川本三郎「荷風好日」(岩波現代文庫、2007年)を読んだ。
永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)に出てきたまったく地理勘のない土地や知らない人物について知りたいと思って、川本の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)を買ったのだが、ものすごい分厚いコンメンタールだったので、まずは荷風入門書から始めたほうがよいだろうと考え直して、この本を読んだ。
川本の「荷風と東京」以降に発表された荷風をめぐる随筆を集めた内容で、読みやすかった。「私註」の前に目を通したのは正解だった。
荷風は「市中」を散歩したが、隅田川や荒川放水路など東東京が中心で、西東京はほとんど出てこない。荷風にとって西東京は「郊外」であって「市中」ではないそうだ(31頁)。ぼくは「断腸亭・・・」を読んで、井の頭線の高井戸以西の車窓の風景を描写した個所が一番印象に残ったが、あれは荷風にとって珍しい「郊外」への遠征だったのだ。
ぼくが、川本ほどには荷風を好きになれないのは、彼が徘徊する場所が(ぼくにとっては「異境」といっていい)東東京に偏っていることが理由の一つだろう。
路地歩きはぼくも好きなのだが、ぼくが好きな路地(というほど細くはないが)の東端は、かつての須田町電停近くの靖国通りを一本南に外れたところにある、レトロな外壁煉瓦造り3階建てのビルが残り、バナナと大学芋だけを販売する八百屋(?)がポツンと残っている通りである。10年以上行ってないから、もうなくなってしまったかもしれない。
林芙美子は荷風の愛読者で、荷風の小説に見られる季節の気配を論じているという(156頁)。
ぼくも、「断腸亭・・・」の中の、「涼風秋の如し」「空俄にくもり疾風砂塵を捲く」などといった簡潔な気候の表現が好きである。芙美子自身は雨が好きだと書いているが(同頁)、ぼくも「断腸亭・・・」の気候描写でもとくに雨の描写が好きだった。「細雨烟る」「驟雨」「雨、歇む」など。
荷風は曇りの日を「陰」と表記する。「くもり」と読むらしいが、「陰」の日は頻繁に出てくる。ただ空が曇っているだけでなく、心も陰鬱になる気分が表れている。
荷風と面談したことのあるドナルド・キーンは、彼の話し言葉の日本語が美しかったと感想を書き残している(202頁)。このことはぼくも納得できる。「断腸亭・・・」は、内容はともかく、その文章は音読しても良いような文章だった。ぼくには読めない漢字も多かったのだが、簡潔な漢文調で読んでいて心地よい。
ぼくが一番気に入ったのは、何かを食べるときに、「銀座食堂に飯す」(「はんす」とルビがある。「飩」の食偏に、作りは「下」のうえに片仮名の「ノ」。IMEパッドでも出てこなかった)と書くことである。最近テレビなどで、それほど上品とも思えないタレントが、ラーメンを「いただく」などと言っているのを聞くが、ラーメンなど「食べる」でいいだろう。「飯す」は、食通ぶらない所がよい。
小津安二郎が「断腸亭日乗」を熟読していたことと、「東京物語」の長男山村聰の医院が荷風の愛した荒川放水路の堤防の下に位置していたこととの関連性の指摘など、なるほどと思った(112頁)。あれが「荒川放水路」だったのか。「お早う」の土手も「荒川放水路」だったのか。
小津「風の中の雌鶏」で、佐野周二が娼婦役の文谷千代子と川原でおむすびを食べるシーンなども荷風を下敷きにしたのだろうかと思ったが、「風・・・」は昭和23年、「断腸亭・・・」は昭和24年以降の公表らしいから、関連はなさそうである。娼婦と客が川原で弁当を食べるようなことも、当時としてはありがちなことだったのだろう。
「荷風の映画」という章も興味深かった(188頁~)。
荷風の小説を原作とした映画が数本あったらしい。「渡り鳥いつ帰る」という映画は(題名からはまったく見る気にもならないが)、田中絹代、森繁久弥、水戸光子、淡路恵子、高峰秀子、岡田茉莉子などの出演者を眺めると見たくなった。DVDはないようである。川本もこれらの映画に出てくる風景を懐かしんでいるが、小津映画のような風景なのだろうか。山本富士子の「濹東奇譚」も見てみたい。
川本の本には、戦後の荷風を「すべて読むに堪えぬもの」と批判した石川淳その他の文章が引用されていて、諸氏の荷風評価を知ることができる(151頁)。荷風自身が、60歳前後で死ねなかったことはこの上もない不幸だったと述懐していることは「摘録」にもあった。「精神貴族」荷風にとって、著作が泡沫出版社から仙花紙で出版される戦後初期は(154頁)屈辱の時期だっただろう。
しかし、川本は、安岡章太郎などとともに戦後の荷風をも評価する。敗戦も近い昭和20年になって、荷風は5回も空襲に遭っている。3月10日の東京大空襲で麻布の偏奇館を焼かれ、疎開先の代々木の従弟宅を焼かれ、東中野、明石、岡山と、逃げ延びた先々でも空襲に逢っている。戦後の荷風の奇矯な言動は空襲恐怖症によるものだったと川本は弁護する(170頁~)。
荷風は遺書の中で墓石を建てることを拒絶し、石碑などを建てる文学者を「田舎漢」と軽蔑していたはずだが、川本によると、荷風の墓は雑司ケ谷墓地にあり(父の墓か)、父祖の出身地である愛知県名古屋や三ノ輪のお寺には荷風の文学碑もあるらしい(208、250頁)。その他にも作品に登場するゆかりの土地に何か所かには、その手の碑があるらしい。
生粋の東京人かと思っていた荷風の一族が名古屋の出であるとは知らなかったし、荷風の文学碑を建立するなど贔屓の引き倒しではないかと思うが、文化勲章を受章したり、「断腸亭・・・」の中であんなに嫌っていたラジオの番組に出演して饒舌に喋ったりしたというから(161、200頁)、荷風の気持ちも戦後になって「断腸亭・・・」の頃とは変わっていたのかもしれない。
文化勲章の受賞によって、父親に顔向けできるような気持になり、父親にたいするコンプレックスから解放されたのかもしれない。
川本は、若い女性はほとんど荷風を読まない、荷風は「老人文学」「隠棲者文学」だからだろうと書いている(249頁)。荷風は、過去に戻ろうとしたのではなく、幻影の過去を作ろうとした「ノスタルジーの作家」であったとも書いている(105頁)。この評言にも共感する。
2024年7月4日 記