いずれにしても、変わらないのは浅間山だけである。「カルメン、故郷に帰る」で浅間山に向かって「変わらないのは浅間山だけである」と吟じた中学校長(笠智衆、下の写真の中央)の気持ちがよく分かる。
              

 
 2021年3月31日 記


きょうの軽井沢(2021年3月14日)

2021年03月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きょうの軽井沢。
 冒頭の写真は、気象庁のHPに載っていた現在の浅間山(鬼押出し)。
 
 以下は、長野県道路事務所のHPから、きょうの軽井沢。

        

 最初は、軽井沢町役場前の国道18号(17号だったか?)。
 東京と同じで、天気は良さそうだが、日曜日にしては道路を通る車は少ない。閑散としている。

        

 次は鳥井原東交差点の近く。
 しまむらの駐車場にはけっこう車が止まっているが、道路上の車の往来は少ない感じ。

        

 次いで、峰の茶屋の五差路の写真。道路脇にはまだ雪が残っている。

        

 最後は南軽井沢交差点。
 気温7・7℃、路面温度9・3℃と表示されている。

 2021年3月14日 記


今年最後の軽井沢(2020年12月11日)

2020年12月12日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 きのう、12月11日、朝起きると天気がいいので、軽井沢に行くことにした。
 GO-TOキャンペーンとやらで出歩き、食べ歩きを推奨している政府に責任を転嫁するつもりはない。自己責任で出かけたのである。
 関越道は渋滞こそなかったものの、結構混んでいたが、平日のため、上里SA、発地市場、峠のそば茶屋、プリンス・プラザいずれもすいていた。あえて言えば、ツルヤがやや混んでいたくらいか。

 朝8時半すぎに出発。
 上里でトイレ休憩。初冬の妙義山を左手に眺めながら走る。

            

 そして、下から見上げると恐ろしい吊り橋を渡る。

            

 11時前に碓氷軽井沢インターを出る。
 紅葉の時期は過ぎてしまって、枯れ木が多い。日陰になっている北側の路面は、凍っているのか(ブラックアウト?)黒く濡れている。

            

 まず、発地市場に向かう。
 東京でも野菜の価格は下がっていて、あまり発地に出かけるメリットはないらしいが。
 近所の農園で採れたばかりという新鮮そうで格安のイチゴを買う。

            

 ツルヤに立ち寄ってから、千ヶ滝に向かい窓を開けて風を通す。お隣さんは永住することにしたのか、クルマがとまっていた。
 昼食は追分そば茶屋で。寒かったら温かい天ぷらそばにするつもりだったが、日もさしていて暖かかったので、天せいろにする。

            

 帰路、プリンス・プラザに寄って、孫たちのクリスマス・プレゼントを買う。
 ここからは浅間山は見えないと思っていたが、離山越しにわずかに山頂と石尊山の稜線が見えていた。
 3時には出発。日が落ちる前に峠を下り終え、日がとっぷりと暮れた5時ちょっとすぎに帰京。

 2020年12月12日 記


“ 千ヶ滝通信 ”(2007年,2020年)

2020年12月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 ゆうべ車を運転していたら、警告灯がメーター計の下部に点灯した。
 クルマが衝突したイラストに“ OFF ”という黄色の表示が点灯したままで消えない。運転には支障がなかったので、そのまま帰宅し、きょうになって取扱説明書で調べた。
 警告灯一般について、エンジンを切っても消えない場合には販売店に連絡して下さいとしか書いてない。
 エンジンをかけてみると、昨夜の黄色い警告灯は消えていた。大丈夫なんだろうか・・・。

         

 ついでなのでダッシュボードの中を整理していると、古い『千ヶ滝通信』が出てきた。
 「千ヶ滝」に「せんがたき」とルビが振ってあり、“ 2007 Summer Information ”というサブタイトルがついている。発行は「軽井沢スケートセンター」と「軽井沢千ヶ滝温泉ホテル」が併記してある。
 裏面には、スケートセンターの中に入っていた“ 獅子 ”という中華料理屋の広告も載っている。確かにそんな名前の中華料理屋があった。西武ライオンズにちなんだ命名だろう。所沢の西武球場の中にも入っていた。
 軽井沢スケートセンターが廃業したのは、2009年の3月末だからその2年前のものである。

