先日、日本橋の高島屋で開催中の”北大路魯山人展”を観てきた。この展覧会の目玉は、ボルトガルから里帰りする壁画”桜”と”富士”で、ちらし絵を飾っている絵(上図)である。各展示場をぐるりと回って、出口近くにその壁画が、でんと目の前に現れた。魯山人がこうゆう絵も描いていたのかと感心したが、なによりも、そこに説明されていた、その絵の数奇な運命に心を奪われた。
魯山人が、70歳のとき(1953年)、貨客船アンドレ・ディトロン号の喫煙室と食堂用にふたつの壁画を作成し、船に飾る前に日本橋高島屋で公開した。そして、桜と富士は長い旅路に立ったのだ。そして、その船は昭和55年に廃船となり、解体中に、この壁画が、美術好きな現場監督の目にとまり、”救出”されて、現在までポルトガルで保存されていたのだ。そのことが2年ほど前に分かり、今回、57年ぶりに、高島屋で再展示されたというわけだ。こうゆうこともあるのだ。
この絵について、”いつも、人の絵を批判ばかりしてきたが、今度は俺のが批判される番だ”と、彼らしい感想を残していたそうだ。魯山人は、たしかにけんかっ早い人で、民藝運動の柳宗悦とも仲が悪かったし、かれの仲間、 富本憲吉にも、あんたの陶芸には進歩がないとけんかをふっかけている。富本ももらった人間国宝の次の年に推挙されたが、これもあっさり断っている。富本を批判する理由は、なんとなくわかる気がする。富本の作品には、多くの作家がそうであるように、彼独特の個性が常に現れていて、それは晩年まで大きく変わることはない。一方、魯山人の陶芸は、織部風であったり、乾山風であったり、志野であったり、備前であったり、染付であったりと、変幻自在で無個性といってもいい。ボクは一時、こんなオリジナリティーのない人が何故、有名なのか不思議に思ったくらいだ。
でも、最近は、無個性の”個性”がなんとなくわかるような気がして、彼の陶芸も好きになってきている。とゆうか、彼は、美食家の集まる”星ヶ岡茶寮”を主催していたほどの無類の料理家だから、当然、それぞれのお料理に合った食器をつくる必要があったのだろう。食器は、お料理の着物のようなものだ、という彼の言葉が展示室のどこかで紹介されていた。だから、お料理に合った食器をつくるのは、彼にとっては当然のことであって、あるときは小袖にしたり振袖にしたり、あるいは洋装に、文様だって、変幻自在でなければならなかったのだ。
実際、展示室では、その食器に盛られたお料理の写真も、その上に飾られていた。たしかに、大皿だけではみては、物足らないと思っていたものが、とても生き生きしているのだ。”用の美”だ。たしか柳宗悦も”用の美”だったけど(笑)。ついでながら、柳は江戸庶民が愛した、浮世絵を評価していなかったらしい。
とにかく、さまざまな食器、茶器、酒器(いいぐい飲みがあった;汗)、加えて、書、篆刻、絵と、トータルな魯山人を観賞できて、楽しいひとときだった。高島屋内のレストランで、ランチビールと何かを(わすれてしまった)食べた。
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昨日は東博で”洛中洛外図屏風(舟木本)”を観てきて、それを書こうと思って、PCの前に座ったら、急に気が変わって、魯山人展のことを書いた。川喜多半泥子展も書き残しているし、とにかく、そっちを片づけてしまおうと思ったのだ(汗)。
魯山人は、おらが大船(山崎)に晩年の30年を過ごしているのだ。その跡地は閉められたままだ。平成10年に、それまで管理していた人が放火して、家屋、窯等は焼失してしまった。当時のこの新聞記事の横に、ぼくの家の近くの松竹大船撮影所跡地に、寅さんの一周忌を記念してつくったタイル画の完成祝賀会の記事が載っていた。いつか、鎌倉中央図書館で、この新聞の切り抜き帳をみつけたのだ。