豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ホッブズ『リヴァイアサン』第4部

2021年09月25日 | 本と雑誌
 
 ホッブズ『リヴァイアサン』第4部「暗黒の王国について」を読んだ。
 ただし、永井道雄・宗片邦義訳の中公バックス<世界の名著>『ホッブズ』(中央公論社、1979年)の抄訳による。
 抄訳(要約)では意味がとれない部分や、まったく省略されているが(掲載されている)小見出しから内容を推測して読んでおきたい部分は、水田洋・田中浩訳『リヴァイアサン<国家論>』(河出書房新社、<世界の大思想16・ホッブズ>、1973年)の全訳(第4部は田中訳)で確認した。        
 水田・田中訳の河出<世界の大思想>版は手元に置いておきたいので、Amazon で一番安いのを購入した。120円+送料257円で栃木の古書店から届いた。
 経年劣化は仕方ないが「可」としてはまずまずだった。天がかなり汚れた箱もついていたが、箱は捨てる主義なので構わない(下の写真)。ただ、古本臭がややきつい。ーーファブリーズを噴霧したビニル袋のなかに一晩閉じ込めておいたところ、古本臭はだいぶおさまった。
          

 カバーの色は、前の版(世界の大思想12巻、河出書房(新社に非ず)。下の写真)と同じ青色(青紫色?)を予想していたが、届いたのは、意外にも濃茶色を基調にえんじ色と金色のラインが入っていた。デザインは前の版とまったく変わらない、亀倉雄策さんのもの。
 濃茶色の表紙は、革表紙のような雰囲気さえ漂っている。さすが亀倉雄策である(冒頭の写真)。
     

 さて、第4部の内容は、田中浩『リヴァイアサン』(岩波新書、2016年)によれば、徹底したローマ教皇およびローマカトリックの教義、教会の批判である。
 たしかに強烈なローマ・カトリック批判であった。
 ホッブズ自身は、59歳の時に大病をして死を覚悟した際に、イギリス国教会による聖礼を受けているが(田中・前掲62頁。実際に亡くなったのは91歳)、宗教戦争によって生命の安全が損なわれることを避けるために、「イエスはキリスト(救世主)である」という一点で各宗派が和解することを提案している(第3章の各所)。

 第44章は「暗黒の王国」(the kingdom of darkness)で、『聖書』には神の主権(sovereign)、人間の主権のほかに、暗黒がこの世界を支配する「悪魔の王国(the kingdom of Satan)」または「ベルゼルブの領土(the principality,田中訳では権力)」についての記述がある(490頁)。
 そして現在(もちろんホッブズの時代)のローマカトリック教会は、いまだこの暗黒から解放されていない。その原因は『聖書』解釈の誤りにあるが、最大の誤りは「神の王国」は現在の教会であり、法王はキリストの総代理者であるから、キリスト教徒である国王は司教から王冠を受けなければならないとする解釈である(491頁)。
 『聖書』解釈の誤りの第2は、洗礼式や結婚式などの聖別の際にとなえられる呪文であり、さらに「永遠の生」の誤解からくる煉獄の教義の誤りである(493頁)。
 --この辺りはぼくには理解不能だが、カトリックの幼稚園で教えられた「悪いことをした子は煉獄の火で焼かれてしまう」という教師の脅しは、毎月配られる子供向け宗教雑誌に載っていた煉獄の挿絵とともに、幼かったぼくの心に恐怖心を植えつけるに十分だった。

 第45章は「悪魔学」(demonology)と偶像崇拝の批判。
 第46章は、自然理性に反する超自然的なものから成り立っているアリストテレスの誤った形而上学が、大学を通じて宗教に流れ込んだと批判する(498頁)。
 またアリストテレスの社会哲学は、民衆的政府(popular government)以外はすべて専制(tyranny)であり、民衆政治のもとで(のみ)人民は自由(liberty)だという。そして、民衆政治や貴族政治が気に入らなくなると、民衆政治を「無政府」(anarchy)と呼び、貴族政治を「寡頭政治」(oligarchy)と呼んでこれを批判する(499頁)。しかし、彼らは、専制政治がなければ内乱が続き、法を施行するのは(言葉や約束でなく)人間や武器であることを知らないとホッブズはいう(同頁)。
 『聖書』はコモンウェルスの権威によって法とされ、市民法の一部分になる。・・・市民法への不服従は合法的に罰せられ、反乱や騒乱を教唆する教師は処罰される、それが政治的権威であり、教会権力が国家権力の中でその権利を主張することは、実は神の権力の簒奪である(500頁)。

 永井・宗片訳の<中公バックス>版では省略されているが、第46章では「合法的な結婚を不貞だとする説」(lawful marriage is incontinence)という『聖書』の誤まった解釈についても語っている。
 聖職者に対して結婚を否定する根拠として、結婚という行為が貞節、禁欲に矛盾する道徳的な悪であるという。しかし、一定の聖職者に貞節、禁欲、純潔の名のもとに女性からの不断の分離を要求するのは、教会の1つの制定物以外の何物でもない(田中訳<世界の大思想>463頁)。