         
 
 現在の『千ヶ滝通信』40号(2020年10月)は西武プロパティーズの発行で、表紙の右肩に「Seibu Group--でかける人を、ほほえむ人へ。」、左肩には「軽井沢千ヶ滝別荘地--変わらない美しさ。豊かに刻む時。since 1918」と書いてある。
 紅葉した木々のアーチで覆われた表紙の道路は、千ヶ滝西区の風景ではないか。--と想像したが、よく見ると、表紙の脇に小さな白抜きの文字で「2018年に新からまつの森」で撮影したと書いてあった。

 きょう12月6日(日)の夕方、近所に散歩に出かけた。
 ベンチがないので、いつもは通り過ぎる公園に立ち寄ると、昨日の雨のせいもあってか、森林の香りが心地よく漂っていた。
 軽井沢の落葉松の林を思いながら、しばしの森林浴をすることができた。

 2020年12月6日 記

きょうの軽井沢(2020年10月3日)

2020年10月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢3日目。
 朝7時に起きると薄日が差しているが、昨日ほどの晴天ではない。
 きょう帰京するが、帰る日が好天だと癪に障るから、曇っているくらいがちょうどよい。しかも、帰京は道が混まない午前中と決めているので、東からの日ざしがまぶしくない曇り空の方が助かる。

 今日は帰るばかりなので、書くことはない。
 そこで、昨夜、正確には10月3日早朝に目が覚めて聞いたラジオの深夜放送から。

 NHK第1の “ラジオ深夜便” では、午前3時から「シンガー・ソングライターが提供した楽曲」特集とやらをやっていた。他の歌手に提供した曲は、ご本人が歌ったヒット曲ほど記憶に残っていないものが多かった。放送されたほとんどの曲をぼくは知らなかった。
 特集の最後に流れた曲が、中島みゆきが1977年に桜田淳子に提供した「しあわせ芝居」だった。当時の桜田淳子には中島みゆきは無理がある。
 中島みゆきは1975年に「時代」でデビューしたと紹介していた。そうだったか・・・。中島みゆきと五輪真弓は同じころにデビューしたが、この二人は他のフォークシンガーとは違った独特の雰囲気を持っていた。

            

 上の写真は10月2日の軽井沢の旧道。

 “オールナイト・ニッポン” が終わった朝4時からは、ニッポン放送で「あさぼらけ」というのをやっていた。
 DJも誰だか聴きそびれたが、東急池上線の話をしていた。
 西島三重子の「池上線」の歌詞に「古い電車」とか「すきま風に震えて」とかあるので、池上線はどんな電車だったのかと思っていたが、同線では1977年まで戦前に作られた車両が使われていたということを知って、納得したと話していた。
 昭和30年代に、伯母が雪が谷大塚に住んでいたので、正月の挨拶の折などに五反田から池上線に乗ったのだが、すきま風が吹きこむほど古い電車だった記憶はない。あの当時は、他の路線でも床が木製だったり、吊り革の輪が木製の車両などはいくらでもあったから、別に記憶には残らなかったのだろう。

 この番組に出ていたニッポン放送の政治部デスクの渡辺さん(?)だったかが、若いころに池上線の石川台から乗ってくる一回り年上の女性に恋をしたなどという思い出話を、CM中にDJに喋ったところ、DJがオンエアーで暴露してしまったため、二人で大笑いしていた。
 そういう話は好きだなあ。石川台駅といえば、小津安二郎「秋刀魚の味」で、岩下志麻が片思いの吉田輝雄とホームの上で恥ずかしそうに少し離れて会話するシーンが撮影された駅である。

