川本三郎「東京抒情」(春秋社、2015年)を読んだ。
本書は、「東京」をテーマにした「東京本」や、「東京人」をテーマにした「東京人」ものを川本が読みときながら、失われてしまった「東京」の残像を求めて川本自身が歩いて、彼自身の「東京」論を書き記した随筆集である。
第1部「ノスタルジー都市 東京」、第2部「残影を探して」、第3部「文学、映画、ここにあり」(第3部は「小説、映画に描かれた東京」といった内容)から構成されるが、いずれも川本の東京ノスタルジック・ジャーニーである。
東京は工業都市だったという指摘(34頁)は、ぼくの記憶とも一致する。
荷風が愛し、川本が愛する東京の下町ということで、ぼくが最初に思い出すのは江東区で発生した六価クロム公害事件である。六価クロムがどんな物質かは分からないが、クロムというからメッキなどと関係がある町工場から排出された有害物質ではないだろうか。
工業都市には当然労働者が多く住んでいた。学生時代、夕方の退け時の東横線車内で友人と教師の悪口を喋っていたところ、武蔵小杉(東京ではないか?)から乗ってきた労働者風の乗客に「偉そうな口をきくのはテメエで稼いでからにしろ!」と怒鳴られてしまった。当時の武蔵小杉は小さな工場が立ち並ぶ工場地帯だった。生意気な学生の物言いが不愉快だったのだろう。
鉄道の「頭端駅」という言葉ははじめて知った。終着駅、ターミナル駅の意味だそうだ。東急世田谷線では三軒茶屋が「頭端駅」とあるが(48頁)、ぼくの玉電の「頭端」は、一方は渋谷駅、反対側は下高井戸か二子玉川で、三軒茶屋は分岐点にすぎなかった。
聖蹟桜ヶ丘駅ホームが高架になったのは1969年だったというのも(83頁)、ぼくの思い出と合致する。聖蹟桜ヶ丘駅近くの老人施設に入っていた祖母が亡くなったのは、ぼくが19歳のまさに1969年だった。祖母を看取った帰りに、伯父を聖蹟桜ヶ丘駅まで車で送った。駅前にとめた車の中から見守っていると、しばらくして伯父が高架のホームに姿を現した。「秋刀魚の味」の石川台駅ホームの吉田輝雄のように、高架ホームに佇む伯父の映像が今でもありありと浮かぶ。
神田は古本屋だけの町ではなく、印刷所の町でもあったと川本は書く(151頁~)。神田が印刷所の町だったことをぼくは知らなかったが、神田は実は1万人以上の中国人が集まる中華街でもあった。孫文、魯迅、周恩来、蒋介石らが留学生活を送った神保町には孫文や周恩来の行きつけだった中華料理屋があり(漢陽楼)、周恩来の記念碑もある(愛全公園)。
板橋の章では、小豆沢(あずさわ)がカメラやフィルムメーカーの町として紹介されているが(165頁)、小豆沢こそ印刷所の町だろう。中山道の小豆沢交差点には凸版印刷があり、近所には小さな印刷所や製本所がいくつもあった。ぼくが出版社に就職した1974年には、凸版印刷ではすでにコンピュータ製版が導入されつつあったが、活字印刷の印刷所も残っていた。
入社直後のぼくは研修のため、志村坂上にあった東洋印刷という印刷所で、活字の鋳造から植字、文撰、版組み、印刷といった活字印刷のプロセスを見学させてもらった。東洋印刷は平凡社の東洋文庫などの印刷も手掛けていて、旧字体の多く含まれる書籍の印刷はここに発注した。わが社の執筆者の中に、名前の「亀」の文字を略字(新字体)にすることを許さない筆者がいたため、様々な大きさの「亀」の旧字体の活字が用意してあった。
西武池袋線の池袋駅と椎名町駅の間に「上り屋敷駅」(あがりやしき)という駅があったというのも驚いた(173頁)。西武線は池袋駅の手前、山手線の線路を跨いだ所から大きく左折して池袋駅に向かってけっこう進む。もしこの左折する所に駅があったら、池袋駅の雑踏を避けてここで降りて目白駅に向かうことができるのに、といつも思っていた。それがなんと昭和28年だったかまではこの近くに駅があったらしい。ぜひ復活してほしいけれど、無理だろう。
ぼくを映画に誘った飯島正「映画の話」(日本児童文庫)を出版したアルスの社長は北原白秋の弟で、林芙美子が社長宅の女中をしていたというエピソードもあった(204頁)。亡父はアルスから本を出したが、同社が倒産したために印税を払ってもらえなかったと言っていた。
五木寛之「風に吹かれて」に昭和30年頃の中野駅のことが出てくるとあった(207頁)。中野駅北口にも思い出はあるが、今はやめておこう。線路沿いの小学校の西向かいのアパートは今でもあるだろうか。
荒木町界隈の話題も懐かしい(261頁)。ぼくの勤めていた出版社は新宿区須賀町にあり、昼食をとりに四谷三丁目や荒木町界隈の食べ物屋にしばしば出かけた。戦争前に余丁町に住んでいたぼくの伯母は、「荒木町の角の三味線屋の飾り窓の畳の上に生きた猫が置物みたいに座っていた」と言っていた。確かぼくの編集者時代(1970年代中頃)にもこの三味線屋はあったように記憶する(猫はいなかった)。それ以外に三業地の名残りは見かけなかったが、消防署近くのビルの一室で怪しげなことをやっているという噂を聞いたことがあった。
関東大震災の際に、芥川龍之介は家族を守ったようなことを書いているが、実際には家族を残して一人でさっさと逃げ出したと奥さんが暴露しているという(179頁)。これだから物書きが書いたものは信用できない。
司馬遼太郎、吉村昭の話はスルー。
本書を出版した春秋社は、ぼくにとって思い出深い出版社である。というのは、学生時代に当時絶版になっていた田中耕太郎「世界法の理論」(岩波書店)を読みたいと思って探したところ、春秋社の在庫目録の残部僅少コーナーにこの本が載っていたのを見つけた。春秋社からは「田中耕太郎著作集」が出ていて、その中に「世界法の理論」(全3巻)も入っていたのである。
さっそくぼくはこの本を買いに出かけた。春秋社は、たしか御茶ノ水駅北口の東京医科歯科大学の近くにあったように記憶する。小じんまりとした二階建ての和風の社屋で、受付机の向う側には畳が敷いてあった。応対に出た社員が「これが最後の一冊です」と言っていた。
その後田中には興味がなくなってしまい、結局この本は読まないまま放置してあったが、その時に買った「商法学の特殊問題」と一緒に後輩の商法研究者にあげてしまった。
※ 53頁6行目の「まわりと」は「まわりを」だろう。もう1か所、どこかで有楽町の「交通会館」が「交通公館」となっているところがあった。
2024年7月26日 記