昨日、4月2日に石井桃子さんが亡くなった。101歳だったという。
石井さんに直接関連する思い出ではないのだが、“ノンちゃん雲に乗る”の映画を見た記憶はしっかり残っている。
あの有名なノンちゃんこと鰐淵晴子が木の枝に登っているシーンである。下から見上げている太った男の子がいたようなきがするけれど・・。
“時をかける少女”とか“謎の転校生”とか“ジェニーの肖像”、そしてこの間見たばかりの“転校生”とか、どことなく不思議な雰囲気の漂う映画を好きになる原点は、ひょっとすると“ノンちゃん雲に乗る”を見た幼児体験にあるのかもしれない。
石井さんの訃報に接して、ふと懐かしくなってネットで調べてみると、“ノンちゃん雲に乗る”のDVDはしっかりと販売もレンタルもされていた。いつか観ることにしよう。
驚いたことに、“ノンちゃん雲に乗る”は、新東宝(!)の製作(1955年)だったらしい。あの三原葉子、三ツ矢歌子の新東宝が何で“ノンちゃん雲に乗る”を・・・、と訝しく思って、川本三郎『シネマ裏通り』(冬樹社、1979年)を引っ張り出した。
川本のこの本には「新東宝物語」という一章があって、なかでも「三原葉子」(なぜか彼女の名前にだけ「」がついている)に関する記述がいいのだが、三原葉子についてはまた別の機会に書くとして、川本によれば、新東宝は、まさに「新」東宝だったのだ。
東宝労組の組合活動に嫌気がさして退社した原節子らの映画人が集まってできたのが新東宝だった。そして、“三太物語”、“ノンちゃん雲に乗る”、“しいのみ学園”、“次郎物語”などなど、学校から見に行く映画(今でもあるのだろうか?)の定番が多数製作されたのだという。
そして、これまた石井さんには直接関係ない話で申し訳ないのだが、ぼくは鰐淵晴子ご本人を2度見たことがある。
最初は1969年から73年頃、僕が大学生だったときに、通学の東横線の車内で見かけた。渋谷に向かう車両に、ふつうの人とはまったく別世界の佇まいをみせて彼女は立っていた。今様にいえば「オーラが漂っていた」。田園調布にでも住んでいたのだろうか。
彼女は乗り合わせた慶応高校の生徒に、「この電車は日比谷に行くか?」といったことを聞いて、中目黒で下車していった。声をかけられた慶応生が、彼女が降りてからの車内で、「おれ、鰐淵晴子に話しかけられた」と興奮して同級生に話していた。
その次は、その何年か後、タッド若松(だったか?)と結婚していた頃、軽井沢の旧道の路上で、二人でいるところを見かけた。軽井沢では有名人を見かけても、じろじろ眺めたりするものではないので、ちらっと目にしただけだったが。
さて、石井桃子さんに戻ると、彼女は日本女子大の英文科を出てから文芸春秋の社員を経て、吉野源三郎に乞われて岩波に入社して、「岩波少年文庫」の創刊に参画したという。
ぼくは、まさに「岩波少年文化人」を自称するほど、岩波少年文庫は読んだ。小、中学生時代に読んだ本はほとんど岩波少年文庫だったといってもいいくらいである。とくに『カッレ君』シリーズ(といっても3冊だけだが)がお気に入りだった。
当時読んだ本は軽井沢に運んでしまったので、すぐに見ることはできないが、1冊だけ東京においてあったセレリヤーの『銀のナイフ』をみたら、訳者(河野六郎さん)のあとがきに、翻訳にあたって石井桃子さんからいろいろ親切なご忠告をいただいた旨の謝辞が記されていた。編集を担当していたのだろう。
ちなみに書籍のほうの『ノンちゃん雲に乗る』は当然岩波少年文庫かと思ったら、これも意外なことに光文社刊だった。そういえば光文社も、今とは違って当時は壺井栄の『母のない子と、子のない母と』だの『右文覚え書』とか、良心的な本を作っていたのだった。
“ノンちゃん雲に乗る”が光文社から出版された原作を新東宝が映画化した作品だったとは、昭和も遠くなったものである。
いずれにしても、石井さんの蒔いた種は、ぼくの心にも何がしかの実りをもたらしていると信じたい。