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 今回の旅の最後に、上信自動車道の横川SA近くの吊り橋。
 この吊り橋を下から眺めた写真を見たことがあるが、地上から100メートルくらいあって、目がくらみそうだった。高所が苦手のぼくは、この橋を通るのが苦手である。
 この吊り橋を渡ると、いよいよ軽井沢も終わりという感じになる。とくに夏の最後の帰京の時には「今年の軽井沢もこれで終わったな」という気持ちになる。
 ちなみに、軽井沢に行くときは、東松山の道路を跨ぐゴルフ場のネットの屋根の下をくぐると、さあ東京を離れたぞ、という気持ちになる。

 以下は、今回の軽井沢の写真を落穂ひろい的に何枚か。

             

             

 上の2枚は、発地市場から東側、南側をのぞんだ写真。10月2日撮影か。
 冒頭の写真は、10月2日に鬼押出しへ向かう有料道路脇から眺めた浅間山。        
           

 2020年10月5日 記


きょうの軽井沢(2020年10月2日)

2020年10月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢2日目。
 天気予報どおり、朝から快晴。絶好の部屋の風通し日和(?)である。

            

 追分の “すみや” にちょっと立ち寄り、借宿の知人を見舞ってから、女房がお気に入りの発地市場に出かける。10時前に到着すると、10月のウィーク・デーにしてはけっこうの人出だが、開店30分前から数十人が並ぶ8月ほどではない。
 義姉に送るシャイン・マスカットを買うのが主たる目的。気に入った詰め合わせがないので、自分で、リンゴなどを組み合わせるために段ボール箱をもらって帰る--予定だったが、あまりに天気がよいので、そのままドライブすることにした。

 どこへ行くか。
 志賀高原はちょっと遠い。草津、白根はGo-to で混んでそう。海野宿、別所温泉は2、3年前に行ったばかりだし、浅間サンラインはもっと秋が深まってからの方がよい、などと迷った挙句、結局は国道146号を鬼押し出し方面へ登って、道の駅から浅間山を眺めることにした。
 有料道路の途中にある道の駅は、浅間山を眺める絶景ポイントの1つで、嬬恋の農家直送の新鮮な野菜を安く買うことができる。

 中軽井沢駅前から星野、塩壷、旧西武百貨店前、旧グリーン・ホテル跡地などをくねくね登っていく。途中、塩壷温泉の向かいあたりに千ヶ滝郵便局があった。赤い三角屋根の郵便局は、かつてはもっと登ったところ、西武百貨店前から直進する山道が左に曲がる突き当りにあったのだが、その後長い間閉ったままになっていたのだが、いつ移転し、再開したのだろう?
 峰の茶屋の交差点を過ぎて、有料道路に入る。料金280円。

             

 ところが、驚いたことに、行くつもりだった道の駅は閉まっていた。
 信号のある交差点を右折しようとしたが、進入禁止の柵が閉まっている。道の左側の路肩には数台のクルマが停車している。コロナではなく、それ以前に廃業してしまったようで、営業終了の張り札も何もなかった。
 はじめて軽井沢に来た義姉を連れて、朝早くに立ち寄ったら、ちょうど地元の農家の人がその朝とれたばかりの野菜を運び込んでいる最中だったのは、もう十年近く前のことになる。

             

 仕方がないので、路肩にクルマをとめて、浅間山の写真を撮る。変わった形の雲が湧いて流れていた(上の写真)。
 浅間山は中軽井沢から眺めるのが、ぼくにとってはベストなのだが、鬼押出し、北軽井沢方面からの浅間山は、“カルメン、故郷に帰る” にたびたび登場して、笠智衆が「変わらないのは浅間山だけ」と嘆いたシーンを思い出させる。しかもあの映画はぼくが生まれた昭和25年に撮られたので、70年前の浅間山を見ることができる。
 確かに、この日の浅間山も70年前と全く変わってなかった。

             

 帰りは有料道路ではなく、一般道で峰の茶屋まで戻るつもりだったが、右折するところを間違えて、同じ有料道路に出てしまった。往復で560円の出費。
 さらに白糸の滝を通る有料道路で旧軽井沢に向かったのだが、通行料200円くらいの記憶だったが、なんと500円! 料金の記憶はすべて10年から20年(もっと昔かも)のものだったらしい。その代わり、ほとんど一人旅でまったりと走らせることができた。
 もったいないので、久しぶりに白糸の滝まで歩いた。

