ジョゼッペ・トルナトーレ監督の「“モリコーネ--映画が恋した音楽家」 を見てきた。
吉祥寺駅南口(東口?)駅前の吉祥寺オデオンで。中学、高校時代の6年間通学で吉祥寺駅を通っていたのだが、こんなところに映画館があった記憶はない。
あのころは中央線は地上を走っており、あの辺りには踏切があったはずだ。
さて映画だが、何かのラジオ番組で紹介しているのを聞いて、面白そうだなと思った。久しぶりに見たい映画に出会った。
エンリオ・モリコーネは好きな作曲家の1人である。字幕では「エンニオ」となっていた。
上映館を調べると、吉祥寺でやっている。これなら場所も悪くない。しかし上映時間が2時間40分(!)というので躊躇した。いくら何でも長すぎないか。「ニュー・シネマ・パラダイス」 みたいに、モリコーネの音楽が流れる古い映画の部分部分をモンタージュのようにつなぎ合わせたようなものだと、とても2時間40分は耐えられない。
しかし、結局行くことにした。
午前11時25分から2時間40分なので、昼飯がわりにおにぎり4個と、近くのコンビニで買ったお茶とお菓子(どら焼き)を持参した。
映画は90歳をすぎたモリコーネが自室で作曲したり、柔軟体操をするシーンから始まる。
そして、彼の生い立ち、というよりは音楽家としてのキャリアの出発点から彼の音楽家人生をたどっていく。
トランペット吹きだった父親の命令で音楽学校に入り、トランペット奏者を目ざすが、やがて作曲に目覚めていく。そして映画音楽の世界で頭角をあらわすようになる・・・。
この辺から、もう2時間40分という時間のことはまったく忘れていた。
懐かしいメロディー、懐かしいシーン、懐かしい俳優や歌手が次々に登場する。
彼の出世作になった「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」 などの発想から完成に至るプロセスをモリコーネ自身が語り、監督や製作者らの回想を交えながら、モリコーネの曲が流れるシーンが映る。
申し訳ないことに、「荒野の用心棒」を聞きながら、ぼくはこの曲が挿入歌として流れる「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」を思い出してしまった。あの番組は、挿入歌で流れる「荒野の用心棒」と「ライム・ライト」が番組の雰囲気に似合っている。
ぼくの知らない映画や俳優や歌手も大勢登場する。トルナトーレ自身も何度か登場する。
懐かしかったのは、ジャン・ギャバン、リノ・バンチュラ、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモント、マルチェロ・マストロヤンニ、それに現在のジョーン・バエズまで登場した。
“ワンス・アポンナ・タイム イン アメリカ” のジェニファ・コネリーも初々しい。あの映画の撮影時にはモリコーネの音楽をスタジオで流しながら撮影したという。
映画俳優だけでなく、歌手のジャンニ・モランディやミーナも登場した。彼の曲を歌っていたのだ。残念ながらミーナが歌っていたのは “砂に消えた涙” ではなかったが。
しかし、何といっても印象的だったのはモリコーネご本人である。
時にはメロディを口ずさみながら、時には指先で机を叩いてリズムを刻みながら、時には目を閉じて指揮棒を振るしぐさをしながら、自作を語る語り口が魅力的だった。
驚いたのは、高校時代に見た「アルジェの戦い」 が、何とイタリア映画で、作曲がモリコーネだったこと!
あれはフランス映画だとばかり思っていた。フランス人がアルジェリアの独立運動を弾圧する怖い映画だった。人権宣言以来のフランスの「自由」や「人権」が、「フランス人の」自由、人権にすぎないことを思い知らされた映画だった。
ただし、今回聴いてもあれが「モリコーネ」の音楽とは思えなかった。“荒野の用心棒” 以降の彼の曲風とは違う世界だった。
アカデミー賞に6回もノミネートされながら、受賞に至らなかったなど、信じられないエピソードである。クラシック出身のモリコーネが「映画」音楽家であることに「罪悪感」をもっていたというのも驚きであった。
彼は新人監督だったトルナトーレ監督の依頼に応じて、「ニュー・シネマ・パラダイス」 の音楽を引き受けてくれたという。いかにもモリコーネ風で、ペーソスがあってノスタルジックないい曲だった。
今回の “モリコーネ” は、「ニュー・シネマ・パラダイス」より編集が数段洗練された印象だった。いい映画を見た。
モリコーネは2020年に亡くなったようだが、ラッシュででもこの映画を見ることはできたのだろうか。
2023年1月21日 記