 第47章では、「戦う教会は神の王国である」というローマ教会の誤った思想には、以下のような世俗的利益が伴っているとホッブズはいう(501頁)。
 教会とコモンウェルスは一体の人格であるから、教会の牧者は教区牧師および地方統治者の資格を与えられ、キリスト教徒王公の臣民を服従させ、王公と(教皇が)不和になった際には(臣民に)合法的主権者(王公)を放棄させた(501頁)。
 また政治的主権者の権限なしに、「破門」によって人の合法的な自由を奪うという権力の濫用が行われた。かかる「暗黒」の張本人はローマの聖職者たちと(イギリスでは)長老派の聖職者たちであった(502頁)。

 法王は、法王の利益に従って統治されることに従わない国家に対して、内乱を引き起こさせることができた。聖職者その他の祭司は、市民国家の権力によって保護されているにもかかわらず、公共的な費用を一切払わず、犯した行為に対して正当な刑罰にも従わなかった(503頁)。
 婚姻を聖礼の1つであるとする教義によって、聖職者は婚姻の合法性の判定権を獲得し(ーーヘンリー8世の再婚!)、嫡出認定による世襲的王国の継承権者を判定する権限を獲得した。
 さらに、「告白」を聴くことによって、王公ら政治的有力者の情報を教会の権力確保のために得ることができ(504頁)、罪を赦したり留保する権限を祭司らに帰属させることによって、自分たちの権力を確実なものとし、煉獄や免罪の教義によって富を増大させた(504~5頁)。
 --免罪符は知っている。山川出版社『新世界史』184頁は、ルターは「教皇による贖宥状(免罪符)の乱売に反対」したとまで書いている。「乱売」とは!。
 「法王制」とは死滅したローマ帝国の亡霊が、その墓の上に冠をいただいて坐っているのに他ならない、彼らが教会で用いるラテン語もローマ帝国の亡霊に他ならない(510頁)。 

 イギリスでは、エリザベス女王(1世)によって法王の権力は解体され司教制も廃止され、私たちは原始キリスト教徒の独立性を回復した(507~8頁)。ヘンリー8世が悪魔祓いにより、エリザベス女王も同じ方法で彼らを追い払ったのは、さして難しいことではなかった。
 しかし現在は、シナ、日本、インドを伝道してめぐり歩いているローマの亡霊が、ふたたび帰ってくることがないとは誰も知らない(510頁)。ーー『リヴァイアサン』に日本が登場するとは!

        
 
 以上で『リヴァイアサン』第4部「暗黒の王国について」は終わり、最後に、第1部から第4部を通じての「総括と結論」が語られる(角田訳『リヴァイアサン』では第1部(第1巻)の末尾についている)。
 各部の要約は省くが、新しいこととして、ここでホッブズは、「すべての人は、平時において彼を保護してくれる権威を、戦時においても可能な限り保護するよう自然によって義務づけられている」という第15の自然法を追加した(514頁)。
 また、(内乱に際して)「人が征服者の国民となる時点は、その人が降伏する自由をもっていて、明確な言葉またはしるしによって、征服者の国民になることに同意した時点である」という(515頁)。 
 --これはホッブズ自身のクロムウェル政府に対する恭順を含意しているのだろうか。

 同じように、人が国外にあるときに、自国が征服された場合には、彼が帰国してその統治に服するならば、それ(征服者)に従う義務が生じる。降伏によって彼らは、生命と自由の代わりに服従を約束するという契約を勝利者と結ぶのである(516頁)。
 --これは、亡命先のフランスから帰国して、クロムウェル政権と「エンゲージメント」を結んだホッブズ本人の立場の表明と読んで間違いないのではないか。
 『リヴァイアサン』全体がクロムウェルに阿るために執筆されたとは思わないが、最後の「総括と結論」が、クロムウェル政権への恭順の意を示したものであり、しかも生命の安全=自己保存を社会契約によるコモンウェルスの至高の目的と考えるホッブズにとって、現実政府への服従は自然の行為であったという田中浩『リヴァイアサン』の記述(63~4頁)はうなずける。 
 --以上の記述に際しては、基本的に永井道雄・宗片邦義訳<中公バックス>版『ホッブズ』の翻訳に依拠したが、田中浩訳『リヴァイアサン』第4部<河出・世界の大思想>版や、角田安正訳『リヴァイアサン (2)』<光文社古典新訳文庫>に収録された「総括と結論」も参照した。

 第3部、第4部を抄訳ですませたため、第1部、第2部を角田訳<光文社古典新訳文庫>で読み終えたときほどの満足感はない。しかし、かといって第3部、第4部を水田・田中訳<河出書房、世界の大思想>で読み直す元気もない。
 ホッブズはひとまず終わりにして(永遠に終わりかも)、『リヴァイアサン』で興味をもったエピクロス、ルクレティウスの「自然状態」論を読んでみるか、それとも時代を下って、ハリントンかロック『統治二論』を読んでみるか。モンテスキュー『法の精神』が半分近く残っているのも気になっているしのだが・・。
 --田中浩『リヴァイアサン』(岩波新書)の紹介で、ホッブズとエピクロスやルクレティウスとの関連を知って、Google で検索したら、ちゃんとエピクロスもルクレティウスも岩波文庫に入っていた。さすが岩波文庫!である。 

 2021年9月25日 記