             

 旧軽井沢ではいつも通り、神宮寺の駐車場にとめる。

             

 旧道はそこそこの人出。余り10月には来ないので、例年と比べてどうなのかは分からないが、自粛要請期間中よりは賑わっている。ほとんどの人がマスクをしている。
 女房が混みあう浅野屋でパンを買っている間、観光会館のラウンジで、街よく人を眺めて時間をつぶす。

             

 夕方、ようやく帰宅。
 義姉に送る荷物を作って、追分のコンビニに持ち込んだが、ちょうど今日の最終便が行ってしまったばかりだと言う。
 荷物を預けたのち、浅間山の姿がまだきれいだったので、浅間テラスに向かう。
 沈む夕日を浴びて夕もやにかすむ浅間山の山影が刻々と変化していく。冒頭の写真と下の写真は5分くらいの間に撮ったもの。 

             

 この日の夜が満月だという。昨日10月1日の中秋の名月は「満月」ではなかったのか!
 流れる雲の間から月がのぞくのを待って、窓辺に立つこと数分。結局完全に雲が晴れることはなかった。

             
         
 スマホのカメラで撮ったものなので、見えるかどうか。フラッシュを切る方法は分かったが。
           

 2020年10月4日 記


きょうの軽井沢(2020年10月1日)

2020年10月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 10月1日(木)、午前9時前に出発して軽井沢に行ってきた。
 Go to Travel キャンペーンの東京解禁に便乗したわけではなく、天気予報でこの2、3日は天気が良さそうだったので、家の風通しと片づけに行くことにしたのである。

 急ぐ旅ではないので、途中休憩も入れてお昼頃に到着すればよいと思って、9時に出発したのだが、新座料金所前で「火災渋滞 藤岡120分」という電光掲示があり、それでも所沢、川越、鶴ヶ島あたりは順調に流れていたのだが、高坂手前あたりから渋滞になり、一寸刻み。
 ようやく事故現場を通過する際に見ると、黒っぽいスポーツカー・タイプのクルマが黒こげになっていた。運転席側のドアが開いていて、シートなどが燃えてしまった運転席が見えていた。単独事故の模様。

             

 それ以後は順調に流れ、上里で少し休憩して、上信自動車道、碓氷軽井沢インターで出て、晴山通り(通称プリンス通り)へ(上の写真)。
 曇り空、気温は南軽井沢交差点の道路標示では15℃だった。黄葉している木も多少はあったが、紅葉にはまだ少し早い。
 
             

 ツルヤに立ち寄って、食料品を買い込んで家に向かう。
 写真は、ツルヤから眺めた浅間山。といっても、雲に隠れていて、ほとんど見えない。

             

 夕方、日が暮れる前に、近所に散歩に出かける(最初の写真も)。
 別荘地内を歩いて、かつての西武百貨店西区販売所(?)前の郵便ポストに(上の写真の中央の赤いやつ)。
 祖父が存命中は、よく夕方になると散歩がてらこのポストに郵便を入れに行っていた。亡くなって既に36年が経つが、ポストはあの当時のままのようで、錆びて赤いペンキも色あせていた。
 このポストに郵便物を投函する人はいるのだろうか。

 このポストの北側には、一昨年まではNECの広大な保養所があったが、昨夏来てみると跡形もなく解体されてしまっていた。
 夕方に来てみると、工事車両が停まっていて、建築確認が掲示してあったので、眺めると、施工主は確か<T8>と書いてあった。スマホで調べると東急系の企業らしい。
 かつての西武百貨店(や堤一族の未明荘)跡地の向かいに宿敵東急の建築物が建つとは、隔世の感がある。

             

 家路に向かって、かつての高原バスのバス通りを歩いていると、歌鳥の里という停留所があったあたりの道沿いに<近畿大学>の表札のある平屋の瀟洒な建物が建っていた。
 ここ数年間(十数年間かも)荒れたままの更地だった所がきれいになり、通りの景色も良くなった。
 近畿大学は何に利用するのだろうか。学生たちのセミナーハウス用にしては小さいように思うが。

