ぼくは今年は喪中なので、お宮さんの初詣にはいかない。ただ、鎌倉のお寺さんには、いつものように散策させてもらっている。3日は、八幡さまには参らず、混み合う段蔓の若宮通りを避けて、一本、向こうの道を歩いた。八幡さま方面へのバスも正月はこの道を使うが、タクシー以外の車は入れないので、意外と静かだった。いつもこうあって欲しいと思う。
宝戒寺に入るとすぐに、ささやくような、でもリズミカルな声明の音が聞こえてきた。ふと見回すと、この小さな石灯篭からその音は流れてくるのだ。なにか仕掛けがあるらしい。普段は聞いた憶えがないので、お正月だけやっているのだろうか。お水取りの声明を想った。
そして、境内に入ると昼間というのに、かがり火の炎が。薪の炎は心をやさしくしてくれる。ほんわかした暖かさは、石油ストーブや電気ストーブのそれとは全然違う。そしてメラメラとかすかな燃える音が心地よくひびく。由布院の玉の湯の暖炉の炎を想った。
本堂の前の手水。鏡のようだった。音もなく。
ちょっと指を入れてみた。水面に波紋が拡がり、聞こえないはずの音が聞こえた。アメンボ耳になったのだろうか。
本堂の横に、水琴窟があった。杓子で水をすくい、石の上にかけると、ちんちろりんと、ひそやかな、やさしい水の音楽が流れてきた。
裏庭に回ると、古井戸が。まだ現役だった。何度か、ポンプを手押しすると、地下水がくみあげられてきた。手押しの音、流れ出る水の音。昭和30年代の、なつかしい音だった。水の音って、なんてやさしいのだろう、なんてなつかしいのだろう。
すると、ごーん、ごーんと鐘楼の音が冷たい空気の波紋にのって、アメンボの耳でなくぼくの耳に届いた。鐘の音は、ぼくのこころに共鳴して、いつまでもいつまでも響いていた。このお寺のシンボル、しだれ梅の向こうの鐘楼からだった。梅はまだ固いつぼみだった。
ふうっと、ひとつの風がふいてきて、しだれ梅の下垂枝をゆらした。さわさわと、かれすすきをそっとゆらしたときに、いつか聞いた風の音のようだった。
母が眠る、川崎の古寺と同じ宗派の宝戒寺で聞いた、新春の音はどれも心に染みる音だった。
。。。
帰る途中、リスくんが椿の蜜を吸っていた。耳をすましたが、チューチューという音は聞こえてこなかった。甘いのだろうか、こんど吸ってみようと思った。