12月30日(土)午前5時15分ころ。
今朝もNHKラジオの「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」で目が覚めた。
ラジオから聞こえてきた声は最初は小島一慶かと思ったが、吉田照美だった。吉田照美は深夜放送をやっていただろうか? ぼくには記憶がない。昼間の番組だったように思う。
2人目は荒川強啓だった。彼はもともと山形放送のアナウンサーだったという。
彼も午後というか夕方の番組の記憶しかない。山形放送時代に、山形弁で喋ったら、山形弁をバカにするな!と投書されたことがあったとか。その後彼は徹底的に山形弁を勉強してマスターしたと語っていた。山形弁には置賜(おきたま)弁など全部で4種類あるそうだ。
むかし井上ひさしの「下駄の上の卵」を買ったものの、あの置賜弁で書かれた文章に辟易して十数ページで投げ出したことを思い出した。
3人目は宇田川清江という、ぼくの知らない人だった。
NHKの元アナウンサーで、「ラジオ深夜便」の第1期のアナウンサーだったという。
「深夜便」の番組開始時に指示されたことは3つだけ、1つは、民放のアナウンサーと違ってNHKアナウンサーのゆっくりした喋りをすること、2つは、リクエストは募集しないこと、3つは番組でかける曲は必ず最初から最後まで掛けること、この3つだけだったという。
リクエストは募集しなかったが、淡屋のり子の「別れのブルース」をかけたところ、視聴者から、このレコードを残して戦地に散った彼の思い出をつづった投書が来たことがあったという。番組で紹介したところ、その彼のイトコだと思うという方から返信があり、何とその彼は戦地から生還したが、結婚することなく独身のまま数年前に亡くなったと聞かされたというエピソードを紹介していた。
50年前に吉祥寺駅の改札口で出会った武蔵野女子学院の女生徒の思い出話どころの思い出ではない。
ラジオ番組で思い出したことをいくつか。
1つ、「桂三枝の深夜営業」という深夜放送もよく聞いていた。そのうち何回かはテープに録音してある。桂三枝もラジオに出るようになった最初の頃は面白かった。
2つ、土井まさるの「真夜中のリクエスト・コーナー」ではなく、夜の8時から10時ころの番組もよく聞いていた。ディレクターの金子さんという人が、ヨーロッパ旅行で見つけてきた当時イタリアで流行していたロス・マルチェロスの「アンジェリータ」という局を番組で紹介して、その放送がきっかけで日本でも流行した。
※「アンジェリータ」のレコードはいまだに見つからないのだが、このコラム用の画像ファイルの中にジャケットがあったので冒頭に載せておいた。ついでに同じ頃に人気があったジリオラ・チンクェッティのレコードジャケットもアップしておく(上の写真)。
3つ、深夜放送がはやる以前の洋楽を紹介するラジオ番組には、「ユア・ヒットパレード」とか「S盤アワー」とか「9500万人のリクエスト」なんていうのがあった。確か「ユア・ヒットパレード」の、「あのシーンをもう一度」というコーナーでは、「鉄道員」や「第三の男」などのクライマックス・シーンの音声が流れて、それに続いてサントラ盤でテーマ音楽がかかった。「東京田辺」(製薬)の提供だった。
「エデンの東」が1年間1位をつづけ、3年間10位以内にランクインしつづけたという伝説も「ユア・ヒットパレード」だったのではなかったか? 「9500万人の・・・」の当時は、日本の人口が9500万人だったのだろう。「S盤」というのは何の略称だったのだろう?
4つ、深夜ではないが、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という夜10時ころから始まる30分番組や、土曜か日曜の午前中に「キューピー・バックグラウンド・ミュージック」なんて番組もあった。今でもやっているのだろうか。パーシー・フェイス、フランク・チャックスフィールド、ビリー・ボーンなどがよくかかった番組である。
5つ、そういえばFM東京の「ジェット・ストリーム」もよく聞いた。城達也の時代である。エンディングの「ミスター・ロンリー」を聞いてからラジオを消して眠りにつく夜も少なくなかった。大沢たかお、福山雅治になってからは、城達也の頃とDJの喋りも、かかる曲もあまりにもイメージが違ってしまったので、ここ十年はほとんど聞くことがなくなってしまった。
2023年12月30日 記