                          

 この夜は中秋の名月とか。
 夜11時ころには、南の上空に月が出ていたが、雲に隠れがち。
 夜中の3時ころに目が覚めると、西の空が明るく光っていて、4時間ほど前には南にあった月が西というより西北の方角の上空から木々の葉を照らしていた。
 またしても、スマホのカメラはフラッシュがついてしまい、窓際の木の葉に焦点が当たってしまった。


 2020年10月1日 記 


雨の軽井沢 (2020年9月25日)

2020年09月25日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “TRIP at HOME”!

 軽井沢に行くことができないので、雨の東京の自宅のパソコンで、長野県国道事務所や軽井沢町役場提供の定点カメラの画像を眺めている。

 冒頭は国道18号、碓氷峠(?)から眺めた浅間山。
 このあたりは雨が降っていないばかりか、うっすらと浅間山を望むこともできる。
 ちなみにここは群馬県らしく、高崎道路河川管理事務所提供とある。

 続いての写真は、南軽井沢交差点。
 ここは雨で、気象情報によると<気温:15・2℃、天候:雨>と表示されている。

             

 ついで、鳥井原交差点。
 <しまむら>の看板と、消防署の火の見やぐらが見える。

             

 そして、軽井沢町役場前の国道18号のクルマの流れ。
 路面がきれいに濡れている。
 
             

 高校生か大学生の頃、“雨に濡れた舗道”という東宝東和の映画があり、角川文庫で同名のノベライズ小説が出ていた。どんな話だったかは忘れた。“去年の夏”と同じような話だったのではないか。
 カスケーズ “悲しき雨音”、バート・バカラック “雨に濡れても”、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル “雨を見たかい?”、リトル・ペギー・マーチ、ジリオラ・チンクエッティにも雨の歌があった。
 ちあき・なおみ “黄昏のビギン” も・・・。雨はいい。

 最後は、<追分>。ずい分雨が激しい様子である。
 これがどこなのか、いつも悩む。

             

 向かって右側が<追分 すみや>の駐車場で、左側が旧追分宿の本陣の木立のようでもあるし、違うようでもある。
 <追分 すみや>は、ホームページではこの夏で閉店してしまったようだが、実際はどうだったのか? 残念ながら、今年の夏は行くことができなかった。

 
 2020年9月25日 記
 

きょうの浅間山 (2020年8月20日)

2020年08月20日 | 軽井沢・千ヶ滝

 猛暑の東京から。

 今朝の8時前後だったか、NHKテレビを見ていたら、現在の軽井沢といって浅間山が写されていた。朝の夏空にうっすらと青みを帯びたきれいな山影だった。
 あわててスマホのカメラで撮影しようとしたが、画面は茨城県に切り替わってしまった。
 そういえば、この週末にも、軽井沢の72ゴルフ場で開催された女子のゴルフ大会を放映していて、時おり高く上がった打球の背景に浅間山がくっきりと見えていた。

 テレビの画面は取りそびれたので、例によって長野県道路事務所HPの長野県道路情報ライブカメラから浅間山のライブ映像を拝借した。
 下の写真は、地図からすると、国道18号の和美峠あたりから眺めた浅間山。高崎河川国道事務所(国交省)提供というキャプションがついている。

                 

 残念ながら、雲がかかっていたので、少し時間を置いて、今度は(同じ国交省だが)気象庁の監視カメラ画像(浅間山・鬼押)というのを拝借した。(冒頭の写真)
 長野県道路事務所のものよりくっきりと写っている。浅間山は裾野がゆったりと伸びる軽井沢側(それも町役場とか発地市場あたり)からの眺めがベストショットだとぼくは思う。
 鬼押出しからの眺めは、少し北東に寄りすぎているけれど、北軽井沢ほどには寄っていないので、許容範囲か。

                

 おまけに、鳥井原交差点の画像もアップしておく。これも長野県道路事務所HPから。

 
 2020年8月20日(祖父の36回目の命日) 記